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仮面夫婦

——年が明けて与えられた新車の走行距離は四万キロになり、車線を跨いだ時の耳障りな警告音にも慣れてきた。

 地方の運送会社に勤める『柴崎雄大』(しばさきゆうだい)は、この日も大型トラックで片道一時間半程の降ろし場へとトラックを走らせる。


 あの信号機は間に合わない。

 だがその先の信号機ならば、少し飛ばせば歩行者信号が点滅しているくらいで通過できる。

 あのコンビニ、潰れたな…今日はどこで昼飯を買おう。降ろし場までの道中に、大型トラックを停めれる様な広いコンビニがあるにはあるが、そこまで行ったならば食べずに降ろした方が早いか…。

 最近この辺り、自転車に乗った外国人増えたな…。


 この会社に勤めて四年。定期的に走るコースの景色もいい加減見飽きた雄大はこの変わらない日々に満足はしていないが不満もなく、道路状況に気を付けながらただハンドルを握るだけの運転手。緊張感も薄れ、ぼんやりと目的地まで走らせる。


 月に一万五千のお小遣いをどう有意義に使おうか。貰った初日は大変嬉しく希望に溢れてはいるが、やはり煙草にほとんどが消えていく毎日。

 

 煙草だけはやめられない。


 電子タバコに煙草をセットし、ヴヴッと小さく振動するまで本体の中央を押し続ける。

「…ん?」

 小さく振動した電子タバコのランプを確認し、対向車の車に目を向ける。

 ちょうど前方には信号機。

 歩行者信号が点滅しているがその対向車に確信を持ち、素早くクラクションを鳴らし対向車の運転手の顔を注視する。

「はは!」

 自然と笑顔で手を上げた雄大は、赤信号で次々とブレーキを踏む前方の車に合わせ、トラックを減速させる。


 雄大が手を挙げた人物は妻の『柴崎凛』(しばさきりん)。


 目は合った。しかし、一瞬のスライドで感じた違和感。

 凛はハンドルを持ち隠れる様に頭を下げ、チラッと雄大を見て何やら不穏な笑顔を浮かべていた。


 雄大はその違和感には触れず、凛に電話をかける。ちょうど赤信号で車はまだ進まない。

 プ、プ、プ。プルルルル…

 鳴り続けるコール。しかし、凛は出ない。さっきのは見間違いか?

 そう思った雄大はある事を思い出す。


 少し前、凛の携帯の電話の調子がおかしく、雄大は電話が繋がらない為LINE通話を掛けたところ、LINEでは正常に通話が出来た。


 今回もそれで電話が繋がらないのだ。

 そう思い、しばらく鳴り続ける電話を切りLINEを開いた時、前方の車が動き出す。

 青信号…。まぁ、このボタンを押すだけなら。

 凛とのトーク画面から右上の受話器のボタンを押しコールがかかる。


 ………おかしい。電話に出ない。

 先程の凛の意味深な笑顔が脳裏に浮かび、雄大はある事を後悔する。

 もっと注意深く、助手席も見ておけば…。

 誰か、俺に見られたらまずい相手を乗せていた?それとも後部座席…?


 頭の中を駆け巡る黒いモヤと、胸の内で蠢き騒ぐ得体の知れない違和感。

 雄大は突然悟ってしまう。


 …家を…出て行った…?



 ——このまま家に帰り、確認したい衝動を強く抑えた雄大は、昼飯の事など頭から消え去り、考える事は最悪のシナリオ。

 

 元々喧嘩の多かった俺達。これまでにも凛の突然の離婚宣告はあった。

 しかし、その全てが俺の愛情を確認する様な脅し文句だと言う事が分かってからはあまり本気に捉えず、毅然とした態度で迎え撃つ。


 だが一ヶ月前、凛の口から言われた言葉。

「離婚してほしい。」


 普段なら真剣に捉える事はないこの言葉。だがその時は子供を俺の親に預けてまで話したいと言った、凛の落ち着いた場での最初の一言目。


「…俺と別れてどうするの?というか、今回は本気なの?」


 言葉を選べる程、俺は冷静ではなかった気がする。


「本気。今私と別れてくれるなら共同親権でも良いし、『康介』(こうすけ)の面会も自由にさせる。」


 この時の俺は共同親権の意味も良く知らず、何をどう返せば良いのか分からなかったが平静を装いながら何とか言葉を紡ぐ。

「…それは、こっちのセリフでもある。親権はやりたくない。」


 凛は感情を必死に抑えているのかいつもよりもずっと冷静に話している。

「…親権を雄大に渡せば離婚は良いって事?」


 思わぬ好転に少しだけ胸が弾む。何しろ雄大は康介が十歳程になったら凛と離婚するつもりであったから。

「…うん。でも、本音は康介はまだ四歳だから親子三人でやっていきたい。」


「…仮面夫婦でも?私達って業務連絡以外のLINEしてないよね?そんな関係でも康介の為にって言うの?」


 少し熱くなりながら話す凛。

 俺は知っている。これまでも凛との喧嘩で平和に終わったことがない事を。

「俺達って仮面夫婦なの?普通に話してるよね?というか、業務連絡が嫌とか言うならそっちからも普通のLINE送ってきても良いんじゃない?」


 別に焚き付けたかったわけではない。それも俺の本音。家族でお出掛けしたいと言いながら目的地を決める訳でもなく、全然連れて行ってくれないと不貞腐れる凛。

 その割には俺の提案には乗らず、康介と俺二人でお出掛けした休日もある。

 俺の中ではもう、凛は他責思考の他力本願。最悪の自己中な女となっていた。


「男のくせに、嫁を大切にする事も出来ないんじゃん!ヤリたい時だけ近づいて来て、それ以外はほぼ無関心!そんなんで一緒にやっていける訳ない!」


 凛の常套句、男のくせに。

 俺はまたいつもの展開か…とため息をつき、ある事を提案する。

「もしも…康介の為に、康介が十歳くらいになるまで離婚は我慢してくれるなら、何でも条件を飲むよ。」


 凛の表情が変わった。口を閉じ、揺らぐ瞳。


「紙に書いて。本当に条件飲むから。そして、俺のサインもそこに書く。」


 凛はゆっくりと冷蔵庫に向かい、側面に磁石で掛けた小物入れからポールペンと小さな紙を取り出した。


 スラスラと滑らかに迷いもなく文字を書き上げ、テーブルの上を滑らせ俺の前にその紙を置いた。


 【泊まりで家を空ける事に同意する。日中や、土日は関係ない】

 【異性と関係を持っても不貞行為とみなさない】

 【その息抜きの頻度は問わない】


 俺はその紙をじーっと見つめ、率直に思った事を質問する。

「…誰かいい人でも出来た?」


 凛は答える。

「いや、いない…。でも今別れてくれないって事はその分出会いも制限されるから、これは今の事ではない。」


 俺はその答えにモヤモヤを抱きながら、凛の顔をじっと見る。

「今、正直に話すなら慰謝料とかも請求しない。その代わり、親権は俺にちょうだい。後からバレたら勿論請求するよ?」


 凛は言葉に詰まる様な態度を見せたが首を横に振り、それはない!の一点張りだった。


 それなら今回の別れたいと言う理屈は通ったのに…。

 俺はそんな事を思いながらもう一つ質問をする。

「今ね、俺が料理してるでしょ?というか、家の事は洗濯以外俺がやってる。これは偉そうにしてるとかじゃなくて事実としてね。…で、もし今凛と本当に別れたとして、更に親権を凛が持ったとして、本当にやっていける?正直今の状況が一番楽だと思うよ?」


 沈黙が訪れ、俺は凛の言葉を待つ。


「…じゃあ、雄大は離婚してくれないんだね。私が調停を申し込んでも良いって事?円満に話し合いで終わらせたかったのに。」


 まさかの展開に胸がざわつく。

「康介もさ、寝る時は俺としか寝たがらないでしょ?もし良ければ康介の為にも三人で一緒に寝たり、お出掛けも三人で行きたいんだけど…。」

 これまでの言えなかった本音をぶつけてみる。何か凛の気持ちの変化が欲しかった。


「…分かった。取り敢えず、今書いた内容を綺麗な紙に書きたいから今から買いに行く。」


 どこまでもズレた会話。

 何でも条件を飲むから今は我慢してくれ。

 それは俺の望みであったし俺はそれでも康介の為なら我慢ができた。

 例え凛が他の男と関係を持ったとしても。


 それから、二人で買い物に行き綺麗な紙を買うついでに食材を買った。

 車内では会話はなく、気持ちは分かり合えないままだったが俺達にとってはそれは日常的な事であった。


 その後、親に預けた康介を引き取り家に帰る。

 いつもの喧嘩の後と違い、康介の前でも凛は割といつも通りに過ごせていた気がした。


 それから二週間ほど経った頃、条件を書いた紙を中々渡さない凛に俺から質問してみた。

「気が変わってたならごめん。でもずっと気になってた事があってさ、あの紙…書いた?書いたなら見せてくれる?」


 凛の反応は予想外だった。

「あーあの紙ね!…もう良いよ。康介が大きくなるまでは離婚しないんでしょ?」


 何故か気持ちが通じ合った様な気がして嬉しくなる。俺は笑顔になり素直な言葉を口にする。

「良かった!これからもまぁ何とかやっていこう。俺はずっと、仲良くやっていきたいと思ってるから。でも、凛の要望通り康介が大きくなったら離婚には応じる。」


 凛は少し笑う。

「うん。」


 その後、いつもの様にソファに横になり携帯を触り出す。

 そう言えば、俺が料理を作る様になってからは携帯を触る事が増えた凛。

 そして、近くを通るたびに携帯の画面を下にお腹に乗せテレビに目を向ける凛。


 解決したはずが、俺の違和感は増すばかりであった。

 

 

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