第8話「ただの偶然」
レンは、困惑したまま家に帰ってきた。
靴を脱ぎ、階段を上ろうとしたところで、キッチンから母親の声が聞こえてきた。
「レン? もう帰ってきたの?」
「うん」
母親がキッチンから顔を出す。
そして、息子の顔をじっと見つめた。
「……何かあったの?」
レンは足を止めた。
数秒ほど黙り、どう説明すればいいのか考える。
「今日、ちょっと変なことがあったんだ」
「変なこと?」
「女の子に……僕がその子を尾行してるって言われた」
母親は驚いたように目を見開いた。
「あなたが?」
「違うよ!」
あまりにも早い否定に、母親は思わず笑った。
「本当に尾行なんてしてない。そもそも、そんなつもりすらなかったんだ。ただ何度か偶然近くにいただけで……。説明しようとしたんだけど、何も言わせてもらえなくて、そのまま行っちゃった」
母親は少し考え込んだ。
「もしかしたら、本当に何度か偶然会っていたのかもしれないわね」
「……そうかもしれない」
「それなら、その子は偶然じゃないと思ったのかも」
レンは考え込んだ。
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
「……なるほど」
「だったら、今度会った時に落ち着いて説明すればいいんじゃない?」
「話を聞いてくれるかな?」
「ちゃんと説明すれば、きっと分かってくれるわよ」
レンはゆっくり頷いた。
「分かった」
そう答えてから、レンは階段へ向かった。
その途中で、心の中で呟く。
『……あの子と話すこと自体が難しいんだけどな』
『それに、事情を説明するとなると……もっと難しい』
レンは自分の部屋へ戻った。
しかし、母親と話した後も、胸の中に引っかかるものは消えなかった。
自分がしてもいないことを疑われた。
それが、どうしても気になって仕方がない。
かつては、もっと酷いことで疑われたこともあった。
世界を滅ぼした。
神々を倒した。
宇宙の法則を破壊した。
そんな言葉を浴びせられたことだってある。
だが、それらはもう遠い昔の話だ。
今のレンにとっては、どうでもいいことだった。
それなのに――
たった一人の女子生徒との些細な誤解が、妙に頭から離れない。
「……駄目だな」
レンは小さく息を吐いた。
「少し外を歩こう」
*
レンは小さな私物の本棚から一冊の本を取り出し、バッグに入れた。
そして家を出た。
家の近くには、小さな公園がある。
レンはそこへ向かって、ゆっくりと歩いた。
道の途中で、何度も周囲を見渡す。
東京は、今日もいつも通りだった。
仕事帰りの人々。
笑いながら歩く学生たち。
道路を走る車。
犬を連れて歩く老人。
誰もレンに興味を示さない。
誰も彼を恐れない。
誰も彼を神と呼ばない。
ただの一人の高校生。
それだけだった。
『……この世界は、完璧だな』
レンは、ほんの少しだけ笑った。
かつては、無数の文明が彼の前に頭を垂れた。
だが今は違う。
誰もレンの正体を知らない。
そして――それが心地よかった。
*
公園に着くと、レンはベンチに座った。
バッグから本を取り出す。
そして、ゆっくりとページを開いた。
読み始める。
急ぐ必要なんてない。
一ページずつ。
ゆっくりと。
かつてのレンなら、一冊の本など一瞬で読み終えることができた。
だが、今は違う。
彼はただ、本を読むという行為そのものを楽しんでいた。
ページをめくる。
また一枚。
そして、もう一枚。
いつの間にか、今日の出来事も頭から離れていた。
レンは少しずつリラックスしていった。
――しかし。
「また本なんか読んでるのかよ」
聞き覚えのある声。
レンは顔を上げた。
「……タケオ」
「俺以外に誰がいるんだよ」
タケオは呆れたように笑った。
「お前を探してたんだぞ。それなのに、また本かよ」
そしてレンの本へ視線を落とす。
「たまにはスポーツでもしろよ。運動場に行って、何かやろうぜ」
「……運動場?」
レンの目がわずかに輝いた。
「ここにそんな場所があるのか?」
「もちろんあるぞ」
「本当に?」
その瞬間、レンの表情が明らかに変わった。
タケオは少し驚いた。
「……お前、そんなに興味あったのか?」
「行ってみたい」
「じゃあ決まりだな」
タケオは手を振った。
「俺もちょうど行くところだったんだ。ついてこいよ」
レンは本を閉じる。
丁寧にバッグへしまい、立ち上がった。
*
運動場へ向かう途中、タケオが尋ねた。
「そういえば、お前ってサッカーとかバスケとかできるのか?」
レンは歩きながら考えた。
今の人生。
十五年間の記憶。
学校生活。
友達。
遊び。
スポーツ。
――該当する記憶はなかった。
レンは数秒黙ってから答える。
「……できない」
「じゃあ、俺が教えてやるよ」
タケオは笑った。
「お前は俺の勉強を手伝ってくれただろ?」
「……まあな」
「だったら今度は俺の番だ」
レンはタケオを見る。
そして、少しだけ笑った。
「……ありがとう」
*
しばらく歩くと、大きな運動場が見えてきた。
サッカーをしている生徒たち。
バスケットボールをしている生徒たち。
かなり広い。
レンは少しだけ目を輝かせた。
「結構大きいな」
「だろ?」
タケオはそう言った。
――だが。
運動場に近づいた瞬間。
タケオの表情が変わった。
さっきまでの笑顔が消える。
レンはすぐに気づいた。
「……どうした?」
「なんでもない」
タケオは短く答えた。
だが、その声は明らかに硬かった。
その直後。
一人の男子生徒がこちらへ歩いてきた。
身長は百九十センチ近くある。
鍛えられた身体。
自信に満ちた歩き方。
そして、どこか人を見下すような目。
「お」
男はタケオを見ると、口元を歪めた。
「やっぱり来たか」
タケオの表情が険しくなる。
「……お前には関係ないだろ」
「別に。ただ、もう来ないと思ってたんだけどな」
「うるさい」
タケオが睨み返す。
男はしばらくタケオを見つめた。
「お前、前のこと忘れたわけじゃないよな?」
タケオの拳がわずかに握られる。
しかし、何も言わない。
男はそんなタケオを見てから、レンへ視線を移した。
「で?」
「こいつは誰だ?」
男はレンを上から下まで見る。
「新しい友達か?」
向こうのチームから笑い声が聞こえた。
男はそれ以上何も言わず、チームのほうへ戻っていった。
レンはその背中を見ながら、静かに考える。
――普通の人間。
ただし、身体能力は同年代の平均より高い。
身長は約百九十センチ。
筋肉量も多い。
だが、それだけだ。
レンにとって脅威になるような存在ではない。
レンはタケオを見る。
「……あいつ、誰だ?」
タケオは少し黙った。
「リキオ」
そして、視線を逸らす。
「別のクラスの奴だ。俺より一つ上で……」
そこで言葉が止まった。
「……昔から知ってる」
「何かあったのか?」
タケオは答えなかった。
しばらくして、小さく息を吐く。
「……いい。忘れてくれ」
レンはそれ以上聞かなかった。
だが、一つだけ分かった。
――二人の間には、昔から何かがある。
*
二人はそのままタケオのチームへ向かった。
何人かの生徒がタケオに声をかける。
そして、一人の男子生徒がレンの前にやってきた。
「こんにちは」
彼は気さくに笑った。
「新入り?」
「うん」
「名前は?」
「レン」
「サッカーはできる?」
レンは正直に答えた。
「……できない」
「全然?」
「全然」
男子生徒は少し驚いた。
だが、すぐに笑う。
「まあ、いいじゃん」
そしてグラウンドを指差した。
「サッカーしてるところは見たことある?」
「ある」
「それなら十分だ」
彼は手を差し出した。
「俺はカツオ。このチームのキャプテン」
レンはその手を握る。
「よろしく」
「こっちこそ。とりあえずやってみようぜ」
*
そして、試合が始まった。
レンは最初、何をすればいいのかよく分からなかった。
とりあえず、周りの動きを真似する。
右側を走る。
味方の位置を見る。
ボールの動きを追う。
パス。
移動。
またパス。
何度か見ているうちに、レンは少しずつゲームの流れを理解し始めた。
『……なるほど』
『こういう感じか』
思っていたより単純だった。
その時。
ボールがタケオのところへ渡った。
タケオが前へ走る。
その横をリキオが追う。
レンは二人を見つめた。
次の瞬間――
リキオが足を出した。
タケオの足が引っかかる。
「うわっ!」
タケオが地面に倒れた。
ボールが転がっていく。
レンは足を止めた。
そして、審判を見る。
――何も言わない。
そのまま試合は続いていく。
タケオは立ち上がった。
「……くそ」
そして再び走り出す。
レンはリキオを見る。
リキオはすでにボールを奪っていた。
右サイドを走っている。
そして、その先には――
レンがいた。
レンは数秒、リキオを見つめた。
さっきのことが頭をよぎる。
『……わざとだ』
リキオは、わざとタケオを転ばせた。
それなのに、誰も何もしない。
レンは再び審判を見る。
やはり何もない。
レンは拳を握った。
昔の自分なら。
試合そのものを止めていただろう。
時間を止める。
出来事をなかったことにする。
あるいは、全員の記憶を書き換える。
そんなことさえ、一瞬でできた。
だが――
もう、そんな力には頼らない。
自分は普通の人間として生きると決めた。
だから。
『……普通の人間なら、どうする?』
レンは考えた。
答えは簡単だった。
――ボールを奪えばいい。
レンはリキオの動きを見る。
一歩。
もう一歩。
そして――
タイミングを合わせて前へ出た。
シュッ!
レンの足がボールに触れる。
ボールがリキオの足元から弾き飛ばされた。
「……は?」
リキオの動きが止まる。
驚きの表情。
レンも一瞬、動きを止めた。
『……簡単すぎる』
おかしい。
レンは、自分が思っていた以上の力を使ってしまったことに気づいた。
普段なら、人間として不自然に見えないように身体能力を意図的に抑えている。
だが、今は違った。
タケオが倒された瞬間。
身体が先に反応していた。
考えるよりも先に。
力を使ってしまった。
『……少し、やりすぎたか?』
しかし、もう遅い。
弾き飛ばされたボールは味方の選手の前へ転がっていく。
「もらった!」
味方の選手がボールを蹴る。
ゴール。
「入ったぁぁぁ!」
チームが一気に盛り上がる。
「ナイスプレー!」
「レン、今のすごくないか!?」
「お前、本当に初心者なのかよ!?」
何人もの選手がレンの周りへ集まってくる。
レンは少し困ったように笑った。
「……たまたまだよ」
「たまたま!?」
誰かが笑う。
「いやいや、運良すぎだろ!」
「今日のお前、絶対ツイてるぞ!」
みんなが笑う。
レンも小さく笑った。
「……そうかもね」
そして、リキオへ視線を向ける。
彼は少し離れた場所に立っていた。
もう笑っていない。
怒っている。
だが、それ以上に――
自尊心を傷つけられたような顔をしていた。
自分がボールを奪われたこと。
それ自体が問題なのではない。
問題なのは――
相手が、サッカー初心者の新入りだったこと。
リキオは何も言わずに視線を逸らした。
レンはそんな彼を見つめる。
だが、深く考えることはしなかった。
今はただ、サッカーを覚えることに集中したかった。
「レン、本当に初めてなのか?」
タケオが驚いたように尋ねる。
「うん。今日が初めて」
「……すげえな」
「たまたまだよ」
レンは笑った。
「今日は運が良かっただけ」
誰も、それ以上は疑わなかった。
少なくとも――
今のところは。
そしてレン自身も、この時はまだ知らなかった。
たった一度の「偶然」が。
この先、リキオとの関係を大きく変えていくことを。




