五日目 面会
——朝六時、目覚ましの音でハッとなり目覚める。
すぐにソファから立ち上がり、歯を磨いて顔を洗った。
寝癖を整え洋服に着替える。
炊飯器がないので朝食は諦め、買うものリストに炊飯器を加えた。
台所を一通り掃除し、洗面所、トイレの順に綺麗に掃除をしていく。
そこで俺は改めて思ったことがあった。
誰かの為にならこんなに動けるんだな、と。
ソファで一息つき、時刻を確認する。
七時二十分。
待ち合わせ場所はここから二十分程の場所なので、俺は数日振りにコーヒーメーカーをセットしてコーヒーの準備をする。
この家を建てた時に買ったコーヒーメーカー。上の部分には少しだけ、埃がかぶっていた。
『おはよう。』
美沙ちゃんにLINEを送り、テレビをつける。
夏のシーズン。子供連れの家族が楽しめるレジャー情報を発信している。
参考までにその番組を見ていると、LINEの通知音。
『おはよー。今日何時から?』
『九時から。美沙ちゃんは今日何するの?』
昨夜あんなに話しておいて、次の日の予定を聞いてなかったことが少しおかしく、笑ってしまう。
『んー、観葉植物見に行ってこようかな。天気もいいし。』
『良いね。今度俺も観葉植物買おうかな。』
『お、買うー?たくさん種類あるからね。分からないことがあったらどんどん聞いて良いよ。』
電話の向こうで嬉しそうに話す美沙ちゃんに、つい心が和んだ。
嫁さんともこんな会話が出来ればという思いが湧いてくる。
『時間あるならさ、少し電話しようよ。』
時計を確認し、俺は美沙ちゃんに電話をかけた。
『おはよー。』
ふにゃふにゃと柔らかい美沙ちゃんの声。
「おはよ。完全に寝起きの声だね。」
『今起きたからねー。なに?なんか悪いの?』
美沙ちゃんは笑いながらわざと喧嘩腰に聞いてくる。
「えー、別に。ただ面白いなって。」
『何だよそれ。』
嫁さんと美沙ちゃんを重ねてしまう。
結婚してたのがもし美沙ちゃんだったらこんな事にはなってないんじゃないだろうか。
俺は幸せに暮らしてたんじゃないだろうか。
『ねぇ聞いてる?』
「え、あぁごめん。朝ごはんはウインナーと目玉焼きを食べたよ。」
朝食を聞かれ、ぼーっと考え事をしていた俺は食べてもいない朝食を食べたと、適当にそう答えた。
「そろそろ準備するよ。今日観葉植物見にいくでしょ?気をつけてね。」
『はーい。雄大くんも子供との面会楽しんでね。』
電話を切り、ソファにもたれかかる。
美沙ちゃんだったら…。嫁がもっと冷静に話を聞いてくれる人だったら…。
結婚なんか、しなければ…。
俺は考えるのをやめ、少し早めに家を出た。
待ち合わせ場所に向かい車を走らせる。
嬉しい気持ちと、俺のことを忘れていないか不安な気持ち。
少しは気まずかったりするのかな?俺が泣いてしまえば康介が戸惑ってしまう。
絶対に泣かないように…。
九時開店の、大きなホームセンターの駐車場。
ちらほらと車が停まっている。俺は店の入り口から遠い場所に車を停めた。
会ったらまず何をしようか。
朝ごはんは食べたかな?
炊飯器がないからお昼は買うか。
買っとくべきだったな…。炊飯器。
道路から右ウインカーを出して駐車場に入ろうとする嫁の車。
来た。
俺は車を降り、後部座席に座る康介の顔をスモークガラス越しに見続けた。
涙は見せない。涙は見せない。涙は見せない。
嫁と軽く目を合わせ、後部座席のスライドドアを開けた。
「パパ!」
「康介…。久し振りだね。…ね!」
抱き上げ、抱きしめる。
自然と涙が溢れたが、康介の小さな体の感触を確かめるように抱きしめ続けた。
「帰りは夕方過ぎで良いから。またLINEして。」
淡々と言い放ち、車に乗る凛。
「康介、取り敢えず店に入…「ママ…。」
俺は驚いた。
三人で一緒に暮らしている時、康介はそんな事を言ったことがない。
俺が休みで凛が仕事の日、康介はあっさりと「いってらっしゃーい」と言っていた。
凛からすると、その差にイラついていただろう。
俺が仕事に行くとなると、康介は泣きじゃくりながら「嫌だ。パパが良い!」といつも言っていたから。
寂しそうに、凛の車を見送る康介。
「…康介、一旦お店に入ろうか。」
俺は明らかに動揺しつつ、康介を抱っこしたまま店へと入った。
店内に入り康介を下ろそうと身を屈めた。
「嫌だ。抱っこ。」
今までは康介のそんなワガママに、「えー、ちょっとは歩いてよ。」と言っていた。
「もっと抱っこー?良いよ。」
四歳児の体重は結構重たいが、今の俺にとっては何よりも感じていたい重さだった。
ママがいない寂しさを少しでも早く忘れられるように、俺はホームセンターの中の小さなお菓子売り場へと向かった。
適当なスナック菓子と、小さなグミ。
お菓子を選ぶ時だけはちゃんと歩く康介。
数日振りの抱っこもいいが、歩く姿も見たい俺は、康介と一緒に歩いてレジへと向かう。
康介と店員が交わす平和な会話。
「はい、どうぞ。」
お菓子を康介に渡す店員。
「ありがと!」
笑顔でお菓子を受け取る康介。
幸せを感じる。
平日の孤独がまるで嘘のように。
「ばいばい!」
店員さんに手を振り出口へと手を繋いで歩く。
ママのいない寂しさは消えただろうか?
我慢しているかな?
三人が良いと思ってるよなきっと…。
考えれば考えるほど悔しさが込み上げた。
「康介、朝ごはん食べた?」
「食べてない。」
俺は頭の中で、だろうな。と、何となく答えは分かっていた。
「何食べる?パンでも良い?」
「いらない。お菓子食べたから。」
…凛は、康介が中々素直にご飯を食べてくれない時、「最悪お菓子でも良い。」と言う人だ。
腹が満たされれば何でも良いというその考えに、「ご飯食べずにお菓子はダメじゃない?」と言って、子育ての価値観が違いすぎると喧嘩になることがある。
凛とは、子育ての価値観が合わなかった。
「雄大は甘すぎる。」
「雄大が怒らないから康介が懐いている。」
何度も言われた言葉だった。
俺は怒らないわけじゃない。ただ、怒鳴ることと叱ることは違うと思っていた。
それでも、凛と意見がぶつかるたび、最後には俺が謝って終わらせていた。
車に乗り込み、後部座席のチャイルドシートに座らせる。
「ベルト、今してないよ?」
「え?」
チャイルドシートのベルトをつけようとした時、康介は首を傾げて俺の目をじっと見た。
「ベルト、いつもしてないの?」
「うん。」
心にモヤが広がる。
「今日はベルトしようね。あ、お腹すいた?朝ごはん何食べる?」
「お菓子!」
少し気を逸らし、素早くカチッとベルトを締めた。
康介は不服そうにベルトを手で触っている。
「ママの時はしないのにな〜。」
「パパはするの。じゃあ行こうか。」
俺は胸の奥に、言いようのない不安を感じていた。
ホームセンターを出て、先程買ったグミが食べたいと言いだす康介。
「えー、家に着くまで我慢して。」
今までは当たり前だった会話。
今はそんなやり取りも、無性に愛おしい。
赤信号が少しずつぼんやりしていく。
大雨の中、フロントガラスを流れ落ちる水のように。
瞬きをしたら、視界が少し開けた。
頬を拭い、ルームミラーで康介を見る。
周りの景色を眺めるきみ。
その面影は、会えなくなってまだ数日しか経っていないが、とても懐かしく思えた。
パンを買うのを忘れ、家に帰る。
「ごめん、忘れちゃった。昼ごはんを少し早めに食べようか。」
久し振りのお家。
康介は玄関まで走り、まじまじと家を見つめていた。
「こうすけのおうち、今小さいよ。」
「…へー、そうか。康介のお家、小さいんだ。」
一瞬思考が停止する。
この家は、もう康介の家じゃない?
まだ一週間も経っていないのに。
こんなにも、子供の環境に対する適応力は早いのか。
俺は動揺する気持ちを抑え、玄関を開けた。
「ただいま!」
靴を脱ぎ、家の中に入っていく康介。
「こうすけのおうちよりひろーい。」
また、康介のお家と言った。
「康介のお家ってここじゃないの?」
康介は首を横に振る。
「ここは、パパのおうち。」
凛の顔が目に浮かぶ。
あの情も涙もない、女の顔が。
「YouTube見たい。」
康介に言われ、俺はいつものように子供用のYouTubeをテレビで開いた。
無心で操作する俺に、康介はぼそっと呟く。
「今普通のYouTube見てるよ。」
もう訳が分からず、困惑した。
「えぇ…?ママ見て良いって言ったの?」
「うん。いつも見てる。」
「…ご飯の時も?」
「うん。」
最悪だと思った。
普通のYouTubeは教育に良くなさそうな動画があるので、見せる時は子供用を見せていたのに。
ご飯の時に見せると食べなくなるので絶対に見せないようにしていたのに。
「えー、YouTube見るの?やっぱり外で遊ぼうよ。」
康介は少しためらい、「うん。」と頷いた。
何かが違う。
康介の反応、俺の心情。
凛が康介を連れて家を出ていく前と比べ、確実に何かが変化していた。
「ラジコン!」
康介は倉庫を開けようと引き戸に手をかける。
「待ってよまだ鍵あいてないってば。」
せっかちな康介に笑いかけ、玄関の内側にかけた鍵を手に取る。
鍵をあけ、倉庫を開けると康介は真っ先にラジコンを手に取り地面に置いた。
そして、中に立てかけられた虫網に指をさす。
「あとでトンボも捕まえよう!」
かちゃかちゃとラジコンのコントローラーを鳴らしながら、俺の顔を生き生きと見る康介。
俺はおかしくなり、笑いながら地面に置かれたラジコンを手に取る。
「康介、まだ電源入ってないよ。」
ラジコンの下についた赤いスイッチをオンにして、再び地面に置いた。
「おぉ、ほんとうだ!」
俺は無邪気に笑う康介をしっかりと目に焼き付け、虫網と虫かごを取り出した。
康介と今、過ごせているのが嬉しい。
康介と今、過ごせてる凛が憎い。
無邪気な笑顔を見ると、少し切なくなる。
それでも、やっぱり楽しかった。
揺れる感情を自覚しながら康介と接する俺。
…俺が一番、関わり方が変化しているのかもしれない。
楽しい時間はあっという間に過ぎていき、凛の元へ向かうため車に乗り込む。
「…この家が良い。パパが良い。」
「…康介、好きだよ。パパ仕事が忙しくても、ずっと好きだよ。」
溢れ出る涙は止められない。
エンジンをかけ、車を走らせる。
康介が好きな音楽を流した。
少しでも気が紛れれば…。辛いお別れはしたくない。
徐々に陽気になり、歌い始める康介。
曲が終わればもう一度。
車内は賑やかになり、その分俺の心にはモヤがかかっていた。
「…ママだ。」
待ち合わせ場所には凛の車がすでにあり、康介はすぐに気付いた。
車を横につけ、俺は車を降りる。
凛に軽く手を上げ、後部座席へと向かった。
「…いやだ。」
頑なに降りるのを拒み、しまいには泣き出す康介。
「こうなるの分かってたでしょ?早く何とかしてね。」
凛は面会を希望した俺が悪いという口ぶりだった。
「康介、パパお仕事頑張ってくるから。また休みの時遊ぼう?」
ベルトを外し、康介を持ち上げる。
「パパが良い!パパー!」
凛の表情が曇っていき、そのまま運転席に戻って行った。
「ごめんね、仕事が忙しくなければね。…ごめんね。」
凛に気を遣いながら、凛の車に康介を何とか乗せる事が出来た。
泣きじゃくる康介。
「私の車に乗せるだけでどんだけ時間かけてんの?本当情けない。」
凛の言葉を受け流し、康介と抱き合う。
「またね。ビデオもしようね!」
「パパ!パパ!」
悲しすぎた。ただ、悲しかった。
俺は振り切るように康介から離れ、電動のスライドドアを閉めた。
ゆっくりと、泣きじゃくる康介と引き離されていく。
「またね!康介!ばいばい。」
車内からは泣きじゃくる康介の声が響いている。
そして、凛はこちらに目を向ける事なく車を発進させた。
遠くなっていく康介を乗せた車。
俺は人目もはばからず、涙を流しながらずっと見ていた。




