第一話
01
暗い水の底にいた。目を開けてもなにも見えず、心細くなって誰かの気配を感じたくて手を伸ばそうとするが体の感覚は希薄だった。そんな暗くて自由がないだけの世界で我は佇んでいた。
◇◇◇
胃の浮くような浮遊感。凍えるような寒さ。正面からは目に見えない壁に押しつけられるような圧迫感。そして、鼓膜を直接叩かれるような爆音に慣れた頃、眼下に広がったのは覚えのない景色だった。
寒々しい灰色と豊かな自然の生命力を示す緑色がせめぎ合う大地が広がっている。
真下には三本の川の水を貯水する大きな湖があり、その湖から下流に伸びる川は一度滝に落ちて渓谷を作り、蛇のようにうねりながら彼方まで続いている。
そこでようやく、どうも遥か上空から落下しているようだ、と自らの状況を理解した。
ここはどこなのだろう。それが遥か天空から雄大な自然を目の当たりにして抱いた最初の感想だった。
案外冷静だ。気がついたら空に放り出されたとしても、この状況に取り乱すことはなく、まるで凪いだ湖面のような気持ちだった。だが、それは悟りを開いて老巧な将のように状況を見極めているからではなく、諦めの境地に陥ってしまっているからだ。
何故そんな心境なのか。それは単純になにをしても意味がないからだ。
恐怖に泣き叫んだとしても、現実を拒絶してみたとしても結局のところそう遠くないうちに大地に叩きつけられて赤黒い染みになることが確定しているのだ。
喚いたところで意味はないし、どうせ逃げられはしない。それなのに慌てふためくことが馬鹿馬鹿しく思えた。
それに誰にも見られていなくとも無様に取り乱す姿を晒すというのはどうにも感情が許さない。だから早々に考えることを諦めて死後の世界にはなにがあるのだろうか、と妄想に浸ることにした。
それはそれで間の抜けた発想の転換なのかもしれないが、誰に頭の中を覗かれるわけでもなし、これくらいしかやることもないのだから仕方がない。
そう腹を括っていたのだが──。
──グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン。
耳に届いた音を聞いたとき、体を刻まれるような寒さに幻聴でも聞こえたのだと溜息をついた。しかし、間を置かずに再び同じような音が聞こえて、その生々しい轟きにどうにも違和感を覚えた。そして、音の発信地を探ろうとしてぐるりと見渡した瞬間、目を疑った。
「なんだ……あれは」
丁度真下から真っすぐこちらに飛んでくるソレは全身に黒い靄を纏い、姿形はぼやけているものの堅牢な城壁をいとも簡単に切り崩してしまいそうな鉤爪や、爬虫類を思わせる横に裂けた口は一度に数十人を噛み砕くことも容易に可能なほどの大きさを持っていることが伺えた。
ソレの姿を見て、すぐにある言い伝えが思い浮かんだ。
それは太古に存在し、ときに神と、ときに異形と呼ばれ人々から畏敬の念を向けられてきた存在。
呼び方はいくつかある。だが、リウムが直感的に思い浮かんだソレの名は。
「ドラゴン……!」
驚愕から零れた小さな呟きにドラゴンの額にある白三つ、翠一つの計四つの瞳が見開かれる。そして、喉の奥を震わせ翼を羽ばたきながら。
──グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン。
雄叫びの圧力で一瞬落下が止まるような錯覚をするほどの轟音。
四つの瞳をせわしなく動かしながら剣山のような牙を剥いて加速した。
距離は息を一つ吸う間に手が届いてしまうほど。咄嗟に避けようとして体を左に逸らすも──。
「く……そっ!」
当たり前だが空の上では地上のようには動けない。
右耳の真横で重厚な鉄門が閉められるような音と共に肉と骨が切断される生々しい音がした。
右腕を食いちぎられた。
「ぐあああああ……あ?」
いつまでもやってこない痛みに首をひねった。見てみると確かに右腕は食いちぎられている。
これはどういったことだろう。精神が興奮している状況では痛みを感じないことがあるというのはままあることだが、今がその状態なのだろうか。しかし、出血がないのは不自然だ。
ただ、出血による意識喪失の心配がないだけマシだと瞬時に思考を切り替える。
体を反転させて背中で風を受けるような体勢をとる。ドラゴンも仕留め損ねたのを理解していたようで、器用に反転し空を泳ぐように円をかきながら、
──グルラァァァァァァ。
と、小癪な真似をと言いたげに喉を唸らせた。そして、再攻撃をするための急降下を始める。
どうする。どうする。どうする。どうする。
一度は諦めた命だがドラゴンに噛み砕かれ引き裂かれるのだけは御免被りたい。
だから、どうする、なのだが。
「案なんか思いつくかよ」
──グラアアアア。
逃げる以外の選択肢はない。だが、この広くて人には水の中よりも身動きが取れない空の上で一体どうすればいいというのだ。
逃げることも身を隠すことも不可能。一度目は奇跡的に腕だけですんだが、次は同じようにはいかないだろう。
無理だ。ここで殺される。
無慈悲な破壊の権化を前に諦めが心を支配していく。剣山のような牙に生きたまま噛み砕かれ、見るも無残な姿になった自身を思い描き胃の腑がひっくり返ったような吐き気を催した。
豆粒くらいの大きさだったドラゴンがすぐそこまできている。
痛いのは嫌だった。だから、ほんの少しでもいいから逃避しようと目を瞑ろうとして──。
「……あれは」
一つの違和感に気がついた。
それはドラゴンの白い三つの目はあらぬ方をギョロギョロと向いているが、一つある翠の瞳だけはしっかりとこちらを見つめているという点だ。
そこで、はたと一つ思いついた。もしかして、四つのうち見えているのは一つだけなのではないか。
人や動物は二つの目を使うことで視野を確保し、距離感を掴む。あのドラゴンが通常の生物であるかどうかの議論はありそうだが、もし目の役割が人や動物と似ているのだとしたら。
迷う時間はない。もうここに賭けるしかないのだ。咄嗟に体を大の字に開く。
ドラゴンが接近する。そして、その口が開かれて牙を剥いた瞬間。
「今だ!」
開いた手足を畳み、体を翻した。
通常であればこのようなことをしても無意味だろう。しかし、一つしか目の見えていないドラゴンの距離感に微細な差異を生じさせ、攻撃のタイミングをずらすには十分だった。
目と鼻の先で巨釜のような口が鋼を打つような音と共に閉じられる。そして、ドラゴンの横顔をぶつかるように転がり靄に覆われていた体の突起にしがみついた。
「なんとかなった……が」
一か八かの賭けに勝ち、とりあえずドラゴンの体にしがみつくことはできたものの、さて、これからどうすればいいのだろうか、と新たな問題に直面した。
位置的に手(足?)は届かないため掴まれることはないだろうが、とはいえ、地面に体を擦りつけられればすりおろされた肉片の出来上がりになるわけで、依然危機は去ってはいない。
墜落死の可能性はなくなったものの、死を回避できたというわけではないのだ。
それに問題はそれだけではない。
「ぐっううううあああああああ……」
ドラゴンを覆う黒い靄に触れている部分がまるで無数の針で貫かれるような、火で炙られているような激痛が走る。
そこに輪をかけて、ドラゴンが振り落とそうと急旋回や上下動をするので振り落とされないようにしがみつくと更に痛みが増すのだ。
それは到底耐えられるようなものではなかった。痛みで体の感覚が麻痺したのか、それとも一瞬だけ気を失ってしまったのかは、はっきりとはしない。
首筋に風を感じ浮遊感に目を開けたときには再び地表に向かって落ちていた。
──グルラァァァァ。
ドラゴンの唸り声が足の方から聞こえてくる。首を動かそうとしたが、全身に激しい痛みが走り指一本動かすことができない。
どうやらここまでのようだ。
(もう無理か。ならば、せめて綺麗な自然を見て死にたい)
牙が迫る恐怖をまざまざと感じながら死ぬのは嫌だった。だから、ドラゴンを無視して視線を地表へと向ける。
緑に囲まれた湖は周囲の色に染まっているのか翠色をしていた。太陽を反射することで星屑を散りばめたような煌めきを放つ湖面は、死に際に見る景色としては十分すぎるほど綺麗だった。
惜しむらくは誰か他の人間が墜落死したのか、もしくはドラゴンの餌食になってしまったのか、落下地点に赤い染みがあることだろう。
最後に嫌なものを見てしまった。そう思ったのも束の間、いや、と否定する。
「人……だ」
赤い染みではない。あれは体から立ち昇る赤い陽炎を纏った人だ。
そう思った瞬間、水面に大きな波紋が広がる。そして流星の如く赤い光の尾を残すそれは、真っすぐ飛び上がって瞬きを数度する間にすれ違った。
「──女のひと……?」
その一瞬。断言はできないが、黒髪の若い女性の横顔を見たような気がした。
赤い閃光はそのままドラゴンへと向かう。ドラゴンも突然の乱入者に気がついたらしく咆哮を上げながら剣山の牙を剥き、そして──。
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