黄金のジパング、あるいは妄執
第二章:黄金のジパング、あるいは妄執
一
ジェノヴァ監獄の夜は、冷徹な静寂のなかに、羊皮紙を引っ掻く葦のペンの音だけを冷たく響かせていた。
鉄格子の隙間から差し込む青白い満月の光は、床の泥水を妖しく照らし、二人の囚人の影を壁に長く引き延ばしている。
「──おい、ルスティケロ。ここからが、俺の旅の、もっとも莫大で、もっとも狂気的な『黄金の章』だ。お前のそのインクが涸れる前に、しっかりと書き留めておくがいい」
ベネチアの商人、マルコ・ポーロは、不敵な笑みをその唇の端に浮かべ、白い髭を震わせながら身を乗り出した。
「ハーン(皇帝)の宮殿をあとにした俺は、東の海の果てに浮かぶ、不滅の孤島──ジパング(日本)の噂を耳にした。あそこは何もかもが我らの世界の常識をハッキング(超越)している。島に住む民は誰もが白く、礼儀正しいが、その富のシステムは恐るべきものだ。何しろ、その島を治める王の宮殿は、床という床、廊下という廊下、さらには窓の格子に至るまで、すべて数インチの厚みを持つ『純金の板』で覆い尽くされているのだからな!」
マルコは大きな掌を広げ、まるで目の前に黄金の城がそびえ立っているかのように、その爛々(らんらん)とした黒い瞳を輝かせた。
「さらに、その島には拾いきれないほどの巨大な『赤い真珠』が溢れ、死者の口にはその真珠が嵌め込まれるという。書け、ルスティケロ! この東洋の奇跡を、お前のその騎士道の言葉で羊皮紙に刻みつけるのだ。これこそが、全ヨーロッパの王たちを狂乱させる『世界の記述(Le Devisement du Monde)』の真の核だ!」
マルコの声は、独房の石壁を震わせるほど熱く、劇的に響き渡っていた。
だが、机代わりに床に羊皮紙を広げていた作家、ルスティケロ・ダ・ピサは、その熱病のような語りに一歩も引きずられることはなかった。彼は葦のペンを静かにインク壺の縁に立てかけると、眼鏡の奥の切れ長の瞳をギロリと光らせ、マルコを睨みつけた。
「……おい、ミリオーネ(百万の大ボラ吹き)。お前、いい加減にしろよ」
ルスティケロの声は、低く、冷たい水のように独房に響いた。
「な、何だと?」マルコが眉をひそめる。
「計算が合わないのですよ、このペテン師め」
ルスティケロは冷徹に手元の年表を指先で叩いた。
「お前がクビライ・ハーンの宮廷に仕えていた当時、ハーンは二度もその島国(日本)に無敵の大艦隊(元寇)を送り込んだ。だがな、現地の民の頑強なレジスタンスと、神風と呼ばれる凄まじい大嵐によって、モンゴル軍の船団は完膚なきまでに叩き潰され、海へと強制シャットダウン(壊滅)されたはずだ。ハーンすら征服できず、ただの一人も生きて上陸できなかった呪われた孤島に、なぜ一介のベネチアの商人の風情が、傷一つ負わずに立ち入ることができた? マルコ……お前、本当はその国に行っていないな?」
二
独房の中に、一瞬、心臓の鼓動が止まるほどの凄まじい緊迫感が走った。
嘘を完璧に見破られたマルコ・ポーロ。だが、大デュマの小説の悪役の如き大胆なこの男は、怯むどころか、ククッ、と喉の奥で不敵に笑い、自らの腰のナイフの柄を弄んだ。
「フハハ……ハハハハ! 素晴らしいな、ルスティケロ! お前を相棒(編集者)に選んだのは、俺の人生で最大の幸運だったかもしれん」
マルコは悪びれる様子もなく、悪魔のウインクをしてみせた。
「さよう、俺はそのジパングという島の土を踏んじゃいない。ハーンの軍勢が嵐に呑まれていくのを、南中国の港町(泉州)で、ただ遠くから見つめていただけさ。だがな、ルスティケロ。俺の情報の仕入れ先は完璧だったぞ」
マルコはルスティケロの顔を覗き込み、その低い声に奇妙な説得力を込めた。
「俺は泉州の酒場で、日宋貿易や密貿易を行うアラブやペルシャの大商人どもから、夜な夜な『東の果てに金の眠る島がある』という極秘のデータをスクラップ(記憶)していた。さらに、ハーンの宮廷では、『なぜ我が大軍は負けたのか』『あの島にはどれほどの真珠が隠されているのか』という、敗戦の悔しさと妄執によって百倍に誇張された大袈裟な報告レポートが飛び交っていたのだ。俺はその散らばったデータを脳内で統合し、さも『自分が体験したリアル』として仕立て直した。それが一体何だと言うのだ?」
マルコはルスティケロの肩を強く掴み、その手を揺さぶった。
「ヨーロッパの王侯貴族や、百年のちの人間が求めているのは、『マルコという商人が、どこの港で足止めを食らったか』という退屈な帳簿ではない。東洋には、我らの想像を絶する巨大な『黄金の帝国』が存在するという、圧倒的なロマンのロジックだ。俺の嘘は、世界を正しく伝えるための『偉大なる燃料』なのだ。ルスティケロ、お前のその劇的な文才があれば、この嘘は本物の歴史(東方見聞録)になる。お前も、この世界を騙す大嘘の城を、俺と共に築きたくはないか?」
三
ルスティケロは、マルコのギラギラとした剥き出しの執念を見つめ返した。
このベネチアのじじいは、確かにとんでもない大嘘つきで、強欲なペテン師だ。だが、その大嘘の根底には、世界のすべてを自分の言葉でジャックし、文字の力で未来そのものを強制起動させようとする、狂おしいほどの生の熱量が満ち満ちていた。
「……フッ、仕方のないミリオーネだ」
ルスティケロの目は、狂気的なインスピレーションで歓喜に歪んだ。
「誰も見たことがないのなら、俺のペンで世界で最も美しい要塞にしてやろう! マルコ、お前が仕入れてきたその商人の噂話に、俺の得意技である『アーサー王伝説』に登場する魔法の宮殿の描写を、丸ごとコピペ(脚色)してやるわ! 宮殿の床も、窓の格子も、すべて純金! 拾いきれないほどの赤い真珠! これでヨーロッパの人間どもは、完全に俺たちの文字の牢獄の中で迷子になるぞ!」
ルスティケロは再び葦のペンをインク壺に深く浸し、猛烈なスピードで最高級の羊皮紙の上へ格調高い文体を刻み始めた。
お喋り商人の仕入れた情報と、ラノベ作家の妄想が完璧に調和し、不滅の『世界の記述(東方見聞録)』が、今まさにジェノヴァの暗黒の牢獄の底で、爆発的な産声を上げたのである。
「マルコ」ルスティケロは、血の滲むようなインクの跡を見つめながら予言した。「俺たちが今、鉄格子の暗闇で書いているこの大嘘は、のちに現れる『活版印刷(グーテンベルクの機械)』という未知の物流量の波に乗った瞬間、何万倍にも増殖し、海の向こうの、まだ見ぬ野心家の脳を完璧にジャックするぞ。……さあ、ここを出られたなら、俺たちの勝利だ」
一二九九年、ベネチアとジェノヴァの和平により、二人はついに鉄格子の牢獄から釈放された。
だが、そこからが二人の怪物質の、真のふてぶてしい「最期」の始まりであった。
四
釈放後、二人が監獄で仕掛けた大嘘(東方見聞録)は、写本となって瞬く間にヨーロッパ中を駆け巡り、世界をハッキングしていった。
書き手であるルスティケロは、その熱狂を横目で見ながら、歴史の表舞台から静かに隠気した(一三〇〇年代初頭、名もなき急死)。彼は自らの名前がマルコの影に隠れることを知りながらも、「自分の書いたファンタジーが、本物の世界地図(歴史)を塗り替えていく」という、作家として最高に恐ろしい成果をニヤニヤと見つめながら、静かに歴史の無法地帯(闇)へと消え去っていった。
一方、ベネチアに戻ったマルコ・ポーロは、東洋の宝石の商売で莫大な資産を築き、世間から「ミリオーネ(百万の大ボラ吹き)」と嘲笑されながらも、贅沢三昧な大富豪としてふてぶてしく七十歳まで生き抜いた。
一三二四年、冬。ベネチアの豪華な邸宅のベッドの上で、マルコは臨終の床に伏せっていた。
枕元には、彼の娘たちや、厳格な司祭が集まり、涙を流しながら彼の手を握りしめていた。
「マルコ、頼む……。もうすぐ神の御前に行くのだ。あのジェノヴァの監獄でルスティケロと書いた本の大嘘を、あのジパングの純金の宮殿のデタラメをすべて撤回し、罪を悔い改めて清い心で天国へ行ってくれ。さもなければ、お前の魂は地獄の業火にハッキング(破滅)されるぞ」
司祭が聖書を掲げて必死に詰め寄る。
だが、死の間際にあっても、マルコ・ポーロの黒い瞳だけは、あのジェノヴァの監獄の夜と全く同じ、ギラギラとした知性の光を放っていた。
強欲なじじいは、集まった者たちを見回し、その唇の端に最高の皮肉を込めた笑みを浮かべると、歴史に刻まれる最後のブレード(遺言)を言い放ち、傲然と息を引き取った。
「俺は、自分が見てきたことの半分も書いてはいない」
それから百五十年後、セビリアの図書館。
グーテンベルクの活版印刷によって大量増殖されたそのジパングのページを、ボロボロになるまで読み込み、「この黄金の国(日本)へ行くのだ!」と狂喜して大西洋へと飛び出していく探検家、クリストファー・コロンブスの背中があった。彼の持つ本(東方見聞録)の余白には、三六六箇所にも及ぶ直筆のメモ(妄執)がびっしりと書き込まれていた。
日本を全く知らない二人の男が監獄でハッキングした大嘘が、真の不滅の文字(文学)となり、地球の歴史を物理的に大航海時代へと叩き込んで、世界を強制起動させた。
窓の外には、一二九八年のジェノヴァと同じ美しい青空が、広がる。
世界を騙し抜いた二人の悪党の、終わらない言葉は、今日迄も生き続けている。




