第三十六話
36
さて、と改めて人型を前にしてサナは気がついたことがあった。
(こいつ、体の靄が減少してきている)
トリアンの位に当てはめるのであれば、ミイナ襲撃時はヲムートだった。だが、現在は体の起伏が分かるほどに靄の量が減少していて、血の気はないが人の肌と思われる部分は顔だけだったのが、今は鎖骨辺りまで広がっている。
漆黒の長髪は靄と同色なので分かりにくいが艶があり、同じ女としては目を引かれそうになる。
それに変わったことはまだある。サナを捉えている翠眼に黒い筋のようなものが混じり始めているのだ。
黒い筋は瞳の中で渦を巻いていて、見つめていると目の奥に引き込まれそうな錯覚を引き起こす。
元々そうだったが、更に不気味になった人型にサナは分からないように生唾を飲み込んだ。
「おまえ、まえはつよかった。でも、いまは、つよくない」
「随分な口をきく。私はまだ本気じゃない」
これは事実だ。ただ、本気を出す間もなく攻撃されて負傷しているので言葉通りの意味ではない。
「かかかか。なら、なら──おまえのがつよい?」
サナは答える代わりに笑みを浮かべて、兼定を中段で構える。
「身体強化一段・クルーファイ」
サナを取り巻く空気が変わる。静電気の弾けるような音がそこかしこから聞こえ、高い位置で括った髪が風に吹かれたようになびき始める。
「それ、さっきフイウチしてきたときにやった。イミなかっただろ」
サナの纏う気配の変化を人型は侮蔑するように一笑する。
確かに人型の言う通りだ。ミイナでの戦闘を加味してそれで充分足りると判断したが、殺気を気取られて失敗してしまった。
甘かった。
作戦の失敗の原因は全力で戦わなかった自分にあると自覚している。
そのせいで仲間をいらぬ危険に巻き込んでしまった。
「そう。だから、今度は本気でいく」
だからこそ、万全でなくとも挽回の機会を得られたことをサナは嬉しくも思っていた。
ここで人型を殺し、自らの罪を清算する。そして、ミイナを守る日常に戻る。
「身体強化二段」
そのためならば、ムネノリに禁止されている技を使うことに躊躇いはない。
肺の空気がなくなるまで息を吐く。そして、体の細胞全てを活性化させるように空気を吸い込むと昂らせたゲシュを筋肉の隅々まで行き渡らせ。
「エスケニアード!」
殺してやる。
◇◇◇
身体から立ち昇る湯気が陽炎を作り出し揺れる景色が青く滲む。
髪を括っていた紐が弾けてサナの長髪が重力から解放されたように漂い逆立つ。
体から発せられる剣気がサナの周辺の大地を弾いて亀裂を走らせた。
「があ……ぐるぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
突如として激変したサナの気配を敏感に察知した人型が吠える。体の靄が逆立ち、さざ波を打つようにうねった。
いける、とサナは内心で思う。人型の見せる怯えと抵抗の仕方は強者を前にしたときに獣が見せる防衛反応だ。
知性はあれど、まだ人ほどではなく、恐らくまだ動物的な感性が強いのだろう。
人型は吠えながらも半歩下がっている。
深層に秘められた恐れを引きずり出した。それが意味するところは、今のサナが人型にとって脅威になっているということに他ならない。
「……っ」
しかし。
喉をせり上がってきたものを根性だけで飲み下す。口内に広がる嫌な香りと視界を遮る閃光に一瞬平衡感覚を失うが、それでもどうにか踏ん張って堪えられた。
強力なトリアンと戦うために編み出された身体強化術は全部で三段まであり、段数が上がるほど効果が高まる。
術の構造はゲシュを体内に巡らせて身体能力を劇的に向上させ人の限界を引き上げるもので、トリアンとの戦闘では必需とされる術だが、ゲシュによって強制的に肉体の限界を引き上げているために副作用があるため使いどころが限られてくる。
特に今サナが発動した二段目のエスケニアードは、翠荘でも限られた者しか扱うことができず、得られる力はまさに人外の極地に至るが、当然体の負担は一段と比べると比較にならないほどだ。
特に今のように怪我をしている場合は、火かき棒で内臓を抉られるような激烈な痛みに襲われ、場合によってはショック死する可能性もあるほどだ。
(意識が飛びそう……)
呼吸をするたびに折れたあばら骨が、皮膚を突き破って飛び出してくるのではと思うほどに激しく痛む。全身が燃えるように熱い。視界の端が白く滲む。
そんな状態で身体強化術を発動するのはほとんど自殺行為に近いものがあった。
そもそもがこの身体強化二段は本来肉体的に健全な状態で使用する場合でも、稼働時間は精々五分が限界と言われている。使用後は猛烈な虚脱感と数日は動けなくなるほどの全身の痛みに襲われる代物だ。
こんな状況でなければまず選択肢に入るようなものではない。だが。
(こいつはエスケニアードを使わなければ倒せない!)
諸刃の剣と知りながらも、サナは覚悟を決めた。
すべてはミイナのため。守りたい人々と守れなかった人々のため。
「しね、しね、しねええええええええええええええ──」
「はっ!」
人型が威嚇の雄叫びを上げた瞬間に、一息で飛び込み胸に向って突きを繰り出す。
「──ぎいえええええええ」
目にも止まらぬ全速力の正面突きは通常のトリアンであれば確実に息の根を止めることができた一撃であったが、相手は人型。
サナの踏み込みに即座に反応して奇声を上げながら体を捩って躱した。しかし、まだサナの攻撃は続く。避けられたと知るや否や、すばやく薙刀を引くと再びの突き攻撃。
身体強化二段によって強化されたサナの動きは常人を遥かに超える速度で、人型の目には一撃目を躱した次の瞬間には二撃目が向かってきているように見えたことだろう。
実際、今度は左肩に刀身の半分程度が突き刺さった。
「ぎぃいいいいああああ!」
だが、致命傷には程遠く、また間合いに入ってきたサナ目がけて人型は左腕を例の剣に変形させて突き攻撃を繰り出す。
靄の剣は長さを自由に変形させられるのか、実際の腕の長さを越えてサナの顔面を狙う。
「なん……のっ!」
しかし、その一連の攻撃を先読みしていたかのように、紙一重で突き攻撃を躱し、兼定を手放して人型の懐に潜り込んだサナは鳩尾辺りに拳を叩きこむ。
「ぐぼおおおお」
身体強化されたサナの拳は砲弾の威力を越える。体にめり込む拳が人型の体を打ち抜く。
「まだまだぁ!」
攻撃の手はまだ止まらない。今度は顎を打ち上げ、人型の肩に刺さっていた兼定を引き抜くと。
「はああっ!」
そのまま渾身の力で人型を袈裟に斬り捨てた。
兼定は確実に肉を切り裂いた。




