第55話:「真実の余韻」
翌朝、レンは目を覚ましたものの、しばらくベッドから起き上がろうとはしなかった。
昨夜の出来事が、何度も頭の中によみがえる。
自分が口にした言葉も、それを聞いたアイノの反応も、すべてが頭の中で繰り返されていた。
(……やっぱり、話すべきじゃなかったのかもしれない)
レンはゆっくりと上半身を起こし、窓の外へ目を向けた。
(結局、これは俺自身の問題だ。自分一人で何とかするべきだった)
しかし、話を聞いていたときのアイノの表情を思い出すと、その考えにも自信が持てなくなった。
彼女は自分を拒絶しなかった。
恐れもしなかった。
それまでとは違う目で見ることもなかった。
ただ、そばにいてくれたのだ。
(……どうしてだろうな。あいつには、もっといろんなことを話したいと思ってしまう)
レンはわずかに眉をひそめた。
彼はこれまで、どんな問題も一人で解決してきた。
誰かに同情してもらう必要などなかったし、ましてや心の支えを求めたこともない。
それなのに、アイノに対してだけは、どうにも勝手が違う。
そして何より、そのこと自体が彼を困惑させていた。
窓の外には、土曜日の穏やかな朝が広がっていた。
レンはしばらく黙って外を眺めながら、今日の予定について考え始めた。
(……散歩にでも誘ってみるか? いや、ありきたりすぎるな。映画はどうだ? ……そもそも、今どんな映画やアニメが流行っているのかすら知らないんだが)
少し考え込んだあと、彼は一つの結論にたどり着いた。
(まあ、食事なら無難だろう。店に入って、注文して、食べて、帰る。それだけだ。これほど単純なこともない)
レンは満足げにうなずいた。
(よし。レストランにしよう)
スマートフォンを手に取ると、彼は迷うことなくメッセージを送った。
レン:「おはよう。今日、何か予定あるか?」
ほどなくして、返信が届いた。
アイノ:「おはよう! 特にないけど、どうしたの?」
レン:「よかったら、一緒にレストランに行かないかと思って。近くに評判のいい店があるんだ。せっかくだし、誘ってみようかと……」
メッセージを読んだアイノから、すぐには返事が来なかった。
どうやら、何か考えているらしい。
そして数秒後、新しい通知が表示された。
アイノ:「いいよ! 何時にする?」
レン:「今日の十五時はどうだ?」
アイノ:「うん、大丈夫!」
レン:「じゃあ、公園で待ち合わせよう」
アイノ:「わかった! またあとでね!」
レンはスマートフォンを置き、再び窓の外を眺めた。
(……誘ったのはいいが、これでよかったのか? まあ、ただの食事だ。何か問題が起こるとも思えないが)
そんなことを考えながらも、彼はすぐに気持ちを切り替え、自分の用事に取りかかった。
まさか画面の向こう側で、誘いを受けた少女がどれほど胸を躍らせているのかなど、知る由もなかった。
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時刻は少しずつ、午後三時に近づいていた。
時間に遅れることが大嫌いなレンは、いつもの習慣どおり、待ち合わせの時間より早く公園に到着していた。
見慣れた遊歩道のそばで立ち止まり、スマートフォンを取り出して時刻を確認する。
十四時五十二分。
(……あと八分か)
スマートフォンをポケットにしまい、レンは公園を見渡した。
休日ということもあって、あたりには大勢の人がいた。
子供を連れて散歩する親たち。ベンチに座り、のんびりと談笑する年配の人々。そして、穏やかな陽気を楽しみながら歩く若いカップルたち。
それを眺めているうちに、レンはふと疑問を抱いた。
(……ああいう散歩が、本当に楽しいものなのか? まあ、人それぞれ好みがあるんだろうが)
再びスマートフォンを取り出そうとした、そのときだった。
遊歩道の向こう側に、見覚えのある姿が見えた。
こちらへ向かって歩いてくるのは、アイノだった。
「や、やっほー……レン」
「おう、アイノ」
レンは一瞬、彼女の姿に目を留めた。
「ああ、その服……この前、ショッピングモールで選んでたワンピースだよな。よく似合ってる」
「えっ……あ、ありがとう。レンも……その、かっこいいよ……」
アイノは恥ずかしそうに目をそらした。
それでも、口元に浮かぶ笑みを隠すことはできなかった。
(気づいてくれた……! あのとき選んでたワンピース、ちゃんと覚えててくれたんだ……!)
一方のレンにとっては、特別なことでもなかった。
彼はもともと細かなことをよく覚えている。特に、後々役に立つ可能性のある情報ならなおさらだ。
もっとも、そんな事情をわざわざアイノに説明するつもりはなかった。
「じゃあ、行こうか。店はすぐそこだから」
「うん!」
二人は公園の出口へ向かって歩き始めた。
しばらくの間、二人の間には気まずい沈黙が流れていた。
アイノは何度かレンの横顔をちらりと見ては、何かを言いかけ、結局口を閉じてしまう。
そんな様子に気づいたレンは、自分から話を切り出した。
「昨日のこと、まだ気にしてるなら悪かったな。心配しなくていい。本当に大丈夫だから。もう慣れてるし……」
「そんなの、よくないよ!」
アイノは思わず声を上げ、彼の言葉を遮った。
「ずっと一人で抱え込んでたんでしょ? そんなの、つらいに決まってるじゃん! だから……もし誰かに話したくなったら、いつでも私が聞くからね」
最後の言葉は、それまでよりもずっと小さかった。
頬をほんのり赤く染めたアイノは、照れくさそうに視線をそらした。
自分でも、少し踏み込みすぎたと思ったのかもしれない。
レンはしばらく黙っていた。
これまで、どんな問題も一人で解決してきた。
誰かの同情など必要なかったし、心の支えを求めたこともなかった。
それなのに、今はどうだろう。
アイノの言葉が、思っていた以上に胸に響いていた。
なぜなのか、自分でもよくわからない。
ただ、彼女の言葉を軽く受け流すことだけはできなかった。
「……ありがとう。そう言ってもらえると助かる」
やがて、レンはわずかに微笑んだ。
「アイノも、何かあったらいつでも俺に話してくれていいからな」
アイノは顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。約束ね!」
ほどなくして、二人はレストランの入り口に到着した。
アイノは顔を上げ、店の看板を眺めた。
「へえ、私、ここに来るの初めて! すごくおしゃれなお店だね」
「知り合いに勧められたんだ。料理がおいしいらしい」
「じゃあ、レンのおすすめを信じるね!」
二人が店内に入ると、店員が丁寧に席まで案内してくれた。
窓際の落ち着いたテーブルに腰を下ろし、メニューを手渡される。
アイノは興味津々といった様子でページをめくり始めた。
「レン、見て見て! オムライスがあるよ!」
彼女は写真を指さした。
「これ、日本の洋食屋さんでよく見るやつだよね! お店によっては、目の前でオムレツを切り開いてくれるんだって。そうすると、ふわとろの卵がぱかっと開いて、ご飯の上にとろーって広がるの! しかも、上にケチャップで猫とかハートを描いてくれるお店もあるんだよ!」
レンは写真に目を向け、軽くうなずいた。
「へえ、うまそうだな。食べたいなら頼めばいい。俺も食べてみるよ」
「うん、そうする!」
アイノはさらにページをめくった。
すると、次のページでぴたりと手が止まった。
「わあっ! 見て、この大きなイチゴパフェ!」
彼女はメニューをレンのほうへ向けた。
「中にアイスクリームとかゼリーとか、生クリーム、それに新鮮なイチゴが何層にも入ってるんだって! しかも、これってカップル向けのメニューらしいよ。すごく大きいから、二人で一つを食べるんだって。スプーンも二本ついてくるみたい!」
アイノは期待に満ちた目でレンを見た。
「ねえ、これも頼んでみない?」
レンは写真を確認し、それからアイノへ視線を戻した。
彼女が何を期待しているのか、彼にはさっぱりわからなかった。
ただ、パフェがかなり大きいことだけは理解できた。
「いいんじゃないか? 確かに、この大きさなら一人で食べきるのは大変そうだしな」
「……ふふっ」
アイノは小さく笑った。
(もう……レンってば、自分が何を言ってるのか、わかってるのかな……)
「それとね、甘いタレをつけた焼きたてのお団子も食べたいな! 小さな卓上グリルで焼いてくれるんだって。だから、ずっと温かいまま食べられるみたい!」
「わかった。好きなものを頼もう」
やがて店員が注文を取りに来て、二人の注文を確認すると、厨房へと戻っていった。
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食事は、思いのほか楽しいものになった。
オムライスは評判どおりのおいしさで、食べ始めてしばらくすると、二人の会話も自然と弾むようになっていた。
学校での何気ない出来事。
思わず笑ってしまった失敗談。
最近あったことや、ちょっとした悩み。
話題は次々と移り変わり、気づけば二人とも、すっかり打ち解けていた。
朝からレンの胸に引っかかっていた不安も、いつの間にか薄れていた。
もっと気まずい時間になるかと思っていたのだが、アイノと一緒にいると、不思議なくらい気が楽だった。
言葉を選ぶ必要もない。
どう振る舞えばいいのか、いちいち考える必要もない。
ただ、思ったことを話せばいい。
それだけで十分だった。
――しかし、本当の意味でアイノの心を騒がせたのは、食後に運ばれてきたデザートだった。
テーブルに置かれたのは、生クリームやゼリー、新鮮なイチゴがたっぷりと盛りつけられた、大きなイチゴパフェ。
その横には、細長いスプーンが二本添えられていた。
アイノは二人の間に置かれた一つのグラスを見つめ、頬がじわじわと熱くなるのを感じた。
(お、落ち着いて……! これはただのデザート。二人で一緒に食べるだけ。別に、何も特別なことじゃないんだから……!)
彼女はスプーンを手に取り、溶けかけたアイスクリームとイチゴを少しだけすくった。
そして、ぴたりと動きを止める。
(で、でも……これでレンに食べさせたりしたら……)
ちらりと向かい側を見る。
レンはというと、パフェを眺めながら、どこから食べ始めるのが効率的かでも考えているようだった。
(……よし! もっと仲良くなりたいなら、私からも少しくらい積極的にならなくちゃ!)
アイノは覚悟を決めた。
そして、スプーンをレンの口元へと差し出す。
「あ、あの……レン。これ、最初に食べてみて? この層が一番おいしそうだから……」
レンはスプーンとアイノの顔を交互に見た。
さすがに少し驚いたらしい。
一方、自分が何をしているのかを改めて意識したアイノは、その場で固まってしまった。
心臓が激しく跳ねている。
こんなに大きな音がしていたら、レンにまで聞こえてしまうのではないか。
「え、えっと……嫌なら、私が食べるから!」
慌ててスプーンを引っ込めようとした、そのとき。
「いや、別に嫌じゃないが」
レンはごく自然な動作で少し身を乗り出し、差し出されたデザートを口にした。
そのまま数秒、味を確かめるように咀嚼する。
向かい側では、アイノが息をするのも忘れたように彼を見つめていた。
「……確かにうまいな。イチゴのソースと生クリームがよく合ってる」
「そ、そう……? よかった……」
アイノは慌ててスプーンを自分のほうへ戻すと、顔を隠すようにパフェへ視線を落とした。
そして、意味もなくグラスの底のほうをかき混ぜ始める。
(ちょ、ちょっと……! 今、自分が何をされたのか、わかってるの……!?)
「うん……おいしいね……」
彼女は何とかそれだけを口にした。
レンはもう一本のスプーンを手に取り、何事もなかったかのように自分の側からパフェを食べ始めた。
彼はまったく気づいていなかった。
目の前に座る少女の心の中で、どれほど大きな嵐が巻き起こっているのかを。
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楽しい会話を続けているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
ようやく会計を済ませて店を出た頃には、太陽が西へ傾き始めていた。
東京の空は柔らかな黄金色に染まり、街のあちこちでは、ぽつぽつと街灯が灯り始めている。
ひんやりとした夕方の風が、二人の頬を心地よく撫でた。
レンとアイノは、静かな水辺の遊歩道を並んで歩いていた。
水面には街の明かりが揺らめき、穏やかな夕暮れの景色を作り出している。
アイノは何度も、隣を歩くレンの横顔を盗み見ていた。
レンは両手をジャケットのポケットに入れ、いつもどおりの落ち着いた表情で歩いている。
その顔には、照れや戸惑いなど微塵もなかった。
まるで、今日一日をただの友人との外出として楽しんでいるかのようだった。
(ほんっとに、鈍感なんだから……)
アイノは小さく笑った。
(でも……レンのほうから誘ってくれたんだよね。それに、こんなに長い時間、一緒にいられたし……)
彼女は少しずつ歩く速度を落とし、そっとレンとの距離を縮めた。
やがて、二人の肩がときおり触れ合うようになる。
レンもそれには気づいていたが、特に何も言わなかった。
ただ、隣を歩くアイノが無理なく歩けているか確かめるように、軽く顔を向けただけだった。
けれど、アイノにとっては、そんな些細な気遣いさえも嬉しかった。
「……ねえ、レン」
彼女は水面に映る街の明かりを見つめながら、静かに声をかけた。
「ん?」
「今日は誘ってくれてありがとう。本当に楽しかったよ」
レンは足を止め、手すりのそばで彼女のほうを向いた。
街灯の光を受けた彼の瞳は、いつも以上に深く、静かな色を帯びていた。
「気にするな。もともと、お礼がしたかったんだ。それに、料理もうまかったしな。なかなかいい一日だったと思う」
アイノは数秒、彼を見つめた。
(料理がおいしかった……。いい一日だった……)
彼女は笑い出しそうになるのを必死にこらえた。
(……はいはい。レンはそういうところしか見てないんだよね!)
それでも、不思議と腹は立たなかった。
むしろ、彼のそんなところが、ますます愛おしく思えてしまう。
レンは彼女によく思われようとして、無理に格好をつけたりしない。
気の利いた言葉を並べることも、別人のように振る舞うこともしない。
ただ、いつもどおりの自分でいるだけだ。
だからこそ、アイノは彼のそばにいたいと思った。
もっと彼のことを知りたい。
もっと彼と一緒に過ごしたい。
そして、いつかは自分も、彼にとって特別な存在になりたい。
アイノは静かに息を吸い込んだ。
心臓が、さっきよりも速く鼓動を刻んでいる。
(……今、言わなかったら、また迷っちゃう)
そう決心した瞬間、アイノは勢いよく一歩踏み出し、レンとの距離を一気に縮めた。
そして、背伸びをして――
そっと、彼の頬にキスをした。
ほんの一瞬の出来事だった。
けれど、それだけでアイノはすっかり余裕を失ってしまった。
彼女はすぐさま飛び退くように距離を取り、耳の先まで真っ赤に染めた。
水面へと視線をそらし、バッグの肩紐をぎゅっと握りしめる。
そして、息をつく間もなく、一気に言葉を吐き出した。
「今日は本当にありがとう! それで……またこういうところに一緒に来ようよ! 今度も、二人きりで!」
レンはその場で固まった。
いつもは何事にも動じない彼の顔に、はっきりとした驚きが浮かんでいる。
彼はゆっくりと手を上げ、アイノの唇が触れた頬に指先を当てた。
……不思議だ。
嫌な気持ちはしなかった。
距離を置きたいとも、離れたいとも思わなかった。
それどころか、胸の奥に、かすかな温もりが広がっていくのを感じた。
今まで知らなかった感覚。
うまく説明できない気持ち。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
レンはそっと手を下ろし、アイノを見つめた。
「……いいぞ。アイノが俺と一緒に過ごすのを楽しんでくれるなら、また来ればいい。土曜日なら、たいてい予定も空いてるしな」
アイノは数秒、ぽかんとした顔で彼を見つめた。
やがて、その表情がぱっと明るくなる。
「……本当!?」
「ああ。断る理由もないからな」
「じゃあ、約束だよ!」
アイノはくるりと顔をそらし、こみ上げてくる喜びを必死に隠そうとした。
(……もう、本当に……どうしてレンは、こんなに……)
その先の言葉は、胸の中にしまい込んだ。
今は、そこまで考えなくてもいい。
彼が誘いを受け入れてくれた。
それだけで、十分だった。
一方、レンもまた、自分の胸の内に生まれた変化に気づき始めていた。
次の土曜日も、彼女と一緒に過ごしたい。
そんなことを、いつの間にか自然に考えていたのだ。
なぜそう思うのか、今の彼にはまだわからない。
けれど、その気持ちは不思議なほど自然で、少しも無理をしているようには感じられなかった。
もしかすると――
こうした何気ない瞬間から、彼自身もまだ気づいていない何かが、少しずつ始まっているのかもしれない。




