第4話「永遠の代償」
火曜日の朝は、甘い卵焼きの香りと、香ばしく炒められたご飯の匂いから始まった。
蓮は制服の襟元を整えながら、階段を下りてキッチンへ向かった。
カレンダーには、八月二十五日と記されている。
地球で暮らす蓮の肉体が、十六歳を迎える日だった。
「誕生日おめでとう、蓮」
母は満面の笑みを浮かべ、蓮がキッチンに入ってくるなり、祝いの朝食をテーブルに並べた。
父は朝刊から顔を上げると、蓮のもとへ歩み寄り、父親らしく力強く手を握った。
「もうすっかり大人だな、蓮。父さんは誇りに思うぞ。勉強も頑張れよ。成績なんて三点でも構わない。何より、幸せな人間になれ」
「三点でもいいの?」
蓮が苦笑すると、父も笑った。
窓辺の椅子に座っていた祖母も、優しく頷く。
そして、小さな箱に丁寧に包まれた和菓子を蓮へ差し出した。
「ありがとう」
蓮は贈り物を受け取り、笑った。
心からの、柔らかな笑顔だった。
だが、その胸の奥で――何かが音もなく軋んだ。
両親にとっては、また一年が過ぎた。
母の目尻には、新しい細かな皺が増えている。
父は仕事から帰ってくると、以前より少しだけ疲れを見せるようになった。
二人は前へ進んでいる。
そして、少しずつ歳を重ねている。
それなのに――蓮は何も変わっていなかった。
蓮は、磨かれた窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。
変わらない顔。
変わらない背丈。
そこには、時間の経過を示すものが何一つなかった。
古き神々の呪いは、完璧に機能していた。
蓮の時間は、永遠の若さという一点に、固く閉ざされている。
「……みんな、いつかいなくなる」
冷たい思考が、静かに心を刺した。
「二十年後、三十年後……もっと先には、この家も空っぽになる。そして俺だけが、何も変わらず残る」
虚無の玉座で過ごした三百億年。
それほど長い時間を生きてきた蓮でさえ、目の前にあるこの現実には、胸を締めつけられるような痛みを覚えた。
神々は、身近な人たちが老いて死んでいく姿を見せ続ければ、いつか蓮は絶望し、彼らに慈悲を乞うようになると思っていた。
だが――
「……残念だったな」
蓮は、心の中で静かに呟いた。
神々は、一つだけ見落としていた。
蓮は、もう誰かのために生きることを諦めるような存在ではなかった。
夜。
誕生日の夕食が終わり、両親が眠りについたあと。
蓮は二階にある自分の部屋の窓辺に立ち、遠くに広がる東京のネオンを眺めていた。
暗闇の中で、その瞳が一瞬だけ、原初の宇宙を思わせる光を宿す。
彼の力は、外から与えられたものではない。
すべての力の源――。
彼自身が、世界の根源そのものだった。
それでも、今の蓮には神々の呪いを力ずくで破ることはできない。
この脆く儚い世界を、壊してしまうことになるからだ。
「……俺が人間を不老不死にしたら、それで終わりじゃない」
蓮は静かに考えた。
「一つの世界に与えた変化が、どれほど大きな結果を生むか……俺には分かっている」
小さな変化でさえ、積み重なれば世界そのものを変えてしまう。
もし人々に永遠の命を与えれば、それは地球だけの問題では済まない。
生態系も、文明も、世界の理そのものさえ、大きく歪んでしまう可能性がある。
最悪の場合、この星そのものが、その変化に耐えられず自ら崩壊することだってあり得る。
そして――
不老不死が、必ずしも幸福とは限らない。
普通の人間に永遠の命を与えれば、それは永遠の幸福ではなく――
「……永遠の悪夢と孤独になってしまうかもしれない」
蓮はそう思った。
だからこそ、今は力を使わない。
世界のすべてを、自分の都合で変えることもしない。
だが、それでも――。
蓮には、できることが一つだけあった。
蓮は拳を握りしめた。
「お前たちは、俺に大切な人たちが死んでいくところを見せるつもりだったんだな?」
静かな声だった。
「なら、いいさ」
その瞳に、揺るぎない決意が宿る。
「生きている間は――誰にも傷つけさせない」
病気にも。
事故にも。
悪意ある人間にも。
この家に住む者たちには、決して指一本触れさせない。
蓮は決めた。
世界そのものを作り変えるのではない。
神々の力に逆らって、すべてを永遠にするのでもない。
ただ、彼らのそばにいる。
誰にも知られることなく。
誰にも感謝されることなく。
一人の少年として。
蓮は、家族の穏やかで平凡な日常を守る――秘密の守護者になる。
たとえそのために、学校では青い三点ばかりを取り続けながら、自分の本当の正体を永遠に隠すことになったとしても。
壁時計が、静かな音を立てた。
蓮の十六歳という一年が、始まった。
蓮は暗闇の中で、静かに微笑んだ。
戦いは、まだ始まったばかりだった。




