第62話:「夜の旅館」
風呂から戻る俺たちの足取りは、自然とゆっくりになっていた。
湯上がりの体に、薄手の浴衣が心地いい。廊下を歩きながら、ときどき短い会話を交わす。京都の寺や坂道を一日中巡った疲れが、今になってどっと押し寄せてきた。
今はもう、早く横になって休みたい。それだけだった。
二階の部屋に戻ると、中はひんやりしていた。
武雄はさっそく押し入れに向かい、襖を開けた。
「よし、布団を敷こうぜ!」
そう言って、一組目の布団を取り出し、畳の上に広げる。
「レン、お前は窓際でいいんだよな?」
「ああ、そこなら問題ないよ」
俺も押し入れから自分の布団を取り出した。
数分後、四組の布団が部屋の空いたスペースをほとんど埋めていた。
海斗は何も言わずに天井の照明を消し、隅にある小さな常夜灯だけを残した。柔らかな光が、部屋の障子をぼんやりと照らしている。
俺たちはそれぞれ布団に入った。
部屋は静かになり、聞こえるのは机の上の時計の音と、窓の外からかすかに響く風の音くらいだった。
「いやー、今日は疲れたな……」
武雄が両手を頭の後ろで組みながらつぶやいた。
「金閣寺の金色の壁が、まだ目に焼きついてるぜ。なあ、レン。もう寝たか?」
「寝てたら返事できないだろ」
「おっ、じゃあまだ起きてるんだな!」
「よくそこまで自力でたどり着いたな」
「おい! 普通に聞いただけだろ!」
隣の布団から、海斗の声が飛んできた。
「その話、明日にしてくれないか? もう遅いんだけど」
「はいはい、分かったよ。みんな、おやすみ!」
武雄はあっさり引き下がった。
「おやすみ。明日は七時起きだから、忘れるなよ」
海斗が念を押す。
「それはさすがに厳しすぎるだろ……」
武雄が小さくぼやいた。
やがて武雄は黙り込み、数分もしないうちに寝息を立て始めた。海斗もすぐに眠りについたようだった。
俺は暗闇の中、友人たちの穏やかな寝息を聞いていた。
しばらくして、どうやら眠れそうにないことに気づいた。
一日中歩き回ったうえに、熱い風呂にも入ったせいか、喉が渇いていた。
みんなを起こさないよう、そっと起き上がり、静かに襖を開ける。
二階の廊下は薄暗く、足元には小さな常夜灯がともっていた。
裸足のまま、ひんやりとした木の床を歩いて階段の踊り場へ向かう。そこには飲み物の自動販売機が置かれていた。
小銭を入れ、ボタンを押す。
ゴトン、と音を立てて、冷たいお茶の缶が取り出し口に落ちてきた。
缶を取り出し、部屋に戻ろうとしたとき、三階から誰かが階段を下りてくるのが見えた。
アイノだった。
彼女は青と白の浴衣の裾を軽く押さえながら、静かに階段を下りてきた。長い髪は肩に流れ、そのまま背中へと落ちている。
自動販売機の前にいる俺に気づくと、彼女は一番下の段で足を止めた。
「あれ、レン? こんなところで何してるの?」
「喉が渇いてさ。アイノこそ、どうしたんだ? 女子は三階だろ?」
「ミコがぐっすり寝ちゃってて、ちょっと羨ましくなっちゃった」
アイノは小さな声で答えた。
「私はどうにも眠れなくて。水でも買おうと思って降りてきたの」
彼女は浴衣のポケットから小銭を取り出し、自動販売機に入れた。ミネラルウォーターのボタンを押し、ペットボトルが落ちてくるのを待ってから取り出す。
それから自動販売機の横にもたれ、キャップを開けた。
俺は、思わず彼女に目を留めた。
「そういえばアイノ、その浴衣、すごく似合ってるな」
彼女は危うく水を吹き出しそうになった。
「えっ!? な、何!?」
「浴衣だよ。すごく似合ってるって」
「き、聞こえてるから!」
アイノは慌てて顔をそらした。薄暗い中でも、顔が赤くなっているのが分かった。
「そういうこと、いきなり言わないでよ!」
「じゃあ、いつ言えばいいんだ?」
「そ、そんなの知らないよ! せめて心の準備くらいさせてよ!」
「どうやって? 『アイノ、三秒後に君を褒めます』って予告すればいいのか?」
「レン! からかわないで!」
俺は小さく笑った。
「はいはい。でも、本当に似合ってるよ」
アイノは一瞬黙り、それから髪を整えながら、そっぽを向いた。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「……それだけ?」
アイノが再びこちらを向いた。
「そんなこと言っておいて、何事もなかったみたいな顔するんだね!」
「ほかにどうすればいいんだ?」
「そんなの私が知るわけないでしょ!」
彼女は照れくさそうにペットボトルで顔を隠した。
俺はまた小さく笑った。
「もう……話題を変えよう」
アイノはぼそっとそう言ってから、ふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、今日の観光は楽しかった?」
「ああ。京都はいいところだな。ゆっくり景色を見られるのもいい」
「私も楽しかったよ。でも、さすがに最後のほうは足が棒になりそうだったけど」
「これで少しは休めるな」
「少しって……明日も一日中歩くんだよ?」
「じゃあ、もう少し頑張らないとな」
「レンは気楽でいいよね!」
「俺だって疲れてるぞ?」
「それは分かってるよ」
アイノは笑った。
「ただ、レンって全然疲れないように見えるときがあるから」
「疲れるさ。ただ、いつも顔に出るわけじゃないだけだ」
「そっか。じゃあ、レンもちゃんと人間なんだね」
「今さらか?」
「だって、たまに鉄でできてるんじゃないかって思うし」
「ひどい言われようだな」
アイノはくすくすと笑った。
旅館の夜の静けさにも、いつの間にか慣れてきた。
俺たちは昼間と同じように、他愛もない話をしながら並んで立っていた。
しばらくすると、アイノの表情が少し真剣になった。
「ねえ、レン……もう一つ聞いてもいい?」
「もちろん。何?」
「今の生活、本当に気に入ってる?」
俺は手に持ったお茶の缶に目を落とし、少しだけ考えた。
「ああ。気に入ってるよ」
「昔のレンとは、ずいぶん違う生活なのに?」
「だからこそ、なのかもしれないな」
アイノは続きを待つように、じっと俺を見つめた。
「昔は、とにかく背負ってるものが多すぎた。何かを決めなきゃいけなかったし、戦わなきゃいけない相手もいた。いろんな世界で何が起きているのか、ずっと気にかけていなきゃならなかった」
俺は少し間を置いてから、続けた。
「でも今は、普通に学校へ行って、友達と飯を食べて、街を歩くことだってできる。そんな当たり前のことが、今の俺には特別なんだ」
「そっか……」
アイノが静かにうなずいた。
「それでも、まだ慣れないことはあるけどな。ふと、今は急いで何かを決めなくてもいいんだって思うことがある」
「そういうときは、何をするの?」
「だいたい飯を食いに行く」
アイノは数秒、ぽかんと俺を見つめたあと、吹き出した。
「本気!? 私、けっこう大事なこと聞いてるんだけど!?」
「本気だぞ。飯を食うのも大事なことだろ」
「もう、レンって本当に……」
「正直者って言ってくれ」
「それはそうだけど!」
アイノは笑いながら答えた。
しばらく、俺たちは黙っていた。
アイノは手の中のペットボトルをくるくると回しながら、何かを考えているようだった。
「ねえ。レンが今の生き方を選んでくれて、私、よかったと思ってるよ」
やがて彼女が口を開いた。
「どうして?」
「だって、今はただ自分らしくいられるでしょ。もう、世界の運命を気にしたり、何もかも一人で背負ったりしなくていい。笑ったり、休んだり、友達と過ごしたり……やっと手に入れた幸せを、後ろめたく思う必要だってないんだから」
俺はアイノを見た。
彼女は同情するでもなく、無理に慰めようとするでもなく、ただ自分の思いを伝えてくれていた。
「ありがとう、アイノ」
「もう、大げさだよ。別にたいしたこと言ってないのに」
「俺にとっては大事なことだよ」
アイノはまた少し顔を赤くして、視線をそらした。
「……ほら、またそれ」
「今度は何だ?」
「そういうこと、どうしてそんなに平然と言えるの!?」
「お礼を言う前に、顔を赤くしなきゃダメなのか?」
「そういう意味じゃない! もう……忘れて!」
俺が笑うと、アイノも呆れたように首を振りながら笑った。
「もう戻ろう。時間も遅いし。明日寝坊したら大変だよ」
アイノは時計を見ながら言った。
「そうだな。先生に朝から怒られるのは勘弁してほしい」
「じゃあ、おやすみ、レン」
「おやすみ、アイノ。ちゃんと寝ろよ」
「レンもね!」
彼女は階段へ向かったが、上り始める前に振り返り、笑顔で手を振った。
俺はその姿を見送ってから、お茶を飲み干し、部屋へ戻った。
武雄は相変わらず、まるで部屋全体が自分のものだと言わんばかりに布団の上で大の字になって眠っていた。海斗もまったく動く気配がない。
俺は小さく息をつき、自分の布団に横になった。
掛け布団をかぶると、思った以上にすぐ眠気がやってきた。
明日も、京都で一日が始まる。
まあ、退屈することはなさそうだ。
そう思いながら、俺は眠りに落ちた。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、京都旅行の夜にレンとアイノがゆっくり話すお話でした。
二人の何気ない会話を楽しんでいただけたら嬉しいです!
京都旅行はまだ続きますので、次回もぜひ読んでみてください!
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価もよろしくお願いします!
これからも皆さんに楽しんでいただけるよう頑張ります!




