六日目 相談
——康介を送り、一人になった我が家で無気力に過ごし夜が明けた。
ろくに夜も眠れず気怠いまま仕事の準備を済ませ、会社へと向かう。
『今週は面会考えてないよ。次は来週かな。』
凛からのLINEに打ちのめされ、心が沈む。
「何でこんなに軽く言えるんだろ…。」
沸々と湧き上がる、怒りに似た感情を落ち着かせコンビニに寄った。
点呼を済ませ、トラックに乗り込む。
今日は弁護士への相談日。
上司にはこの日、昼に上がると伝えている。
弁護士事務所から言われた持ってきてほしいもの。
凛が残した書置きの手紙と実印。
そして、家を出ていく前の話し合いで、凛が書いたあの内容の紙。
【泊まりで家を空ける事に同意する。日中や、土日は関係ない】
【異性と関係を持っても不貞行為とみなさない】
【その息抜きの頻度は問わない】
その紙を写真に撮っておいたこともあり、俺は必ずそれを見せるつもりでいた。
何よりこれは、かなり重要な証拠になるのではないかと期待している。
俺に落ち度はなく、凛の勝手な行動で子供を勝手に連れだした何よりの証拠。
緊張はもちろんあった。それ以上に、凛の行いに違法性があるのではないかという思いの方が強く、早く弁護士事務所に行って話をしたかったのだ。
会社に戻り、自家用車に乗り換える。
もし、弁護士への相談が早く終わったのなら仕事に戻ろうと思い、点呼はしなかった。
弁護士事務所に行く道中、緊張のあまり喉が渇く。
きっと変な呼吸になっていたのだろう。
少し時間があったのでコンビニに寄り飲み物を買うついでにおにぎりを一つ購入。
おにぎりも高くなったな…。と思いつつ、最近値段の上がったいつもの煙草も購入し車に戻った。
凛とのLINEのやり取りを見ながらおにぎりを食べ終え、電子タバコを吸いながら車を走らせる。
ほぐれていた緊張は、事務所を前にして再び高まった。
自動ドアが開く。
デスクに座る二人の女性。
そのうちの一人が立ち上がり、迎え入れる。
「ご用は?」
静かな空間。物々しい雰囲気に飲まれそうになりつつ答えた。
「先日電話で相談した柴崎と言います。」
俺の声はやたらと響き渡り、場違いな感覚に陥ってしまう。
「あ、柴崎さんですね。ではこちらによろしいですか?書類なんかもありますので。」
仕切られただけの小さな応接間に通され、数枚の書類を渡される。
「こちら、一応法テラスの案内もあります。柴崎さんの年収次第ではこの制度が使える事もありますので、こちらに大体の年収をお願いします。それからこちらは…」
大まかな説明を受け、俺は人形のように「はい。」と繰り返し答えてしまう。
「では、書き終わったらまた声をかけてください。」
「はい。」
女性はデスクへと戻っていき、俺は紙と向き合った。
数枚の書類にサインをし、実印を押す。
「あの、書き終わりました。」
やはり、俺の声は場違いな気がする。
単に緊張してそう思うだけなのだが。
「弁護士の若松が来ますのでそれまでそちらにお掛けください。」
小さな応接間に戻され、若松先生が来るのを待つ。
何やら話し声が聞こえ、引き戸を開ける音が聞こえる。
「柴崎さん、こちらによろしいですか。」
「はい。」
応接間を出てすぐ横の、今度はちゃんとした部屋へと通された。
「こんにちは。弁護士の若松です。」
淡々と、俺の目をしっかりと見ながら若松弁護士が挨拶をする。
「は、はい。柴崎です。よろしくお願いします。」
恐る恐る椅子に座り、持ってきた書置きを机に広げた。
「えー、柴崎さんはどうしたいのですか?」
「…はい?どうしたいって言うのは…。」
突然の質問に思わず戸惑ってしまう。
「親権取りたいですか?って事ですよ。」
「あ、そうですね。親権は絶対欲しいです。」
「んー、厳しいと思いますよ。」
俺は驚いた。何もまだ話を詰めていないのに、何故こんな事を言うのか。
確かに、自分で調べた限り、色々と難しい問題がある事は知っている。
だが、弁護士からもそんな事を言われ、本当に戸惑った。
「そんなに…難しいんですか?」
「えぇ。ほぼ負け戦と思ってもらった方が良いでしょう。その方が、柴崎さんの心のダメージは減ります。」
心が折れそうだった。
でも、これを見てもらえば何か若松弁護士の意見も変わるかもしれない。
「待ってください。実は、嫁が家を出ていく前に話し合いをしまして…その時に嫁が書いた紙がこれです。」
携帯の写真を見せ、若松弁護士の反応を伺う。
「…なるほど。まぁこれは良い証拠にはなりますが、必ず親権を取れると言う事ではありません。」
「…そうなんですか?でも、勝手に子供も連れ去ってますし…あ!そういえば貯金通帳も勝手に持って行ってます。洗濯機も炊飯器も電子レンジも。」
「それは親権には関係ありません。別に違法って訳でもないですし…。」
「違法ではない…?そうなんですか?」
俺の勢いがどんどん弱っていくのを自覚する。
「まぁ良くもないけど悪くもないって事ですかね。」
この辺りから、俺は頭の中が真っ白になっていく。
「うーん、どうしますか?依頼していただいても良いですけど、さっきも言ったように期待はしない方がいいです。」
心臓が早くなる。俺は、今何を言われてる?
親権を取るのは無理で、子供や貯金通帳、家電を勝手に持って行ったことは完全なる違法じゃない?
詰みだと思った。
あの紙すらも、何も意味がないのだと言われた気がして。
「…後悔はしたくないので、依頼させてください。」
若松弁護士の目は見れなかった。
「分かりました。家庭裁判所から郵送で日時の案内が届くはずなので、それが届いたらまた来てください。その時に打ち合わせをしましょう。」
「…はい。」
席を立ち、若松弁護士の顔を見る。
「…親権を取るのって、どうしてそんなに難しいんですか?」
若松弁護士は少し間を空ける。
「やはり、日本はまだまだ母親が強い。…そういう事です。」
苦笑いをしたのか、真顔だったのか、怒ったような顔だったのかは分からない。
胸に空いた穴の中に、少しずつ暗い感情が入り込んでいく。
「…ありがとうございました。また、よろしくお願いします。」
若松弁護士は少し頭を下げて俺を見送った。
部屋を出て引き戸を閉める時、若松弁護士は難しい顔で書類に目を通していた。
「あ、柴崎さん。」
事務員に声をかけられ足を止める。
「次来る時、また電話で予約してください。日程を決めますので。」
「はい…。分かりました。よろしくお願いします。」
俺は頭を下げながら事務所を出て、車に乗り込んだ。
「はぁ…。」
仕事を一時抜け出した現在の時刻は昼の十四時三十分。
上司に電話し仕事に戻る旨を伝えた。
気分が優れない。晴れない。前を見れない。
とにかく全てに対して嫌気がさしていた。
凛はどこまで計画的に動いていたのだろう…。
常に先手を取られている気がして悔しかった。
もう、康介と暮らせないのか…。
そんな事を考えていると、また涙が溢れ出す。
仕事に戻った俺は、三人の同僚にお礼としてコーヒーをおごった。
「ありがとうございました。今月はあともう一回ご迷惑かける日があるかもしれません。」
「柴崎、お前が一番大変なんだ。気にすんなよ。」
「そうそう。お礼とかもいらんぞ?お金かかるんだろ。節約をしなさい。」
「ありがとうございます…。本当に。」
同じ班の人達には事情を説明していて、迷惑をかけることも伝えていた。
「で、弁護士はどうだった?」
上司に問われ、俺はありのままを伝えた。
「そんなに厳しいのか…。明らかに嫁さん側が不利な気もするけどな。」
「俺もそう思ってたんですけどね。中々難しいみたいです。世間には『連れ去り勝ち』なんて言葉もあるくらいですし。」
「そうか…。俺だったらすぐ相手の家を特定して怒鳴り込むかもな。」
笑いながら話す上司。
「そういう男がいるから母親に親権がいきやすくなっちゃうんですよ!」
本心だった。
男は感情的な生き物。
そう捉えられるような振舞いを男側がしてきた事も否めない。
職場の人達には笑って振舞うが、心の中のモヤモヤは晴れないままだった。
仕事を終え、家の近くを走らせる。
天気が良く、夕方になっても気温は高いが散歩をしたくなる。
康介と歩いて近くのコンビニに行った事を思い出した。
行き交う車やトラックを指差し、トミカのおもちゃで蓄えた車の知識を存分に発揮する康介。
「ぷりうす!」
「くらうん!」
「しえんた!」
「まつだ!」
何故かマツダの車だけはメーカー名で答えていた康介。
滲む涙を軽く拭き家の駐車場に車を止め、降りる。
ポストの細いガラス部分から見える茶色い封筒。
「あ…。」
定形外のその封筒は二通きており、どちらも同じ差出人。
【家庭裁判所】
心臓が一瞬ドクンと高鳴り、俺はそそくさと家に入って行った。
テーブルに封筒を置き、上の部分をゆっくりハサミを使って切っていく。
恐る恐る中身を取り出し、書類をテーブルに置いた。
申立人 柴崎凛
最初に目についたのはこの名前。
将来を誓い合った人と争い子供の親権を奪い合う。
言い方は悪いがその現実が俺の肩にのしかかる。
年収八十万。賃貸四万八千円。
凛の年収と今いる賃貸の家賃。
そして、離婚理由の欄。
◎セックスレス
◯性格の不一致
離婚理由の最大の要因として、◎がそれにあたる。
凛の場合はセックスレスをあげていた。
「…は?」
俺は素直に疑問だった。
夜の営みは昔から俺から誘っていた。
凛は自分からは誘えないからと。
しかし、ここ一年近くは拒絶されてばかりであった。
毎回断られ、俺は誘うのも億劫になってしばらく誘わなかった時、凛と喧嘩をした。
「もう私の事誘いもしないんだね。」
「いや、え?…誘っても拒否られるから。俺だって毎回誘われたら結構傷つくよ?」
「じゃあもうしないの?私がしたい時、誰とすればいいの?」
俺は少しムッとした。
「いや…じゃあさ、したい時は凛から誘ってよ。俺は断らない。もし誘うのが無理なら、何かサイン決めとく?それなら口に出して誘わなくて済むでしょ?」
「は?なんで私から誘わないといけないの?」
俺は何も言えなかった。
無駄な事だと、そう思ってしまった。
「…まぁ俺から誘うよ。」
一ヶ月に二、三回誘って全て断られるこの悲しみを、凛は理解しているのだろうか。
「男が誘うのは当たり前だよ。」
「はいはいそうだね。」
その返事が凛のしゃくに触り、その後も喧嘩した記憶。
この離婚理由、もしかしたら親権は取れるかもしれないと、期待をしてしまう。
弁護士はまだ知らないんだ。昔の出来事も分かりやすくまとめておいた方がいいのかもしれない。
俺は携帯に入っている録音データを開いた。
三、四年前の、一年間の記録。
一番最初の録音データの再生ボタンを押そうとした時、LINEの通知音。相手は美沙ちゃんだった。
『どうだった?弁護士。』
『結構厳しいみたいだよ…負け戦だと思って下さいって言われた。』
『そうか…。電話いい?』
録音データの事が頭をよぎり、少し迷ったが俺はLINEの通話ボタンを押した。
「もしもし。お疲れ様。」
短めのコールで美沙ちゃんは電話に出た。
ここのところほぼ毎日電話しているので、声を聞くだけで安心できる存在へとなりつつあった。
『男の人って親権取るの難しそうだよね。私の周り、シングルマザーはいるけどシングルファザーっていないもん。』
「…理由はどうあれ、母親が親権を取りやすいって弁護士も言ってたからね。」
それから少し、沈黙が続いた。
「あ、そういえば調停の案内が家裁から届いたよ。来月の頭だった。」
こんな暗い話ばっかりで美沙ちゃんは楽しいのだろうか?
そんなことを思いながら、今日も寝る前まで電話を繋げていた。




