第四十話
40
「イヴァン。おい、目を開けてくれ!」
駆け寄ってどうすればいいのか分からず、名を叫んだ。
命はまだあった。だが、呼びかけに答えることはなく、呼吸も怪しい。
「ああ、ち、血が……。血が止まらない」
靄の剣で貫かれた場所から血がどんどん流れている。それだけではなく、蛆のような靄が傷口付近で蠢いていて、イヴァンの体を呪っていた。
「くそ! 離れろよ!」
靄を掴んで遠くへ放り投げる。手のひらに焼ける痛みがあったが、そんなことはどうでもよかった。
「どうすれば……。どうすればいいんだ!」
イヴァンの傷を左手で圧迫しながら視線を洞穴のあった岸壁に向ける。そこには白槍に肩を射抜かれ磔にされて沈黙する人型の姿があった。
肩を貫いているのは間違いなくムネノリの白槍だ。視線を移せば、ムネノリが腕をこちらに伸ばした状態でうつ伏せに倒れている。おそらく、最後の力を使ってイヴァンが殺されるのを阻止してくれたのだろう。
一時的に危機は脱した。だが、これからどうする。どんな選択肢が残されている……?
「リ、ウム……さん」
不意にイヴァンの声が聞こえた。傷と呪いの痛みのせいで、肺から空気が漏れるような呼吸をしながらうなされるようにリウムの名を何度も呼んでいる。
「大丈夫だ。我がここから連れ出してやるから」
血まみれの手を取り、胸に抱く。握りしめるリウムの手にイヴァンの痙攣の震えが伝わってきた。
無理だ。出血がひどい。靄の剣で貫かれた傷は深く恐らく臓器も傷つけている。
「……お、お前を索敵班に任せたら……その後にムネノリとサナを助けに戻ってくる。大丈夫だ、みんな手酷くやられたが、少し休めば元気になる」
それはイヴァンを励ますためというよりも、そうなってほしいというリウムの願望だった。口に出すことで、ありえない未来を手繰り寄せられるような気がしたのだ。
「とりあえず少しだけ場所を変えよう。いいか、体を起こすぞ。ちょっと痛いと思うが我慢を──」
「リウム、さん。もう、手遅れ……す」
そして、そんな思いが通じたのか擦れたイヴァンの声がリウムの手を止めた。
唇を震わせているのは寒さからではない。顔から生気という生気が失せている。目から光が零れ落ちていくようだ。
「……そんなことない。我が助けるから」
「逃げて……今なら、まだ、間に合う、から」
「我は一緒に戦うと約束したんだ。だから、絶対にこんなところでお前を死なせたりはしない」
「むり、す。俺、は、もう動けない。ゲシュで血を止めようとしてるっすけど、上手くいかないんす」
ゲシュは体内を流れるもう一つの血液で生命力のようなものだとムネノリは言っていた。それが上手く使えなくなってきているということは、それだけイヴァンの体が力を失くし始めているということでもあり、命の灯が徐々に小さくなってきていることを示している。
つまりイヴァンの体は死に向かっている。
「……一緒に戦うんだろう。ミイナを守るって言ったじゃないか。約束守れよ……。諦めないでくれよ」
「リウムさん。俺は……」
「があああああああああああああああああ!」
慟哭。
耳をつんざく慟哭が周囲の音を全て覆い隠す。
「ごみが、じゃまするな」
肩に突き刺さっていた白槍を乱暴に引き抜き、そのまま握り砕いた。
黒い渦の比率が増えて汚泥の色になった翠眼がリウムを睨みつける。
「ていこう。むだ。むだは、するな」
続けて。
「おまえたち。ぜんぶころす」
「リ、ウムさん……!」
イヴァンの瞳から涙が流れる。逃げて命を繋いでくれ。そんな声が聞こえてきそうだった。
「我は……」
逃げる。逃げない。
選択肢は二つだ。その選択がどのような結果に結びついているのかは考えるだけ無駄だ。
今この状況でなにかを選択することができるのはリウムだけで、もう心は決まっている。
サナは怪我をして動けないムネノリをリウムとイヴァンに託して戦った。
ムネノリはサナの自己犠牲の道を歩むことを選んだ。
イヴァンは戦えないムネノリとリウムを守るために、勝てないと知りつつも勇敢に戦い抜いた。
みんな仲間に生きてほしいと願って戦った。その意思を託されて死に繋がる選択を選ぶことなどどうしてできようか。
リウムは選ばなければならない。仲間が残してくれた逃げるという選択を。
目を閉じれば戦って散っていった人たちの背中が瞼に浮かぶ。彼らはみな、強敵を前に引くことなく、自らの心の芯を守り戦った。
すぐ目の前に死が迫っていても逃げなかった。それはこの世界で背を見せて逃げることが、自身のみならずミイナの仲間の死に繋がると理解していたからだ。
それならばリウムは? この場で逃げることは仲間の意思を継ぐことで、しかし、その選択はミイナで待つ人々の死に繋がる。
自らの命か、ミイナの人々の死か。
「……すまない、みんな」
リウムは立ち上がる。イヴァンが顔を歪めて首を振るが、笑みを返して人型と向き合った。
「防衛班のみんなもヴィクターさんも生きていたかったはずだ。それでも守りたい人のために戦い命を散らせた」
左手を強く握りしめる。
「我は……なにもなかった。誰かのために命を賭ける気概も、この世界で生き続けようとする意思も」
熱い。全身の血が沸騰しているかのように。体が燃えているかのように。
「でも、今は違う。例えゲシュが覚醒していなくとも。例え敵わない敵を前にしたとしても。我の戦いにミイナの人たちはきっと意味を見出してくれる。我の覚悟にきっと報いようとしてくれる。我が……例えここで我らが貴様に殺されようとも、この死はなによりも価値のある死になるだろう! そして、我らの覚悟を継いでミイナの人々は必ず立ち向かい貴様を討ち滅ぼす!」
「かかか。おまえ、かてるき? ばか。よわいくせに」
安い挑発をリウムは軽く鼻であしらう。
「ふっ。勘違いするなよ。貴様が戦うのは我じゃない。我らミイナの戦士たちだ!」
「かかかかかかかかか。ばか」
「笑ってろ。最後に笑うのはミイナだ」
リウムは駆け出した。背後でイヴァンの叫ぶ声が聞こえたが、もう止まることはない。
すまないイヴァン。お前との約束は果たせない。しかし、お前の抱いた夢を繋いでくれる者は必ず現れる。
だからこれは無意味な自殺行為ではない。これは我らの思いを未来へ託す、勝利への一歩なのだ。
「イウ、もどらない。でも、お前、たち、ころせば、喜ぶ。お前の、ほかのなかま、も、みんなころす」
人型の気配が変わる。周囲の木々が騒めき、風が吹き荒れる。
「よわい、にんげん。ぜんぶ、ころして、ころしつくして、おわり。ごみおわり」
熱波のような殺気が体に纏わりつく。息を吸うと、噎せ返るような気持ちの悪い空気が肺に送り込まれるだけで、苦しいばかりだった。
それでもリウムは足を止めない。殺気を正面から受け止め叫ぶ。
「我は」
何故失った右腕を振り上げたのかは分からない。ただそこに右腕があるような気がした。
「我は……俺はっ、俺たちは!」
アシュテートの、人間の、ムネノリ、サナ、イヴァン、そして自身の想いをこの化け物畜生に見せつけて味合わせたかった。
己の中で猛り狂う熱を激情へと変え、形を作り出す。この拳で殴りつけるのは人型だけではない。
この理不尽でくそったれた世界の主だ。
「殺されるだけのゴミじゃねえんだよ!」




