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一日目 埃

——仕事を終え、トラックで帰り支度をしていると突然激しい横揺れが襲う。

 誰かイタズラでトラックを押している?

 しかし、その疑惑は目の前の電柱が揺れていた事ですぐに晴れた。


 凛は地震が大の苦手だ。なので地震だと分かった瞬間、俺は凛に電話をかけようとすぐに携帯に手を伸ばした。


 …だが、未だに凛から折り返しの電話はない。

 この事実は家を出ていったという疑惑を確信に変えるのには十分だった。

 胸のざわつきは止まらず、携帯から手を離しすぐに会社で点呼を受け自家用車に乗り込みエンジンをかける。


 帰れる。家に帰って確認できる。


 何故か無性に叫びたくなる気持ちを抑え、ドライブシフトに入れた瞬間俺の携帯から着信音が車の中に響き渡る。

 凛…!


 携帯の画面に出る文字は、母ちゃん。

「…もしもし?」


 …話を聞くと、母は凛が地震が苦手と知っていて心配で電話を掛けたところ、出なかったので俺に電話を掛けたとの事だった。

 確信していた気持ちに更に拍車がかかる。


「あら?凛出なかった?今保育園に康介を迎えにいってるのかも。また電話するよ。」

 そう言って俺は電話を切り、家路を急ぐ。

 いつもの帰り道がとても長く、不気味に感じた。


 康介は地震に怯えていないか。凛は何故電話に出ない。

本当に家を…。

 赤信号になり、交差点の角にある家の近くのコンビニに目を向ける。

 凛の車はないか。俺を早く安心させてくれ。


 凛の車はなく、信号が青に変わる。

 沈む気持ちで車を走らせ、国道から家に続く小さな道に向かい右折ウィンカーを出し、対向車が途切れるのを待つ。


 あの道から、凛の車が出てこないかな…。


 小さな道を真っ直ぐ進み、突き当たりの手前にある我が家。

 普通車が五台程停められる、無駄に広い駐車場に凛の車はなく、肩を落とす。

 …きっと保育園に迎えに行っているんだ。


 バッグを片手に車から降り、小さなビオトープで飼育する小亀には目もくれず玄関に手をかける。


 ドアノブの中央付近のボタンを押し、電子音の後に続き上と下の鍵が連続で開く音。


 深呼吸。…そしてゆっくりと玄関のドアを開いた。


 少し散らかったまとまりのない俺の靴。日常的に履いていた凛と康介の靴は見当たらない。

 隣の下駄箱は、隙間が空いていた。

 ここは凛の置き場。ここは康介の置き場。

 一つ一つ確認し、その度に胸のざわつきが激しくなる。


 リビングへの扉をゆっくりと開く。

 最初に目についたのは、康介のおもちゃ。

 あれだけ多かったおもちゃはその数を減らし、随分寂しい光景となっていた。


 キッチンの大きな黒い、オーブンレンジが跡形もなく消えており、炊飯器も姿を消していた。

 冷蔵庫とカップボードの間には、ペットボトルが分別されていない状態で袋に入れてあった。二袋。

 缶と瓶は一袋ずつ、確かにそこに置いてある。


 キッチンから見える洗面所の奥。

 康介の、子供用ラックがあったはず。子供用の冬上着がたくさん掛けられており、その横には子供用の帽子、小さなバッグが掛けられていたはず。

 一番下には九個の小さな引き出しがあり、子供用の小さな肌着や最近やっとオムツを卒業出来た事により、子供用のパンツも沢山あったはず。

 夏服もその中に敷き詰められており、俺のお気に入りの服もあったはずだ。


 胸のざわつきはそのままに、不思議と冷静な自分がいた気がした。


 ファミリークローゼットには凛の服がギチギチに掛けられており、更に収納ケースから溢れていた服が床に落ちてたりもした。その事を何度か注意していたが結局喧嘩になり、俺は諦めて放置していたはずの洋服。

 その服は一着残らず跡形もなく消えていた。

 あるのは俺の下着等を入れる吊り下げの服入れや、俺の少ない洋服。

 そして、小さな収納ケースのみだった。


 脱衣所にあったはずの、安く買えたドラム式の洗濯機。

 …きっとこの時の俺の目は暗く、精気のない目であったに違いない。それ程までに沈んでいた。


 テーブルに置かれた書き置きの文字。

 ・財産分与として一部の家具家電を持っていく事。

 ・今後、承諾無しに保育園には迎えに行かない事。

 ・凛達の住所を探したり詮索しない事。

 ・親族に勝手に連絡を取らない事。

 ・離婚調停を申し込んでいる事。

 ・婚姻費用の調停も申し込んでいる事。

 ・康介との面会は認める。


 俺はすぐさま会社の上司に電話を掛けようと、震える手で携帯の電話履歴から上司の名前を探した。

 優しく上司の名前に触れ、発信画面へと移行する。


「あ、もしもし。仕事終わりにすみません。」

 平静を装い、いつも通りを意識する。

「あの、実は嫁さんが出ていっちゃって…。」

 電話の向こうから、驚きの声と心配の声が聞こえた。


 ——上司には前に一度相談している。

 朝の六時出勤の時、四時五十分にかけた目覚ましの音で康介が目覚め、仕事に行く気配を察知し泣きじゃくる。


 凛は朝が弱く起きるまでに時間がかかるので、二階の寝室から康介と二人で一階に降り、俺が仕事の準備をする間ずっと片手で抱っこをしてあやしていた。

 いよいよ家を出ないと遅刻する時間になり、二階で寝ている凛の元へ康介を抱っこしながら行くと、まだ寝ている凛を起こし、康介を渡そうとした。

 しかし、パパが良いと泣きじゃくる康介に、凛はイライラし始め怒鳴る様に叱り始めた。


 まだ四歳になったばかりの子供に怒鳴っても意味がなく、むしろ余計に激しく泣きじゃくる。

 凛は何故か不貞腐れた様にまた寝始め、俺は途方に暮れる。

 何か言えば喧嘩に発展するかもしれない。

 そう思った俺は再び康介と一階に降り、上司に電話を掛けた。

 時刻は既に、五時四十五分。会社までは三十分は掛かるので遅刻は確定だった。


 ひっくひっくと泣きが収まりつつある康介を片手に、もう片方の携帯からはコール音が鳴る。

「もしもし…。あの、今日子供を連れて仕事に行ってもいいですか?」


 上司は驚き、何故かと俺に問いかける。

「子供が泣きじゃくり、嫁も怒鳴ってばかりで…。このままだと子供がどんな暴言を吐かれるか分からないので置いていくのは心配で…。」

 嫁が二階で寝ていることもあり、声を最小限に抑えて話す。

 本当は、凛が康介に暴力を振るわないか。それだけが心配だったが凛に聞かれるとまずいのでこの場では言えなかった。


「はい、すみませんありがとうございます。また家を出てしばらくしたら電話しますので。」

 電話を切り、康介を立たせて上着を着せる。

 不安そうな康介は、泣きそうな声で言う。

「ちごといくの…?」

 いや、泣きそうではなく泣いていた。

 再び声を上げて泣く康介を優しく抱きしめる。

「今日はね、パパと一緒にお仕事行こう。ね?だから泣かなくて良いよ。」

 康介はまさかの展開にポカンと口を開け、困惑している様子だった。


 遅刻は確定しながらも、康介の反応がおかしくて少しだけ心が軽くなる。

「お外、まだみんな寝てるからしーっだよ。」

 康介は首を縦に振り答える。


 車に乗り込み、今日はどうやって仕事をしようかと悩む俺をよそに、康介はウキウキとしている様子だった。

「何とかなるかな…。」

 康介の笑顔は俺を前向きにさせる。


 車を走らせ、大きな交差点に差し掛かった所で携帯に着信が入る。

 

 凛


 俺は少し億劫になりながらも受話ボタンを押した。


「もしもし。」

 電話の向こうから、激しく怒る凛の声。

 それは誘拐だ!何を考えとる!そんな勝手な事をするな!

 その全てが強めの言葉。


「でも、凛あのまま寝始めたじゃん。」

 康介の前では声を荒げたくはない。俺も激しく責め立てたかったがぐっと抑えて冷静に話す。


 今どこにいるのか聞かれ、ちょうどコンビニが見えたので場所を伝える。

「…分かった。ここで待っとく。」

 すぐに電話が切られ、車内の中にしーんとした静寂が流れる。

 初めてこの静寂が耳障りだと思い、康介に話しかけた。

「今からママ、迎えに来るよ。朝のドライブ楽しかった?」


 この後、康介は怒られるかもしれない。怒られなかったとしても、康介は多分幼いながらに気を使うかもしれない。

「…パパがいい。」

 その一言に、俺は少し涙ぐんでしまった。


 その後、コンビニの駐車場に荒々しくやってきた凛。

 まるで子供を攫われた母親の様に振舞いながら、乱暴に康介を俺の車から取り出す。

 されるがままに、凛の車に乗せられる康介はドアが閉まる直前俺の顔を泣きそうな顔で見ていた。


 後部の電動ドアが完全に閉まり、俺は助手席側から凛に声をかける。

「康介、少し楽しんでたよ。なんか、ごめんね。」

 これ以上凛を刺激しない為の、精一杯捻り出した言葉だった。


 凛は何も答える事なく家に向かい車を走らせ去っていく。

 車に乗り込み気を取り直そうとしたが、頭の中は康介の事で一杯だった。


 コール音。電話に出た上司は少し笑いながら電話に出る。

「本当にすみません。今ですね、嫁がコンビニに迎えにきたんで大丈夫です。…遅刻はしますが高速で行けば何とか間に合うかと。」

 

 そうか!なら良かった。

 上司はそう言うと、改めて俺に質問をする。


「はい。そうですね。嫁は結構子供に暴言に近い言葉を吐いたりするのでそれが心配で…。」

 お前の嫁さん、大丈夫か?と本気で心配され、その日は上司と仕事中に長電話をし、状況を伝えた。

「これからも、もしかしたらこういう事があるかもしれません…。」

 話を誰かに聞いてもらえた嬉しさと、不甲斐ない自分への悔しさで心は複雑だった。



 ——「今後、調停になったら休みを貰う日があると思います。本当に何度も迷惑かけてすみません…。」

 上司に全てを伝え、今後の事もしっかりと伝えた。


「弁護士ですか?…そうですね。今から電話して相談してみます。」

 上司との電話を切り、すぐに弁護士事務所を探す。


 住んでいる場所から一番近い弁護士事務所を見つける。口コミの内容も良さそうで俺はすぐに電話をかけた。

「もしもし…あの、嫁さんが出ていって…。はい、離婚調停の申し込みをしているみたいです。」


 俺の名前を聞かれ、次に嫁の名前を伝える。

 電話の相手から、相談は受けられませんと伝えられた。


「…もしかして、もう嫁さんが相談に行ってたりします?」

 恐る恐る確認した俺に、淡々と返された「そうです。」

 の一言。

 俺は適当に返事をし、電話を切った。


 また弁護士事務所を調べ、少し家から遠いが職場から近い事務所に電話をかけてみる。

 口コミの内容は良い評価だった。


 簡単に事情を伝え、相談日を決め電話を切る。

 取り敢えずの安堵のため息を吐き、しばらく椅子から立ち上がらずにぼーっとしていた。


 ふと二階の状況が気になり階段をゆっくり上がっていく。

 寝室のベットはあるが、その部屋のクローゼットからは凛の服がごっそりとなくなっていた。


 康介の遊ぶおもちゃが置いておる子供部屋に置かれた小さなテレビは無くなっており、その部屋の照明ともう一つの子供部屋の照明も無くなっていた。


 一階に戻り、改めて持っていかれた箇所を見て周る。

 俺が歩いた後に発生した小さな風に、残された大きな塊となった埃がゆらゆらと揺れていた。


 

 

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