乙女の頬は水に濡れる
険しい山道と向き合い続けているうちに、俺はなんだか眩暈がしてきた。
「どうかしたの?」
「いえ、なんでも……」
とは言ったものの、正直今にも後ろに倒れていきそうだ。俺は杖を前に突いてなんとか体勢を保った。
前を行くダレンは平然とした顔をしている。どうしてそんな顔をしていられるんだ? この眩暈は間違いなくあの教会から放たれるオーラのせいだろう。なぜ俺だけがこんなにも苦しんでいる?
俺の心に憎しみが湧きかけて、ハッとした。なぜ俺はダレンを憎みかけているんだ。
(しっかりしろ!)
水滴を払う犬のように頭を振ると、にわかに視界が眩しくなった。導かれるように顔を上げる。いつの間にか俺達は教会の前に辿り着いていた。とんがった屋根の向こうに太陽があって、どうやらそれが雲間から顔を出したようだった。
「ここが……」
「……多分ね」
俺はそう言って、ダレンと共に草むらに隠れた。草むら越しに教会を眺めるが、その内部や周囲に人の気配はない。シスター達の笑い声も、ぱたぱたとした足音も、クッキーの焼ける匂いもしていない。俺はザックから一つの小箱を取り出した。
蓋を開くと、中には緑色の角笛が入っていた。森竜の角笛だ。
「『ここに啓鐘者が居た時代』……本当に行けるのかしら」
ダレンはぽそりと口にした。
啓鐘者が着ていたシスター服は間違いなくこの島のものだ。そして俺は山を登る途中、見晴らしの良い場所から島全体を見渡したが、この教会以外の教会は見当たらなかった。
啓鐘者がなぜ、どのようにしてあのシスター服を着たのかということに、絶対の予想は立てられない。ただ、彼女がこの場所であのシスター服を着た可能性はかなり高い気がした。
「行けなかったら、別の時代に飛ぶだけですわ」
あの時代に飛んだときのように。
俺は角笛を咥えようとした。しかし指がばねのように跳ねてもつれ、角笛を取り落としてしまった。
「クラブ?」
「な、なんでもない」
落ち着け、俺。もうこれを吹くと決めただろう。
俺は角笛を拾い直し、今度こそ咥えた。そしてそっと目を閉じ、太く長い息を吹いた。神妙に、繊細に。
森厳な音が広がっていく。枯れた木々の隙間に風が吹いて、樹皮の香りが濃く香って、世界が更に眩くなる。
(あれ、前はどれぐらい長く吹いたんだっけ?)
不意に俺は迷ってしまって、気持ち長めに笛を吹いた。とにかく不足がないように。長く、長く吹いて……ようやく息を止めて、目を開いた。
——アハハハハ!!
耳がひくつくような笑い声が聞こえて、俺は咄嗟に身を屈めた。本能的な恐怖を感じた。
教会の方を見る。いつの間にか周囲には香ばしいクッキーの匂いが漂っていて、教会の中からはざわざわとした姦しい声と足音、調理器具の擦れる音がしていた。
「お姉様ぁーーーーっ!」
背後から喜色に溢れた声がして、俺は声にならない悲鳴を上げて振り返った。そして思いがけず息を呑んだ。
こちらに駆け寄ってくるシスター服の少女。その周囲に生える木々の枝には、見たこともないような、ほのかに色づいた乙女の頬のような、美しい薄ピンクの花々が咲き乱れていた。俺は悠長にもほんの一瞬だけ、その美しさに心を奪われた。
しかし次の瞬間には、その少女に見つかってしまうことへの恐怖を思い出した。いくら気配を消す魔法を使っているといっても、絶対に存在に気づかれない訳ではない。こんな草むらに隠れているアルーヴ村の船員など、どう考えても怪しいだろう。俺はぎゅっと身を硬くした。しかし。
少女の足は、俺の身体をすり抜けた。
「えっ!?」
俺は驚愕の声を上げたが、それも少女は意に介さない。
少女は教会の扉に飛びつくと、それを開いてご機嫌に中に駆け込んでいった。
「ど、ど、どういうこと……」
「私達、死んじゃった?」
「幽霊になっちゃった!?」
俺は今度こそ悲鳴を上げた。間違いない。俺の身体は先程、幽霊のように少女の身体をすり抜けた。気配を消す魔法をかけていたとはいえ、少女は俺達の存在に気づかなかった。どう考えてもおかしい。俺達はもしや、角笛の力がなんか悪い風に作用して……!?
「えいっ」
「わあっ!?」
俺は突然にダレンに突き飛ばされた。地面に倒れ、抗議の意を込めてダレンを見上げると、彼は突き飛ばした側とは思えない間抜け顔をしていた。……突き飛ばした?
「てっきり、すり抜けるかと思ったんだけど……」
「……わたくしも」
俺はもぞもぞと起き上がり、目の前の草むらに手を伸ばした。すり抜ける。ダレンに向かって手を伸ばす。すり抜けない。立ち上がる。見下ろす。影がない。
「なんか都合の良いことになったぞ」
「多分角笛の力かな」
「気持ち長めに吹いたからなあ」
「そういうことね」
ダレンは何の躊躇いもなく草むらを出た。最早怯える必要はないと判断したのだろう。彼はずかずかと歩いていくと、教会の扉にそのままの勢いで突っ込んでいった。扉をすり抜ける彼の姿は、俺の目にとても奇妙に見えた。
慌てて後を追って行き、教会の内部に顔を出す。そこは薄暗い聖堂で、暗い赤のカーペットが伸びる先に、くすんだステンドグラスの大きな窓と真新しいテオドアの像があった。像は聖テオドア騎士団の本部にあったものと似ているのに、どこか陰鬱でカルト的な雰囲気を纏っていた。
そしてその聖堂の中心に、数人のシスター達が居た。
「ああ、本当に穢らわしい!」
シスター達は一人の少女を取り囲んでいた。取り囲んでいるうちの一人が少女の頭を踏みつけて、水で満たされた木桶に顔を漬けさせた。ばしゃりと水飛沫が上がり、カーペットが濡れる。
「阿婆擦れ女。あなたみたいな女は、テオドア様の元に召される価値もないわ」
「その通り!」
「テオドア様以外の男はみんな汚れてるの。テオドア様以外の男はクズ。それもわからないあなたに、テオドア様に召し仕える資格はないわ!」
シスター達は口々に罵声を浴びせると、少女の胸を蹴り上げた。水中から解放され、仰向けに倒れた少女が激しく息を吸う。
「桶を片付けておきなさい。慎ましく桶を洗っておけば、多少穢れも清まるかもしれないわよ」
「夜になれば、それ以上に穢れるのでしょうけどね!」
「夜になったら何をするのやら! ああ、本当に穢らわしい!」
シスター達は耳障りな声で笑い合いながら、聖堂を去っていった。静かな聖堂に鬼気迫る呼吸の音が響く。しばらくして、少女はよろよろと身を起こした。
「……夜になったら、好きな小説を読む。そんなの私の自由じゃん」
悔しげに、泣きそうにそう呟いた少女の声は、か細く独特の色を孕んでいた。素朴でありながら特徴的で、印象に残る声だ。その声を聞いたダレンが目を見開いた。
「……啓鐘者」
「えっ!?」
ダレンの目は少女に釘付けになっている。俺もまた少女をしっかりと注視した。真新しい冥色のシスター服に、深い夜を溶かして梳いたような三つ編み。垢抜けない雰囲気でありながら、ぱっちりとした大きな瞳が俺達の方を向いた瞬間、俺は意表を突かれた感じがした。魅力的な雰囲気の少女だと、そう思った。しかし——
「——彼女が、啓鐘者?」
ダレンはどうしてそんなことがわかるのだろう。俺達の目の前に居るのは、あの悍ましい姿とは似ても似つかない少女だった。




