ジェノヴァの怪物質
本作『世界の記述 ─ 東方見聞録』は、中世最大の虚実皮膜の古典の誕生秘話を、重厚にして息をもつかせぬ劇的な筆致で描く本格歴史文芸です。
愛すべき法螺吹き商人と、その大嘘を最高級の騎士道ロマンスへ仕立て上げる天才作家の、深夜の息詰まる頭脳戦を活写します。のちに活版印刷によって世界を狂乱させる、男たちの熱き共犯関係をお楽しみください。
第一章:ジェノヴァの怪物質
一
ジャラリ、と重々しい鉄の音が、地下廊下の湿った空気を引き裂いた。
一二九八年、北イタリアの強国ジェノヴァ。その港を見下ろす断崖にそびえ立つマッパ・ムンディ(世界地図)の牢獄の底は、海水と囚人たちの不浄な汗が混ざり合い、夜の冷気の中でどろどろとした無法地帯の様相を呈していた。
「おい、ベネチアの生ゴミめ。ここがお前の新しい邸宅だ。ハーンの宮殿よりは少し手狭だろうが、お前のような法ラ吹きにはお似合いの広さだろうよ」
粗暴なジェノヴァの獄吏が、一人の男の背中を、錆びついたハルバード(長柄の斧槍)の柄で容赦なく突き飛ばした。
男は床の冷たい泥水に膝をついたが、その強靭な体躯は些かも怯む(ひるむ)ことなく、むしろ獣のような俊敏さで立ち上がると、暗闇の中でギラギラと輝く黒い瞳を獄吏へと向けた。
男の名は、マルコ・ポーロ。
数日前、地中海の覇権を賭けた「コルチュラの海戦」において、ベネチアの軍船を率いて果敢に戦ったものの、ジェノヴァの圧倒的な物流量(大船団)の前に大敗を喫し、捕虜(老廃物)としてこの暗黒の城へと叩き込まれたのだ。
御年四十四。東洋の果て、世界の覇王クビライ・ハーンに十七年間も仕え、三大陸の富と陰謀をその目で見てきたと豪語するこの大旅行家は、いまや一銭の価値もない、泥塗れの囚人服を纏う身へと転落していた。
鉄格子がガチャンと閉まり、獄吏の足音が遠ざかっていく。
マルコは、懐から盗まれずに済んだ一本のペルシャ製のナイフ──その精神のブレード(誇り)を確かめるように胸元に手を当て、深い溜息を漏らした。
「ふん、ベネチアの傲慢なライオンも、檻に入ればただの哀れな猫か。……いや、その眼差しは、猫というよりは、獲物を狙う東洋の虎のそれだな」
突如、独房の最奥、光の届かぬ暗がりの影から、皮肉っぽくも驚くほど気品のある声が響いた。
マルコは瞬時に身構え、暗闇の主を睨みつけた。
そこには、ボロボロの衣服を着古しながらも、まるでフランスの王宮に佇む貴族のような優雅さで、一本の葦のペンを弄んでいる男が座っていた。白髪の混じった髪をきれいに後ろに結い、薄汚れた羊皮紙の束を膝の上に載せている。
「誰だ、お前は」マルコの声は、商人の冷徹な低さを帯びていた。
「私はルスティケロ。ピサの生まれさ」
男は立ち上がり、まるで舞台役者のように胸に手を当てて優雅に一礼してみせた。
「数年前、ジェノヴァの連中とのくだらない戦争に負けてな、それ以来このジメジメとした特等席(独房)の主をやっている。表の世界では、アーサー王の円卓の騎士たちのロマンス(冒険譚)を書き、貴族の婦人たちを泣かせていた高名な『作家』だったのだがね。……さて、新入りのベネチア人。お前が、今街中で噂になっている『ミリオーネ(百万男)』だな?」
ルスティケロの目が、鉄格子の隙間から差し込む青白い月光を浴びて、妖しく覚醒した。
二
「ミリオーネだと? 誰がそんな馬鹿げた名前で俺を呼ぶ」マルコは床の藁に腰を下ろし、不快そうに鼻を鳴らした。
「ジェノヴァの商人どもさ。お前が酒場で『東洋の都には百万の黄金の瓦があり、ハーンは百万の軍勢を動かし、百万のスパイスが海を渡る』と、何でも百万倍に膨らませてハッキング(法螺)を吹くから、面白おかしくそう名付けたのだ。……だが、ミリオーネよ。俺の作家としての本能(嗅覚)が、お前のそのハッキングデータ(大嘘)の中に、とてつもない『金の匂い』を感じているのだ」
ルスティケロはマルコの隣へと滑り込み、手元のアラビアインクの壺を絨毯の代わりに床に置いた。
「退屈なのだよ、この監獄の夜はな。ナキネズミの鳴き声を聞き、泥水を啜るだけの毎日に、俺のペンは完全に干からびていた。だが、お前が持っているその『東洋の記憶』──それがたとえ大嘘であろうとも、俺の最高級の騎士道ロマンスの文体(フランス語)で化粧を施せば、ヨーロッパ全土の人間を狂乱させる、史上最大のベストセラー(要塞)が築ける。マルコ、お前が喋り、俺が書く。この鉄格子の暗闇の中で、世界をハッキングする大嘘の城を築こうじゃないか!」
マルコ・ポーロは、ルスティケロの狂気的な熱量を含んだ顔を見つめ、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「俺は商人だ、ルスティケロ。ただの法螺吹きではない。俺の話には、ハーンの宮廷で学んだ冷徹なまでの『現実』がある。……いいだろう、お前のその葦のペンが、俺の記憶の物流量に耐えられるなら、世界のすべてを語ってやる」
マルコは手酌で、監獄の不浄な水を杯に満たし、それを一気に喉へ流し込んだ。ナツメヤシの酒のような華やかさはなくとも、彼の頭脳は今や、東洋の黄金郷へと完全にタイムスリップしていた。
「書け、ルスティケロ。まずは、南宋の難攻不落の要塞、あの襄陽城をモンゴル軍が包囲した、血煙の上がる大決戦の話からだ」
三
「襄陽城の壁は厚く、五年の間、いかなる軍勢もそれを突き崩すことはできなかった」
マルコは、暗闇のなかで激しく身振りを交えながら、大デュマの小説の主人公の如き劇的な筆致で語り始めた。
「ハーンは焦っていた。そこで俺たちポーロ一家──俺と父、そして叔父が名乗りを上げたのだ。ハーンよ、我らベネチアの知恵を以て、あの頑強な城壁を粉砕する巨大な投石機を製造して見せましょう、とな! 俺たちは夜通し木材を削り、鉄の歯車を噛み合わせ、三百ポンドの巨石を遥か彼方までハッキング(射出)する無敵の攻城兵器を完成させた。その巨石が襄陽の城壁に激突した瞬間、地鳴りのような爆音が轟き、南宋の防壁は一瞬にして老廃物の如き瓦礫へと変わったのだ! ハーンは狂喜し、俺たちをその場で最高位の寵臣へと引き上げた!」
マルコの声は、独房の石壁を震わせるほど熱く、劇的に響き渡っていた。
ルスティケロは猛烈なスピードで葦のペンを走らせ、羊皮紙の上にフランス語の美しい墨痕を刻みつけていたが──ある一瞬、彼のペンの先がピタリと止まった。
ルスティケロの知性は、ただのラノベ作家のそれではない。彼は当時の十字軍の記録や、東洋の地誌のタイムライン(データベース)を、冷徹に頭の中で計算(逆ハック)していたのだ。
「……おい、マルコ。ミリオーネよ」
ルスティケロが眼鏡の奥の鋭い目をギラリと光らせ、ペンの先をマルコの鼻先に突きつけた。
「お前、今何と言った? 襄陽城の戦いで、お前たちが投石機を作ってハーンを勝利に導いた、だと?」
「そうだ、俺たちのベネチアの知恵が、歴史を動かしたのだ」マルコは胸を張る。
「大嘘を吐くな、このペテン師め!」
ルスティケロは羊皮紙を机代わりに床に叩きつけた。
「タイムラインが致命的にバグっている(矛盾している)のだ! 中国側の正確な一次資料を紐解けば、襄陽城が陥落し、戦いが終結したのは一二七三年。だがな、マルコ……お前たちポーロ一家が元の都(北京)に到着し、ハーンの御前に這いつくばったのは、その『二年後』の一二七五年ではないか! お前が元の国に到着した時、襄陽の城壁はとっくに降伏し、モンゴル軍の駐屯地になっていたはずだ。そこにいないお前たちが、どうやって投石機を作ってハーンの手柄になるのだ!」
独房の中に、一瞬、心臓の鼓動が止まるほどの凄まじい緊迫感が走った。
嘘を完璧に見破られたマルコ・ポーロ。だが、彼は怯むどころか、その大デュマの悪役の如き大胆な笑みを唇の端に浮かべ、ルスティケロの肩を強く掴み返した。
「フハハ……ハハハハ! 素晴らしいな、ルスティケロ! お前はただのファンタジー作家かと思えば、冷徹なハッカー(編集者)ではないか!」
マルコは悪びれる様子もなく、悪魔のウインクをしてみせた。
「さよう、襄陽の戦いの時、俺たちはまだペルシャの砂漠で泥にまみれていたさ。投石機を作ったのは、現地のペルシャ人技師どもだ。だがな、ルスティケロ。俺がハーンの宮殿でその勝利のデータを耳がタコになるほどスクラップし、俺たちの『ベネチアの技術力』として物語の中に組み込んだ。それが一体何だと言うのだ?」
マルコはルスティケロの顔を覗き込み、その低い声に狂気的な説得力を込めた。
「ヨーロッパの王侯貴族や、百年のちの探検家どもが求めているのは、『マルコという商人が、何月何日にどこへ行ったか』という退屈な帳簿ではない。東洋には、我らの想像を絶する巨大な『武力と富(ハーンの帝国)』が存在し、それを我らベネチアの知恵が動かしたという、圧倒的なロマンのロジックだ。俺の嘘は、世界を動かすための『偉大なる燃料』なのだ。ルスティケロ、お前のその劇的な文才があれば、この嘘は本物の歴史(東方見聞録)になる。お前も、この世界をハッキングする大嘘の共犯者として、歴史の玉座に座りたくはないか?」
四
ルスティケロは、マルコのギラギラとした剥き出しの執念を見つめ返した。
このベネチアのじじいは、確かにとんでもない大嘘つきで、強欲なペテン師だ。お茶の文化も、箸の風習も、万里の長城すらもスルー(無視)し、他人のデータベースから襄陽の投石機を丸ごとコピペ(捏造)して語る詐術の怪物。
だが、その大嘘の根底には、世界のすべてを自分の言葉でジャックし、文字の力で未来そのものを強制起動させようとする、狂おしいほどの生の熱量が満ち満ちていた。
のちに、グーテンベルクの「活版印刷」という未知の鉄のシステムによって何万倍にも増殖し、クリストファー・コロンブスの脳をジャックして大航海時代を強制起動させることになる、この『東方見聞録』。
その原典(祖本)が、今まさに、このジェノヴァの冷たく湿った監獄の片隅で、二人の悪魔的なハッカーの手によって、爆発的な産声を上げようとしていた。
「……フッ、仕方のないミリオーネ(百万男)だ」
ルスティケロは諦めたように豪快に笑うと、再び葦のペンをインク壺に深く浸し、最高級の羊皮紙の上へ構えた。
「分かりましたよ、マルコ。お前のその、現地へ行かなかった『架空の投石機』、私がこの世のどの円卓の騎士の物語よりも絢爛豪華な、血湧き肉躍る大活劇として、羊皮紙の上に不滅の城(文学)として築き上げて差し上げます。後世の歴史家たちが、お前の嘘を見破ろうと必死に年表を計算して、頭を抱えて迷子になる姿が、今から目に浮かびますよ!」
「ガハハ! それでいい、ルスティケロ! 歴史家どもなど、俺たちの文字の牢獄の中で、一生迷子にさせておけば良いのだ! 俺たちがここを生きて出られたなら、この大嘘で世界をひっくり返してやるわ!」
二人の天才(ベネチアの嘘つき商人と、ピサのラノベ作家)の不敵な笑い声が、ジェノヴァの暗黒の牢獄の底に、重々しく、そして香り高く響き渡る。
著作権などという近代の脆弱なバリアが生まれる遥か昔、鉄格子の向こうには、砂漠の夜空と同じ美しい三日月が浮かび、二人のハッカーが繰り広げた、虚実皮膜の『東方見聞録』の最も華やかなる大嘘の幕開けを、静かに、そして美しく照らし出し続けていた。
『世界の記述』をさらに引き立てる「もう一人のマルコ」という文学的パズルピース(伏線)が存在します。
実は、マルコ・ポーロが生まれる数年前、ポーロ家には「マルコ」という名の叔父がいました。
この叔父マルコこそが、若きマルコ・ポーロに東洋の富のシステムや商売の基礎を教え込んだ、初代の「知のハッカー」だったのです。
ジェノヴァ監獄の夜。ルスティケロが「マルコ・ポーロ、それがお前の本名か」と尋ねると、じじいはナビーズの代わりに泥水を啜りながら、不敵に笑う。
「ああ、本名さ。だが、ベネチアの街で『マルコ・ポーロ』と呼べば、誰もが『ああ、あのミリオーネ(百万の大ボラ吹き)の家系か』と笑う。だがルスティケロ、お前のペンがこの羊皮紙(世界の記述)を完成させたとき、この『マルコ・ポーロ』というありふれた商人の本名は、全ヨーロッパの野心家どもを海へと駆り立てる、不滅の恐怖と憧れの『呪文』に変わるのだ」
名前の分解
マルコ(Marco):彼のファーストネーム(個人名)です。ベネチアの守護聖人である「聖マルコ」にちなんで名付けられた、当時のベネチアでは非常に一般的な、誇り高き名前です。
ポーロ(Polo):彼のファミリーネーム(家系・姓)です。ポーロ家はベネチアで東洋貿易を営む高名な商人一族でした。
「本書(本作品)はフィクションです。作中に登場する人物、団体、名称、地名、事件などはすべて架空のものであり、実在するいかなる対象とも一切関係ありません。また、特定の思想・信条・宗教を支援または誹謗中傷する意図はございません。」




