プロローグ:地中海の怪物質と、五百年の硝煙
プロローグ:地中海の怪物質と、五百年の硝煙
一
一二九八年、九月。地中海の覇権を血で洗うようにして争っていた二つの海洋共和国──ベネチアとジェノヴァの激突は、アドリア海の孤島コルチュラの沖合において、ついに破滅的な臨界点を迎えていた。
ドォォォォンッ!!!
巨木をへし折るような凄まじい大音響とともに、ベネチア側の軍船の舳先が、ジェノヴァの誇る巨大なガレー船の脇腹へと突き刺さる。飛び散る木片、立ち上る黒煙、そして波間に投げ出されていく男たちの絶叫。それは、中世の海を支配していた二つの知のシステムが、互いの物流量(大船団)を物理的に圧殺し合おうとする、凄まじい無法地帯(戦場)であった。
「怯むな! ライオンの旗を掲げろ! 敵の喉笛を掻き切るまで、一歩も退くな!」
ベネチアの軍船の甲板の上で、血に濡れたサーベルを掲げ、獣のような咆哮を上げていた男がいた。
男の名は、マルコ・ポーロ。
当時、ベネチアの交易を牛耳る有力な商人一族の生まれでありながら、若き日に東洋の果て、大元ウルスの覇王クビライ・ハーンに仕えて三大陸の陰謀を潜り抜けてきた、御年四十四歳の怪物質である。
だが、個人のいかなる天才的なハッキング(戦術)も、迫り来る時代の物流量の前には無力であった。ジェノヴァ軍の圧倒的な包囲網の前に、ベネチアの艦隊は次々と撃沈(強制シャットダウン)され、マルコもまた、頭部から鮮血を流して甲板へと崩れ落ちた。
「ベネチアの『ミリオーネ(百万男)』を捕らえたぞ! この法螺吹きじじいを、ジェノヴァの暗黒の城へと引きずり回せ!」
勝者たちの野蛮な歓声が、夕闇の迫る地中海に響き渡る。
富も、名誉も、そして東洋から持ち帰ったはずの莫大な宝石の数々もすべてを強奪され、マルコ・ポーロは一瞬にして、泥塗れの捕虜(老廃物)へと転落したのである。
二
同じ頃、ジェノヴァの港を見下ろす断崖に築かれたマッパ・ムンディ(世界地図)の牢獄。その地下深く、海水が床の石畳をぬらぬらと濡らす独房の片隅に、もう一人の怪物質が静かに座していた。
男の名は、ルスティケロ・ダ・ピサ。
彼はかつて、ヨーロッパ中の貴族や婦人たちを熱狂させた『アーサー王伝説』の騎士道ロマンス(冒険譚)を書いていた、ピサ出身の天才作家であった。だが、数年前の別の戦争でジェノヴァ軍に捕らえられて以来、このジメジメとした暗闇のシステムの中に死蔵され、今や「牢名主」の如き佇まいであった。
ルスティケロは、手元に残されたわずかな羊皮紙の束と、一本の太い葦のペンを見つめ、自嘲気味に微笑んだ。
「私のペンは、この暗闇の中で完全にインク(生命力)を失っていた。騎士たちの華々しい聖杯の物語など、この泥水の匂いの前には、ただの脆いバリア(幻想)に過ぎんからな……」
ジャラリ。
その時、独房の重い鉄格子が開き、獄吏によって泥塗れのマルコ・ポーロが床へと投げ込まれた。
「おい、新入り。お前が世界中を見てきたと豪語する、あのベネチアの『ミリオーネ』か。この部屋の主はお喋り相手に飢えている。せいぜい、お前の得意な『百万の大嘘』で、この夜の退屈をハッキングしてみせるがいいや」
獄吏は吐き捨てるように言うと、ガチャンと重々しい鍵を閉めて去っていった。
静寂が戻った独房の中、マルコは床の藁を掴んで這い上がり、暗闇の中から自分を凝視している白髪交じりの男──ルスティケロと、真っ向から視線を交錯させた。その黒い瞳の奥には、すべてを失ってもなお消えぬ、東洋の虎の如き不敵な知性の光が燃え盛っていた。
「ベネチアのマルコ・ポーロ、それがお前の本名か」ルスティケロが葦のペンを弄びながら、低く、優雅な声で問いかけた。
「ああ、本名さ」マルコは唇の端を吊り上げた。「だが、世間は俺を『ミリオーネ(大ボラ吹き)』と呼ぶ。ルスティケロよ、お前が作家なら、俺のこの頭の中にある三万マイルの記憶を、羊皮紙の上に不滅の城として築き上げてみろ」
ルスティケロは、手元のアラビアインクの壺を床に置くと、狂気的なインスピレーションに顔を歪めて笑った。
「素晴らしい! お前が喋り、俺が書く。この鉄格子の暗闇の中で、世界を騙し、五百年後の未来をも誤誘導する最高の大嘘の城──『世界の記述(Le Devisement du Monde)』の幕を開けようじゃないか!」
三
二人の悪党の共同創作は、その夜から怒涛の勢いで起動した。
マルコは日本を見たことがなく、クビライ・ハーンも日本に勝てなかった。襄陽の戦いのタイムラインには決定的な「二年のバグ」が潜んでいた。だが、そんなことは些事であった。
マルコが南中国の酒場でスクラップしたペルシャ商人の噂話、ハーンの敗戦の悔しさが生んだ妄執のデータ。それらがルスティケロの『アーサー王伝説』の絢爛豪華な魔法の宮殿の描写とコピペ(融合)された瞬間、羊皮紙の上には、誰も見たことのない不滅の「黄金の国ジパング」のシステムが完成していった。
「ルスティケロ、この文字の力(東方見聞録)があれば、俺たちがここを生きて出たあと、世界を物理的にひっくり返してやるわ!」
一二九九年、二人は釈放され、それぞれの最期へと向かう。
ルスティケロは「自分の書いたファンタジーが本物の世界地図を塗り替えていく様」をニヤニヤと眺めながら歴史の闇(名もなき急死)へと消え、マルコはベネチアで大富豪となり、七十歳の臨終の床で「俺は自分が見てきたことの半分も書いてはいない」とふてぶてしい遺言を遺して大往生を遂げた。
だが、二人の仕掛けた「大嘘(文学)」の真の恐ろしさは、彼らの死後、一四五〇年に登場する「活版印刷(グーテンベルクの機械)」という未知の物流量の波に乗った瞬間に、爆発的に強制起動することとなる。
大量増殖された『東方見聞録』は全ヨーロッパの野心家たちの脳を完全にジャックした。
一四九二年、スペインのセビリアの図書館。
印刷されたそのジパングのページをボロップに擦り切れるまで読み込み、三六六箇所もの妄執の直筆メモを書き込む男──クリストファー・コロンブスの背中があった。
「黄金の国ジパングへ行くのだ! ハーンの富を、この俺のこの手でハッキング(強奪)してやる!」
コロンブスは狂喜乱舞して大西洋へと船を出し、本当に世界を大航海時代という無法地帯へ叩き込んだ。知らない二人が監獄の夜に紡いだ嘘のデータが、五百年後の地球の歴史を物理的に強制起動させてしまったのだ。




