第3話「どういたしまして」
翌朝。
蓮はいつものように学校へ向かった。
校門をくぐり、背負っていた鞄の肩紐を軽く直す。
昨日の出来事は、もう遠い昔のことのように感じていた。
蓮にとっては、それほど大した出来事ではなかった。
これまでの長い人生で、学校での喧嘩よりも遥かに恐ろしいものを、いくつも見てきたのだから。
だが――。
昨日の出来事を、まったく違う意味で受け止めている者もいた。
「……お、来たか」
蓮が足を止める。
校舎の入口近くの壁際に、武雄が立っていた。
今日は一人だった。
いつもの仲間たちは、どこにもいない。
蓮は武雄を見る。
「おはよう」
武雄は眉をひそめた。
「……何もなかったみたいな顔をするなよ」
「何かあった?」
「お前……」
武雄は拳を握りしめた。
昨日の出来事を、何度も頭の中で思い返していた。
自分がどうしてあんなふうに転んだのか。
今でも、はっきりとは分からない。
それが、どうにも腹立たしかった。
だが、それだけではない。
昨日のことを、みんなに話すことだってできた。
自分が、クラスの転校生を相手に喧嘩をしたこと。
蓮が奇跡的に攻撃をかわし、自分はただ足を滑らせただけだった――。
そんな都合のいい話を作ることもできた。
そうすれば、蓮を笑いものにすることだってできる。
学校中に、この変わった転校生の噂を広めることだってできた。
だが――。
蓮は何も言わなかった。
誰にも話していない。
昨日の出来事を利用して、武雄を貶めようともしなかった。
武雄は、上目遣いに蓮を見る。
「……誰にも話してないのか?」
「何を?」
「とぼけるなよ」
蓮は肩をすくめた。
「話す必要がないだろ」
武雄は黙り込んだ。
その一言が、なぜか一番胸に刺さった。
馬鹿にされたわけではない。
見下されたわけでもない。
蓮は本当に、武雄を笑いものにする意味がないと思っているのだ。
武雄は、そんな人間を知らなかった。
普通なら、喧嘩に勝った側は、そのことを周りに言いふらす。
話を大げさにする。
自分がどれだけ強いのかを見せつける。
だが、蓮は昨日のことを一言も口にしなかった。
まるで――。
最初から何もなかったかのように。
武雄は視線を逸らした。
「……お前、変な奴だな」
「よく言われるよ」
「勘違いするなよ。だからって、お前を認めたわけじゃないからな」
蓮は武雄を見る。
「別に、そう思ってないけど」
「……またそれかよ!」
武雄は苛立ったようにため息をついた。
蓮は小さく笑った。
そして――。
その瞬間、武雄は初めて、蓮を殴りたいとは思わなかった。
ただ、少しだけ苛立つ。
そして、その奥には――。
ほんのわずかな、認めたくない敬意があった。
もちろん、こんな奴と友達になるつもりはない。
少なくとも、今は。
だが、一つだけ決めた。
もう、蓮には手を出さない。
怖くなったからではない。
喧嘩に負けたからでもない。
ただ――。
武雄は理解したのだ。
蓮は、傲慢な人間ではない。
自分を他人より上に置こうともしない。
相手を辱めようともしない。
そして、昨日のことを学校中に言いふらすこともしなかった。
武雄にとっては、それで十分だった。
「……じゃあな、転校生」
武雄は背を向ける。
「また授業でな」
蓮は軽く頷いた。
「ああ。またな」
武雄は数歩歩いた。
だが――。
突然、足を止める。
「……おい」
蓮が振り返る。
武雄は数秒間、黙っていた。
まるで、次の言葉を口にするのがひどく難しいかのように。
そして――。
「……ありがとな」
それだけ言うと、武雄は逃げるようにその場を去っていった。
蓮はしばらく、武雄の背中を見つめていた。
そして――。
小さく笑った。
「……どういたしまして」




