エピローグ:ミリオーネの遺言と、百七十年のちのインク
エピローグ:ミリオーネの遺言と、百七十年のちのインク
一
一三二四年、一月。水の都ベネチアを包む冬の夜気は、運河の水面を鏡のように凍てつかせ、石造りの邸宅の壁を白く噛んでいた。
豪奢な天蓋付きのベッドの横で、数本の蝋燭が静かに揺れ、一人の老人の、死を目前にした荒い呼吸だけが室内に響いている。
ベッドに横たわるその男こそ、かつてジェノヴァの暗黒の牢獄でルスティケロと共に世界最大の大嘘(傑作)をハッキングした男、マルコ・ポーロであった。
御年七十。釈合後、東洋の宝石と高級絹織物の商売で莫大な中性脂肪(資産)を蓄え、世間から「ミリオーネ(百万の大ボラ吹き)」と嘲笑されながらも、ふてぶてしく生き抜いてきた怪物質の命の灯火は、いまや死という絶対的なシャットダウンを迎えようとしていた。
「マルコ、頼む……。もうすぐ神の御前に行くのだ」
ベッドの傍らに跪いた厳格な司祭が、震える手で聖書を掲げ、老人の顔を覗き込んだ。背後では、彼の娘たちが涙を流しながら見守っている。
「あのジェノヴァの監獄で、お前がピサのラノベ作家と書き上げたあの本の大嘘を……、一度も見たことがないはずのジパングの純金の宮殿のデタラメ(バグ)をすべて撤回し、罪を悔い改めて清い心で天国へ行ってくれ。さもなければ、お前の魂は地獄の業火にハッキング(破滅)されるぞ!」
司祭の声には、必死の叫びが満ちていた。
だが、死の間際にあっても、マルコ・ポーロの黒い瞳だけは、あの一二九八年の監獄の夜と全く同じ、ギラギラとした知性の光を放っていた。
強欲なじじいは、集まった者たちを見回し、その唇の端に最高の皮肉を込めた笑みを浮かべると、歴史に刻まれる最後のブレード(遺言)を言い放ち、傲然と息を引き取った。
「──俺は、自分が見てきたことの半分も書いてはいない」
それが、世界を騙し抜いた男の、最後の勝利宣言であった。
マルコは逝き、その数年前にルスティケロもまた「自分の書いたファンタジーが本物の世界地図(歴史)を塗り替えていく様」をニヤニヤと眺めながら歴史の闇(名もなき急死)へと消え去っていた。悪党たちの共犯関係は、肉体としては滅び、老廃物として土へと還ったのである。
二
だが、二人の遺した『世界の記述』という文字の城は、彼らの死後、一四五〇年に登場する「活版印刷(グーテンベルクの機械)」という未知の物流量の波に乗った瞬間に、爆発的な進化を遂げることとなった。
手書きなら一生に一冊しか作れなかった本が、機械の力によって何千部、何万部と量産され、ヨーロッパ中の一般市民や知識人の脳を完璧にジャックした。
一四九二年、スペインのセビリアの大聖堂図書館。
白熱するガス灯の代わりに、一本の蝋燭の光を浴びながら、印刷されたそのジパングのページをボロボロに擦り切れるまで読み込み、三六六箇所もの妄執の直筆メモを書き込む男──クリストファー・コロンブスの背中があった。
「黄金の国ジパングへ行くのだ! ハーンの富を、この俺のこの手でハッキング(強奪)してやる!」
コロンブスは狂喜乱舞して大西洋へと船を出し、本当に世界を大航海時代という無法地帯へ叩き込んだ。彼らがアメリカ大陸に到達したとき、現地の先住民に「おい、ジパングの王の宮殿はどこだ!?」と本気で詰め寄ったという記録が残されている。
知らない二人が監獄の夜に紡いだ嘘のデータが、五百年後の地球の歴史を物理的に強制起動させたのであった。




