第10話「正体不明の少年」
朝、俺はいつも通り目を覚まし、学校へ向かった。
いつもと変わらない朝。
……のはずだった。
けれど、今日はどこかがおかしい。
学校へ向かう途中もそうだった。
道を歩く学生たちは、何やら興奮した様子で話している。
校門をくぐってからも、あちこちで同じような話題が聞こえてきた。
特に女子たちは、その話で持ちきりだった。
「ねえ、昨日のニュース見た?」
「見た見た! あの人、すごく強かったよね!」
「一体、誰なんだろう?」
レンは首を傾げた。
……何の話だ?
教室に入ってみても、その雰囲気は変わらなかった。
クラスの女子たちが数人集まり、スマートフォンを見ながら楽しそうに話している。
「本当にすごかったんだから!」
「二人とも一瞬で倒されてたよね」
「顔が見えなかったのが残念……」
レンは足を止めた。
まさか……昨日のことか?
嫌な予感がした。
教室を見回すと、タケオが自分の席でスマートフォンを眺めていた。
レンはすぐに彼のもとへ向かった。
「タケオ」
「ん? おはよう、レン」
「みんな、何の話をしてるんだ?」
「え?」
タケオは不思議そうにレンを見る。
「お前、ニュース見てないのか?」
「……うん。見てない」
「昨日の夜も?」
「見てない」
タケオは呆れたようにため息をついた。
「マジかよ……。じゃあ知らないわけだ」
そう言うと、タケオはスマートフォンの画面をレンに見せた。
そこには、昨夜の事件を捉えた監視カメラの映像が映っていた。
画質はあまり良くない。
それでも、何が起きたのかは十分に分かった。
二人の武装した強盗。
怯えた女性。
そして――
フードを被った一人の少年。
次の瞬間。
一人の男が吹き飛び、続いてもう一人も地面へ倒れた。
レンの表情が、一瞬だけ強張った。
……やっぱり、これか。
タケオはそんなレンの変化に気づくことなく、話を続ける。
「昨日の夜、二人組の武装した強盗を、謎の男が一人でぶっ倒したんだってさ」
「しかも、その時の監視カメラの映像がニュースで流れたんだ」
「それだけじゃないぞ」
タケオは画面を操作する。
「強盗に襲われてた女性も見つかって、インタビューを受けたらしい」
「その人も、助けてくれた男がものすごく強かったって証言したんだってさ」
「……そうなんだ」
レンは平静を装いながら頷いた。
「それで今、学校中がその話題で持ちきりなんだよ」
タケオは笑いながら言った。
「特に女子たちがすごいぞ。あの男は誰なのか、どこにいるのか、どうしてあんなに強いのかって、みんな気になってるみたいだ」
「……なるほど」
レンは適当に相槌を打った。
しかし――
内心はまったく穏やかではなかった。
……最悪だ。
もし、あの男が俺だと知られたら……
俺の平穏な生活が、一瞬で終わる。
レンは心の中で頭を抱えた。
くそ……余計なことをしてしまったか?
いや。
あの時、あの女性を見捨てるという選択肢はなかった。
だから、助けたこと自体を後悔しているわけではない。
ただ――
頼むから、これ以上騒ぎにならないでくれ……。
レンは小さく息を吐いた。
まあ、何日か騒いだら、そのうちみんな忘れるだろう。
そう自分に言い聞かせる。
「まあ、教えてくれてありがとう」
「いいって」
レンはタケオから離れ、自分の席へ戻った。
席に座っても、昨日の出来事が頭から離れない。
監視カメラの映像。
ニュース。
女性の証言。
もしこの話がさらに広がれば、きっと誰かが「謎の男」の正体を探し始める。
けれど、映像には顔がほとんど映っていない。
普通なら、自分にたどり着くことなどできないはずだ。
……たぶん、大丈夫だ。
レンは窓の外へ視線を向けた。
このまま、ただの噂で終わってくれればいい。
自分の正体を知られたくない。
目立ちたくない。
何より――
せっかく手に入れた、この平穏な日常を失いたくなかった。
---
昼休み。
レンは教室を出て、学校の外にある静かな場所で一人で昼食を取った。
大勢で騒ぐよりも、一人で静かに過ごすほうが気楽だった。
昼食を終え、レンは教室へ戻った。
そして――
教室の入り口で足を止める。
そこには、すでに一人だけいた。
アイノだった。
彼女は窓際の席に座り、静かに外を眺めている。
午後の日差しが、彼女の髪を淡く照らしていた。
レンは数秒間、黙って彼女を見つめた。
そして、昨日のことを思い出す。
――「あなた、私を尾けてるの?」
結局、あの時はきちんと説明できなかった。
だからレンは、自分の席へ向かいながら口を開いた。
「……俺は、君を尾けてなんかいない」
アイノは窓の外を見たまま、何も答えない。
レンは続けた。
「俺には、君を尾ける理由なんてない」
少しだけ間を置く。
「俺が君の近くにいたのも……全部、偶然だ」
アイノがゆっくりと振り向いた。
「……本当に?」
その声には、疑いが滲んでいた。
レンは頷く。
「本当だ」
アイノはレンの目を見つめる。
そして、冷たく言った。
「……男の人って、みんな嘘つき」
「そんなことない」
レンは即座に否定した。
「俺は嘘をついてない」
アイノは何も答えなかった。
レンは少しだけ考える。
そして、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「……どうして、そんなに男の人を信用できないの?」
アイノの表情がわずかに変わった。
しかし、すぐに視線を窓の外へ戻す。
「あなたには関係ない」
「……そうだね」
レンはそれ以上、追及しなかった。
「話したくないなら、無理に話さなくていいよ」
少し間を置いてから、静かに続ける。
「俺は、そういうことで人の心に踏み込むのは好きじゃないから」
アイノが振り返った。
その瞳が、まっすぐレンを捉える。
しばらくの間、彼女は何も言わなかった。
そして――
「……嘘」
小さな声だった。
レンは黙って彼女を見る。
アイノは続けた。
「そんなの……ただの嘘と、空っぽの言葉よ」
「……」
レンは何も言い返せなかった。
その言葉には、妙な重さがあった。
まるで――
彼女が今まで、何度も同じような言葉を聞いてきたかのように。
その時――
キーン、コーン……。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
ほぼ同時に、教室の扉が開く。
「やべ、もうチャイム鳴った!」
「早く席戻れ!」
「次、数学だろ?」
次々と生徒たちが教室へ戻ってくる。
二人の会話は、そこで途切れた。
アイノは再び窓の外へ視線を向ける。
レンも自分の席へ座った。
しかし――
頭の中には、さっきの言葉が残っていた。
「嘘と、空っぽの言葉……」
レンはアイノをちらりと見る。
……どうして、あそこまで人を信用できないんだ?
レンなら、答えを知ることは簡単だった。
彼には全知がある。
アイノの過去を見ることもできる。
彼女が何を経験したのか。
なぜ男性をそこまで嫌うようになったのか。
その理由を、一瞬で知ることだってできる。
けれど――
レンは目を伏せた。
……いや。
それでは意味がない。
普通の人間として生きると決めたのなら、他人の心を覗き見るべきではない。
答えが知りたいなら、自分自身の言葉で聞けばいい。
時間がかかってもいい。
少しずつでもいい。
誰かを理解するというのは、そういうものなのだから。
レンは窓の外へ目を向けた。
そして、心の中で小さく呟いた。
……いつか、君自身の口から聞けるといいな。
その日がいつ来るのか――
レンには、まだ分からなかった。




