三日目 堕ちる。また、上がる
——分かっていた。
どれだけ目を閉じても眠れなかった。
長い長い夜。携帯の目覚ましが俺を助けてくれる。
「…やっと、仕事…。」
鏡に映る、歯を磨く俺。
顔を作っている訳ではないが、どうしても目が暗くなる。
最後まで、虚ろな目をした俺と目が合い続けた。
コインランドリーに持っていくのを失念していた俺は、前日の制服を着る。
汗の匂いが鼻を刺激し、やけに着にくい。
朝から嫌なことばかりだなと薄く笑い、二着しかない制服は今後必ずコインランドリーに持っていく事を心に決めた。
また、エナジードリンクを購入。煙草とコーヒーと小さなお菓子も一緒に購入した。眠気覚ましのつもりで少し辛めのスナック菓子。
今日もまた、無意識のまま仕事をこなし、家へと帰る。
その道中、会社の人から電話が入る。
信号待ちであった為スピーカーにし電話に出た。
「もしもし、お疲れ様です。…あぁ、今週の土曜日、一八時からですよ。」
一ヶ月前から予定していた飲み会の日時の確認。
集まった数は一六人。俺は、幹事を引き受けた事をこれほど後悔した事はなかった。
憂鬱な気分のまま家に帰り、制服を玄関に投げる。
すぐさま新しい服に着替え嫌悪感から解放された。
ソファに座り一息つき、ふと携帯の写真フォルダを開く。
沢山の写真と動画で君が無邪気に笑う。
家を出ていく二日前の日曜日。二人で出かけた渓谷で、水をパシャパシャと足で蹴りあげる君の姿。
カニを探そうと提案した俺に、うん!と返し岩の下を必死に探す君の姿。
大きな岩に苔がつき、その前でピースをしてる君の姿。
指を動かしさらに遡る。
虫網と虫かごを持って近所を散歩し、トンボをたくさん捕まえ満足気に笑う君。
虫かごに入ったセミとバッタとトンボを少し、怖がりながら見つめる君。
小さなカルピスの缶を片手に満面の笑みを浮かべる君。
たくさんの思い出が脳裏によぎり、涙が止まらない。
「あ、あぁ…康介…。」
声に出すと、更に涙が溢れ、俺はソファから立ち上がる。
携帯を片手にウロウロと家を徘徊し、康介のタオルに顔を埋める。
この家に残されたたった一つの康介のタオル。
康介の残された一足の靴に涙し、おもちゃに涙し、小さなお皿に涙し、全ての痕跡に涙を流した。
嗚咽が止まらない。
涙が止まらない。
やばい。
このままじゃ俺…。
タオルの入った収納ボックスに駆け寄り、一枚のタオルを取り出した。
リビングに行き、携帯に映る君を視界に入れ、微笑みながら涙を流す。
「康介…何で…。会いたい、会いたい、会いたい…。」
タオルの端が後ろに来るように首に巻きつけた。
何も考えられない。頭の中はもう…。
首の後ろでタオルの端を掴み、一気に首を締め付けた。
力は緩めない。このまま一気に。
だが、力は急に抜けた。
意図せず緩めた瞬間、脚の力が抜け床にうつ伏せで倒れる。
肩とお尻が力強く痙攣しているのが分かる。
あぁ、これは死ぬのかな。初めての感覚だ…。
目は上を向いている様に思えた。
意識は少し飛んでいた様に思える。
床に手をつきそっと体を起こす。
ぼーっと目の前のソファを見つめ、目線を下に下げた。
俺はもう、限界を感じていた。
死ねなかった。だが、死にたくなかった。
康介との未来は途切れる事なく繋がり続け、俺はちゃんと生きている。
また、涙が止まらなくなった。
少しお腹が空いた。
そう思い冷蔵庫の食材を久し振りに確認する。
買い物をしてないせいで食べれる物は何もなかった。
この日は野菜だけをただ炒めた。三日振りの食事はとても味気ない物だった。
またソファに座る。
誰かと話したい気持ちが昨日よりも強くなり、独身時代によく使っていたアプリを思い出す。
誰かと繋がれる通話。常に誰かが何かを呟く掲示板。俺は、数年振りにそのアプリをインストールした。
ふとした瞬間、先程の事を思い出す。
俺は馬鹿なことをしたと思っていた。でも、またそうなる可能性がある事に恐怖していた。
ダウンロードしたアプリを開き、起動してみる。
前と変わらぬ操作性だが、掲示板に画像を貼れるような仕様に変わっていた。
他は何も変わりなく、俺は誰とでも話せる通話ボタンを押した。
アプリ専用の発信音。
独特な音楽が止まり、相手が見つかった。
しかし、マッチする事はなく次のコールが鳴り響く。
また、次の相手が見つかった。
俺は通話のボタンを押すと、すぐにマッチして電話が繋がる。
「…もしもし?こんばんは、初めまして。」
相手の女性の声は、クールな雰囲気の声だった。
「今何してましたか?」
当たり障りのない会話を続け、俺は少し踏み込んだ。
「ねぇ、ちょっと俺の話聞いてくれますか?」
今から話す内容は、普通の人には重い話。
相手は快諾したが、俺はもう一つ言葉を付け足す。
「少し重い話かも。本当にいい?」
相手はまだ快諾してくれた。
名前は出さず、今の俺の状況全てを話した。
相手は俺に共感してくれた。
素直に嬉しいと思い、少しだけ気分が晴れていく。
この日、結局相手が寝るまで会話が続き、電話を切ったあとは俺もすぐに眠りについた。
久し振りに味わう意識が遠のく感覚に、心地よさを感じて。




