二日目 未だ心落ち着かず
——食欲は失せ、シャワーを浴びてソファに座り、ただ時間だけが過ぎていき、仕事の時間になった。
目の前の散らばった康介のおもちゃをぼーっと眺め、ゆっくりと立ち上がる。
無気力。
磨きたくもない歯を磨くのは毎日の習慣による義務感。顔を洗うのは眠気覚ましを兼ねた、ただの儀式。
ふらふらと制服に着替え、もう一度ソファに座る。
こんな時にも、遅刻をしてはいけないという何とも哀れな社畜精神。
普段は換気扇の下で吸っていた電子タバコ。リビングで吸う電子タバコは格別に美味しく、虚しいものがあった。
全ての家の電気を消し、玄関の扉を開ける。
深夜三時半。夏真っ盛りのこの時期は、ジメジメとした不快感で本当に嫌になる。
車のエンジンをかけ、二階の窓を見上げる。
凛も康介もいない我が家。外から見える、カーテンの隙間から漏れる豆電球の僅かな灯り…。
先日までの、日常風景はそこにはもうなかった。
——流れる様に、無意識のまま出社し点呼を済ませトラックに乗り込む。
四年繰り返してきた、ごく当たり前の行動。そこに考えることなど何もない。
寝不足のせいか、頭がぼんやりする。涙が滲むたびに、前方へ意識を戻した。
山道に差し掛かり、少し気を張る。
鹿がよく餌を求めて山から降りてきているのを見るエリア。
こんな時に事故を起こしたらもう立ち直れない。
パッとしないまま何とか山を越えた。
田舎の町中の、いつも寄るコンビニに立ち寄りエナジードリンクとコーヒーと、煙草を二箱。
よく話す店員は、煙草が二箱である事に少し驚いていた様だ。
俺は一日一箱と、決めていたから。
コンビニを出てトラックを走らせていると、上司から電話。
コールが四回鳴ったところでようやく受話ボタンを押す。
「もしもし。おはようございます。」
昨日、早速弁護士に電話をして相談に行く事。
その相談日、仕事を早めに切り上げる事。
そして最後に、迷惑かけてすみません。とお決まりの言葉で締めくくった。
嫌になる。
荷物を下ろし会社に戻り、翌日の積み込みをしてその日は少し早めに切り上げた。
落ち着かない。家に帰ればもしかして…。
スーパーにも寄らず、家に帰り着く。
無駄に広い駐車場は、どこか寂しげに見える。
車を停め、近所の目を若干気にしながら車を降り、足早に玄関に向かう中、素早く後ろを振り返る。
ポツンと佇む一台の白い軽自動車は左の壁側にポツンと停まり、右側の空いた広い空間が何とも虚しい。
俺は切ない気持ちに胸を締め付けられながら玄関のドアノブに手をかけた。
玄関に入り、鍵を閉め靴を脱ぐ。
「…ただいま。」
試しに放った自分の言葉は予想以上に虚しくて、つい顔をしかめる。
朝、家を出た時と同じ光景。
弁護士への相談は来週の月曜日。現在水曜日。
落ち着かない心を無理やり抑え、またソファに座りぼーっとし、ようやく立ち上がったかと思えばテーブルの椅子に腰掛け虚無に浸る。
不意に康介との日々が頭の中に去来し、不安な気持ちが一気に押し寄せた。
携帯を手に取りLINEを開き、凛のトークルームを開いた。
『何で、俺と康介を引き離したの?』
この家から保育園までは徒歩三分。迎えに行こうと思えば行ける距離だ。
しかし、もしもその事が親権争いに関係してこちらが不利になったとしたら…?
容易には行動に移せず、SNSである言葉を検索する。
【嫁が子供を連れて家を出ていった。】
検索ワードに引っ掛かり、出てきた動画に衝撃を受ける。
『実子誘拐の闇』『悪徳弁護士の実子誘拐への手引き』
『連れ去りが正当化される日本』『連れ去りは違法です』
様々な動画の中には必ずと言って良いほどこの言葉が並んでおり、俺の中である考えが浮かび上がる。
これ、調停で違法とみなされれば親権取れるんじゃ…。
今度は検索ワードを少し変えてみる。
【子供を連れ去られる 親権】
出てきた動画は先程と同じ様な動画で、見出しの文字にはこう書かれていた。
『連れ去り勝ち』
その後、調べていくうちに、住民票の閲覧を制限する制度や、子供の生活環境の継続性が考慮されることを知った。
例え連れ去りだとしても、子供の今の生活が安定していれば、それが考慮されるらしい。俺には、そう思えてならなかった。
俺は悔しさと不安で一杯になりながら、絶望する。
それならば、連れ去る前の子供の安定した生活は無視なのか?
連れ去った先での生活した安定というものは、何の落ち度もなく連れ去られた人間からすれば悪なのでは?
凛の計画性と、情の欠けらもないこの行いに怒りが湧き、顔を掻きむしる。
そして、もう一緒には暮らせないんじゃないかという現実に、俺は家の中を歩き回り静かに嘆く。
「康介…康介…。」
声に出せば出す程に流れる涙。
このまま俺は、壊れてしまうんじゃないかと考えると、何故か少しだけ冷静になれた。
大丈夫。俺はまだ精神が壊れる程には参っていない。
気を紛らわせようと消えた家電の後に残る埃へと目をつけた。
クイックルワイパーでちゃちゃっと拭き取ろうと、キッチンシンクの引き出しを開けた。
俺の住む地区のゴミ袋と、まな板と二組の包丁。食器洗剤のストックが一つに台拭きが一枚。
俺は納得した。
そうだよな、こういうのも持って出ていったんだよな。
食器棚を開ける。一人分のお皿が数枚と家族三人で使っていた味噌汁椀。
この家に残った物を冷静に確認する時は涙は出ない。俺は続けてコンロ下の引き出しを開ける。
大きな鍋が一つ。おたまが一つ。木ベラが一つ。
調味料もなくなっており、俺はその場にへたり込んだ。
脱力したように手だけをキッチンボードに乗せ、ため息をつく。
三秒程固まり、台拭きを手に取る。
水で濡らし十分に絞った台拭きを持ち、心を無にして埃を取り床を拭いた。
ゴシゴシと揺れる身体。
ポタポタと真下に落ちた涙を止められず、しばらく同じ箇所を拭き続けた。
食欲は今日も湧かず、冷蔵庫を開けると康介が毎日飲んでいた麦茶が目に入る。
俺はぼーっと手を伸ばし、コップに注ぎぼーっと飲み干した。
面倒な風呂を済ませ、今日こそはしっかりと眠りたいと思いソファに横になる。
目を閉じるが全く眠れる気配がない。
不安に押しつぶされそうになり落ち着かず、頭の中はごちゃごちゃと考えが巡る。
携帯を手にテーブルに座り、気分が晴れないと検索した。
出てきたサイトは、寄り添い相談。
何でも相談に乗ると言う国が運営するサイトのようだった。
誰かと話したい。
その一心で電話をかけた。
コール音がやけに心地よく、それだけで誰かと繋がっている気がした。
「混み合っております。また後ほどお掛け直しください。」
俺はその後もしばらく電話をかけ続けた。
何回も何回も期待をし、その度に虚しい気持ちになる。
サイトを閉じ、外に出た。
まだ蒸し暑く汗ばむ夜、隣の家にライトがついた。
隣のご主人はタバコを吸う時外に出る。
俺は隣のご主人に見つからぬ様そっと家の中へ入る。
今はまだ、身近な人に会う事は怖い。
何故、どんな時に自殺をしたくなるのか。
俺がもしそう聞かれたら、答えは決まっている。
大切に思っていた人と引き離され、自分勝手に人を傷つけた奴の、思い通りに事が進んだ時だ。
そんな事を本気で考える程俺は今、押し潰されそうになっていた。




