第9話「普通の夜」
試合は引き分けに終わった。
レンにとって、思っていた以上に楽しい時間だった。
最初はサッカーのことなどほとんど何も分からなかった。
だが、周りの選手たちの動きを観察しているうちに、少しずつ試合の流れが分かるようになっていった。
どこへ動けばいいのか。
いつパスを受ければいいのか。
いつボールを出すべきなのか。
いつ下がるべきなのか。
まだ初心者ではある。
それでも試合が終わる頃には、レンもそれなりにフィールドを走れるようになっていた。
もちろん、本来の身体能力は意図的に抑えている。
周囲から見れば、ただ運動神経のいい初心者。
それくらいに見えていれば十分だった。
試合が終わると、チームのメンバーたちは次々と帰り始めた。
レンもタケオと一緒に運動場を後にする。
「いやー、いい試合だったな!」
タケオが笑いながら言った。
「レン、お前すげえよ」
「僕が?」
「そうだよ!」
タケオはレンの肩を軽く叩いた。
「初めてだろ? しかも何の練習もしてないのに、普通に動けてたじゃん」
「……たまたまだよ」
「またそれかよ」
タケオは呆れたように笑った。
「お前、本当に何でも運が良かったで済ませるよな」
レンも苦笑する。
やがて二人は、別々の道へ分かれる交差点までやってきた。
すると、タケオが突然足を止めた。
「そうだ、レン」
「ん?」
「お前の電話番号、教えてくれよ」
「電話番号?」
「次に試合するとき、誘いたいんだよ」
タケオはスマートフォンを取り出した。
「ほら、番号」
「分かった」
レンは自分の番号を伝えた。
数秒後。
レンのスマートフォンが振動する。
「よし、登録完了!」
タケオは満足そうに頷いた。
「今日はいい夜だった。ありがとな!」
「こっちこそ」
「じゃあ、またな!」
「うん。またね」
タケオは自分の家へ向かって歩き出した。
レンも反対方向へ歩き始める。
ここからは、一人だった。
歩きながら、レンは今日一日のことを思い返していた。
学校。
タケオとの会話。
サッカー。
新しい仲間たち。
どれも特別なことではない。
ただの高校生なら、きっと何気なく過ごすような一日だ。
けれど――
レンにとっては違った。
三百億年にも及ぶ長い時間の中で、こんな時間を過ごしたことはほとんどなかった。
世界を支配することもない。
文明の命運を背負うこともない。
神々と戦うこともない。
ただ、同年代の少年たちと一緒にサッカーをする。
それだけ。
なのに――
「……楽しかったな」
レンは小さく呟いた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
『こんなに楽しい時間を過ごしたのは……いつ以来だろう』
そのまま歩き続ける。
だが、しばらくすると周囲の明かりが少なくなってきた。
人通りもほとんどない。
街灯もまばらだった。
レンは、もう少し明るい道へ出ようとした。
その時だった。
「全部出せ!」
「財布! バッグもだ!」
近くの細い路地から、怒鳴り声が聞こえてきた。
レンは足を止める。
聞き間違いではない。
何か良くないことが起きている。
レンは静かに路地の角から中を覗いた。
そこには一人の女性と、二人の男がいた。
男たちは女性を取り囲んでいる。
そして――
二人とも銃を持っていた。
「お願い……」
女性の声が震えている。
「早くしろ!」
レンは数秒間、その光景を見つめた。
このまま立ち去ることもできる。
自分には関係のないことだ。
そう考えることもできた。
けれど――
『……僕が今ここを離れたら、どうなる?』
レンは小さく息を吐いた。
やはり、見捨てることはできなかった。
レンはフードを被り直し、路地へと歩み出した。
「おい!」
一人の男がレンに気づいた。
「お前、誰だ?」
男はすぐに銃口をレンへ向けた。
「手を上げろ!」
レンは立ち止まった。
だが、手を上げることはしなかった。
「聞こえなかったのか? 手を上げろ!」
レンは銃ではなく、男の目を見た。
「……その人から離れてください」
男が一瞬、呆気に取られる。
「は?」
「女性から離れてください」
「お前……舐めてんのか?」
男の声が低くなる。
「もう一度言う。手を上げろ」
レンは答えない。
「撃つぞ!」
それでも、レンは動かなかった。
次の瞬間――
パンッ!
乾いた銃声が夜の路地に響き渡った。
普通の人間なら、何が起きたのか理解することすらできない。
だが、レンにとっては違った。
世界が、ゆっくりと動き始める。
飛んでくる弾丸。
その軌道。
速度。
そして、弾丸が到達する場所。
すべてが明確に見えていた。
レンは、ほんの少し身体を横へずらした。
弾丸はレンの横を通り過ぎ、壁へと突き刺さった。
「……は?」
男の顔が固まる。
レンは何も言わない。
「ま、まぐれだ……!」
男はもう一度引き金を引いた。
パンッ!
また一発。
レンは再び身体を動かす。
弾丸は空を切った。
「な、なんだよ……!」
三発目。
また外れる。
男の顔から余裕が消えていく。
「お前……何なんだよ!?」
レンは静かに男を見つめた。
『……本気で僕を殺すつもりなのか』
そう理解した瞬間。
レンは待つことをやめた。
一瞬で距離を詰める。
男の目には、レンが消えたように見えた。
次の瞬間。
ドッ!
レンの拳が男の身体に入った。
だが、直前で力を大きく抑えた。
それでも男は意識を失い、その場に崩れ落ちた。
もう一人の男が慌てて銃を持ち上げる。
しかし――
遅い。
レンはすでに目の前にいた。
「なっ――」
短い一撃。
男の身体が数メートル吹き飛び、地面に転がった。
こちらも意識を失う。
レンは二人を見下ろした。
そして、わずかに眉を寄せる。
『……少し強すぎたか』
三百億年もの間、レンは自分の力を使い続けてきた。
その力は、人間が扱える範囲を遥かに超えている。
だからこそ、今のレンには別の技術が必要だった。
力を使うことではない。
――力を抑えること。
レンは小さく息を吐いた。
「……まだ慣れないな」
そして、女性のほうへ歩いていく。
地面には、奪われたバッグと財布が落ちていた。
レンはそれを拾い上げ、女性へ差し出した。
「どうぞ」
女性は震える手で受け取った。
「……あ、ありがとう……ございます」
まだ状況を理解しきれていないのか、女性の顔には恐怖が残っていた。
レンはそんな彼女に、できるだけ優しい声で言った。
「暗い路地を近道に使うのは、やめたほうがいいですよ」
「え……?」
「五分や十分くらいなら、遠回りしてでも明るい道を歩いたほうがいいです」
レンは小さく微笑んだ。
「そのほうが安全ですから」
女性はしばらくレンを見つめていた。
そして、おずおずと尋ねる。
「あなたは……誰なんですか?」
レンは少しだけ視線を逸らした。
自分のことを知られる必要はない。
「……早く帰ってください」
「え?」
「家に帰れば、それで大丈夫です」
女性は戸惑いながらも頷いた。
「……はい」
そして何度か後ろを振り返りながら、明るい大通りへと急いで向かっていった。
やがて、その姿は人混みの中へ消えていく。
レンは一人、路地に残った。
足元には、意識を失った二人の男。
レンは二人を見つめた。
『警察を呼んだほうがいいな』
その辺に落ちていたロープのようなものを見つけると、レンは二人の男を縛った。
そして、男たちが持っていた銃を回収する。
これで、目を覚ましたとしても簡単には使えない。
レンはスマートフォンを取り出し、警察へ通報した。
事件の場所を伝える。
そして、電話を切った。
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
レンは空を見上げた。
『……今日はもう十分だな』
そう思いながら、レンはその場を後にした。
再び家へ向かって歩き始める。
だが、今度は先ほどまでとは違った。
レンの頭の中には、先ほどの光景が残っていた。
暗い路地。
怯えた女性。
銃を持った二人の男。
レンは夜の街を眺める。
窓から漏れる明かり。
道路を走る車。
家へ帰る人々。
どこにでもある、普通の夜。
レンは静かに呟いた。
『この世界は……本当に美しい』
しかし――
すぐに、先ほどの光景が脳裏に浮かぶ。
『……でも』
レンは少しだけ目を伏せた。
『あんな人間たちがいるせいで……』
レンは歩きながら考える。
この世界は完璧ではない。
どれだけ平和に見えても、誰かを傷つける人間は存在する。
自分が三百億年生きてきた中で、そういう光景は何度も見てきた。
欲望によって滅びた文明。
争いによって消えた国。
ただ自分がそうしたいという理由だけで、他者を傷つける人々。
レンは、もう何も感じないと思っていた。
長すぎる人生の中で、あらゆるものを見てきた。
それでも――
今日、初めて思った。
『……見ているだけじゃ、駄目なのかもしれない』
もちろん、すべてを救うつもりなどない。
世界を変えるつもりもない。
ましてや、昔のように神の力を振るうつもりもない。
ただ――
目の前で誰かが助けを求めているなら。
手を差し伸べるくらいは、してもいいのかもしれない。
レンは前を向いた。
『……これが、普通の人間として生きるってことなのかな』
そう考えながら、レンは家へと歩き続けた。
しばらくして、ようやく家が見えてきた。
家の中は、もう静かだった。
レンはそっと玄関を開ける。
誰も起こさないように静かに階段を上がり、自分の部屋へ入った。
バッグを置く。
制服を着替える。
そして、そのままベッドへ倒れ込んだ。
今日は色々なことがあった。
新しい学校。
タケオ。
サッカー。
リキオ。
そして――
あの二人の強盗。
レンは目を閉じる。
『……疲れたな』
そのまま、すぐに眠りへ落ちていった。
まだレンは知らない。
今日の出来事が――
彼の異常な力を、普通の人間たちの目に触れさせる最初の出来事になることを。
そして。
この夜を境に、レンの日常は少しずつ変わり始めていくことを。




