第60話:「修学旅行」
朝はよく晴れていて、少し肌寒かった。
東京駅には、すでに大勢の生徒や教師たちが集まっていた。修学旅行を楽しみにしている生徒たちの声があちこちから聞こえ、切符を確認する者や、売店で飲み物や軽食を買う者の姿も見られた。駅全体が、これから始まる旅への期待に包まれているようだった。
レンは柱のそばに立ち、小さなリュックを肩に掛けながら、仲間たちが来るのを待っていた。
「レン! おはよう!」
大きなスーツケースを引きずりながら、タケオが駆け寄ってきた。
「おはよう」
レンはいつもどおり、落ち着いた声で返した。
「はぁ……やっと着いた! 途中で腕がもげるかと思ったぞ!」
タケオはスーツケースを足元に置き、額の汗を拭った。
「なんでそんなに大きなスーツケースを持ってきたんだ?」
レンが尋ねると、タケオは当然だと言わんばかりに胸を張った。
「なんでって、京都だぞ、京都! 何か買いたくなるかもしれないだろ? それに、備えあれば憂いなしって言うじゃないか!」
レンは軽く肩をすくめた。
どうやらタケオにとって、この修学旅行は始まる前から一大イベントらしい。
「おはよう……」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、カイトが大きなあくびをしながら近づいてきた。眠そうに目をこすっている。
「正直、寝坊するところだった。目覚ましが鳴らなかったら、今ごろ全力で走ってたと思う」
「また夜更かししたのか?」とレン。
「まあ……ネットでちょっと面白いものを見つけてさ」
「そうか」
「ま、それはいいとして!」とタケオが割って入った。「とにかく全員集合だな! なあ、レン。せっかくだし、窓際の席がよかったよな!」
「席はもう決まってるだろ」とカイトが指摘した。
「うっ……お前、ほんとに夢がないな」
「先生の連絡をちゃんと読んだだけだ」
タケオが不満げにぶつぶつ言っていると、アイノとミコがやってきた。
「おはよう」
アイノが微笑みながら挨拶した。
「おはよう!」とタケオが元気よく返す。まるで、朝から騒いでいた疲れなどまったく感じていないようだった。
ミコは周囲を見回した。クラスメイトたちが、少しずつ集合場所に集まり始めている。
「そろそろ乗車が始まりそうね。私たちもみんなのところへ行きましょう」
「そうだな」とカイトが答えた。
五人はクラスの集合場所へと向かった。
やがて、真っ白な新幹線がホームへと滑り込んできた。車体が静かに停車し、各車両のドアが開く。
教師たちの指示に従い、生徒たちが順番に乗り込んでいった。
「おお……やっぱり新幹線ってすげえな!」
車両を見上げながら、タケオが感嘆の声を上げた。
「お前、新幹線に乗るの初めてじゃないだろ」とカイト。
「だから何だよ! 何度乗ったって、すごいものはすごいんだよ!」
「いや、ただうるさいだけだ」
「お前、今日なんか冷たくないか!?」
レンは二人のやり取りを聞きながら、わずかに口元を緩めた。
人間というのは、どんな些細なことにも喜びを見つけられるものらしい。
かつてのレンは、都市が姿を変え、古い道が消え、その跡に新たな道が築かれていく様子を幾度となく見てきた。かつては想像すらできなかった技術が、いつしか人々の日常に溶け込んでいく。そんな変化も、彼にとっては珍しいものではなかった。
それでも今は、支配者として世界を見下ろすのではなく、一人の高校生としてその変化を目にすることが、妙に新鮮だった。
「レン、行かないの?」
アイノに声を掛けられ、レンは視線を戻した。
「ああ、今行く」
彼は仲間たちの後に続いて車内へ入った。
五人の席は、互いにそれほど離れていなかった。レンは窓際に座り、その隣にアイノが腰を下ろす。通路を挟んだ向かい側にはタケオとカイトが座り、ミコは前の席に落ち着いた。
やがて全員が席に着き、ドアが閉まった。
静かな振動とともに、新幹線がゆっくりと動き始める。
窓の外の景色が少しずつ流れ始め、列車は徐々に速度を上げていった。東京駅のホームが遠ざかり、やがて街並みが窓の向こうを流れていく。
レンは窓の外へと目を向けた。
――京都か……。最後に訪れたのは、確か百年ほど前だったはずだ。
あれから、街もずいぶん変わったことだろう。名所の多くは今も残っているのかもしれないが、街全体の姿は当時とは大きく違っているに違いない。
――さて、どんなふうに変わっているのか、楽しみだな。
「よーし! まだ二時間以上あるぞ!」
突然、タケオが背もたれに身を預けながら声を上げた。
「この時間、何して過ごす? 誰かトランプとかボードゲームとか持ってないか?」
カイトはすでにイヤホンを取り出していた。
「俺は寝る」
「おい、冗談だろ!? まだ乗ったばっかりだぞ!」
「だからこそだ。今のうちに休んでおく」
そう言うと、カイトはイヤホンを耳につけ、目を閉じた。
「信じられない……こんなときに寝られるなんて」
タケオが呆れたようにつぶやく。
「別に難しいことじゃないだろ」
レンも窓の外に視線を戻しながら答えた。
「お前までカイトの味方かよ!?」
「そんなことは言ってない」
タケオは頬を膨らませ、腕を組んだ。
しばらくして、ミコがアイノのほうを向いた。
「そういえば、何か食べるもの持ってきた?」
「うん。サンドイッチを作ってきたの。それと、緑茶もあるよ」
アイノはバッグから、きれいに包まれたサンドイッチを取り出した。
「よかったら食べない? 少し多めに作ったから」
「本当? じゃあ、いただこうかな!」
アイノはミコにサンドイッチを一つ手渡した。それから、レンにも視線を向ける。
「レンも食べる?」
「ありがとう。でも、朝食はもう済ませたんだ。お茶なら、あとでいただこうかな」
「わかった。じゃあ、少し残しておくね」
「ありがとう」
レンは再び窓の外へ目を向けた。
田畑や小さな駅、住宅街が次々と流れていく。遠くには、朝の薄い霞に包まれた山々も見えた。
どこにでもあるような、ごくありふれた風景。
けれど、そんな何気ない光景にも、不思議な魅力があった。
かつてのレンは、数えきれない世界を見渡し、文明の命運を左右し、無数の命を背負ってきた。
それが今では、ただ列車に座って、流れていく景色を眺めている。
もう、誰かの命運を左右する決断を下す必要もない。
ただこうして過ごす時間が、思いのほか心地よかった。
「なあ、ミコ!」
タケオが再び声を上げた。
「頼むから、俺と話してくれよ! カイトは寝てるし、レンはずっと窓の外を見てるし、俺だけ暇で仕方ないんだって!」
ミコは苦笑した。
「それなら、少し話そうか。ねえ、ホテルに着いたら、まず何をするつもり?」
「うーん……とりあえず、周りを探検する!」
「まずは荷物を片づけて、身支度を整えるの。それから、配られた予定表に従って行動するんだよ」
ミコが落ち着いた口調で言うと、タケオは露骨に肩を落とした。
「ええー……なんかつまんないなあ」
「それが普通なの」
「でも、夜には自由時間があるだろ? そのときこそ、本当の冒険の始まりだ!」
タケオはすぐに立ち直り、目を輝かせた。
「まずは、迷子にならないことだな」とレンが指摘した。
「俺は子どもじゃないんだぞ!」
「はいはい。そういうことにしておこう」
目を閉じたまま、カイトが淡々と口を挟んだ。
「お前、寝てたんじゃないのか!? いつから聞いてたんだよ!」
そのやり取りに、ミコだけでなくアイノまで笑い出した。
「ところで」と、ひとしきり笑ったミコが話題を変えた。「天気、崩れないといいね。一日中雨だったら、ちょっと残念だし」
「天気予報は確認したよ」とレンが答えた。「雨は降らないらしい」
「本当? それならよかった!」
「ほらな!」タケオは親指を立てた。「今回の旅行を邪魔するものなんて、何もない!」
その自信だけは大したものだ。
レンは思わず小さく笑った。
やがて会話も少しずつ途切れていった。
窓の外では景色が流れ続け、車輪が線路を叩く規則正しい音が車内に響いている。その一定のリズムは、聞いているうちに自然と眠気を誘うものだった。
それから三十分ほどが過ぎた。
つい先ほどまで誰よりも騒いでいたタケオは、いつの間にか頭を胸元に落とし、すっかり眠り込んでいた。
カイトはイヤホンで音楽を聴きながら、すでに夢の中だ。
ミコも、これから始まる一日に備えて少し休もうと思ったのか、静かに目を閉じていた。
そんな中、アイノだけはしばらく起きていた。
窓の外を流れる景色を眺めていたものの、次第にまぶたが重くなっていく。
やがて小さく息をつくと、彼女もそっと目を閉じた。
次の瞬間、その頭がゆっくりとレンの肩に寄りかかった。
軽い感触に気づき、レンは隣を向いた。
アイノは眠っていた。
呼吸は穏やかで、その表情には安らぎが浮かんでいる。早起きしたうえに、旅行への期待で少し興奮していたのだろう。思っていた以上に疲れていたようだ。
レンはしばらく、彼女の寝顔を見つめていた。
――本当に疲れていたんだな。
彼はアイノを起こさないよう、そっと姿勢を変えた。彼女が少しでも楽に眠れるよう、寄りかかりやすい位置に肩を調整する。
それから再び窓の外へ目を向けた。
田畑や小さな町並み、遠くに連なる山々。
新幹線は走り続け、少しずつ京都へと近づいていった。
レンはしばらく、その景色を眺めていた。
肩には、静かに眠るアイノの重みがある。ほかの仲間たちも、それぞれ夢の中だった。
――まあ……こういう暮らしも、悪くないな。
レンはゆっくりと目を閉じた。
規則正しい車輪の音に耳を傾けているうちに、意識が少しずつ遠のいていく。
やがてレンもまた、静かな眠りへと落ちていった。




