第2話「届かなかった拳」
最後のチャイムが鳴ってからしばらくすると、校舎は少しずつ静かになっていった。
生徒たちはそれぞれ家へ帰っていく。
校門の前では、何人かの生徒が笑いながら話をしていた。
電車の時間を気にして、急ぎ足で駅へ向かう者もいる。
そんな中、蓮は一人で歩いていた。
制服のポケットに両手を入れ、いつものように周囲を気にすることなく歩いている。
身長は百八十センチ近く。
黒い髪に、茶色の瞳。
整った顔立ちではあるものの、特別目立つような派手さはない。
細すぎるわけでもなく、かといって鍛え抜かれた体つきでもない。
適度に引き締まった、どこにでもいそうな体格だった。
ただ一つ、普通の少年とは違うところがある。
その瞳だった。
茶色の瞳の奥には、年齢とは到底釣り合わないほど深く、静かで、そしてどこか知恵を感じさせる眼差しが宿っていた。
――もっとも。
本人はそれを気にしたことなど一度もない。
蓮にとって、この程度のことはどうでもよかった。
「おい、転校生」
背後から声がした。
蓮は足を止めた。
振り返る。
そこには五人の男子生徒が立っていた。
その先頭にいるのは、十六歳とは思えないほど肩幅の広い少年だった。
名前は武雄。
この学校では、それなりに知られた存在だった。
武雄は蓮を睨みつける。
「ちょっと話がある」
蓮は周囲を見回した。
すでに人通りは少ない。
「いいよ」
「こっち来い」
数分後。
二人は学校の校舎と、古びた室外機が並ぶ狭い路地にいた。
レンガ造りの壁に挟まれたその場所は、人が二人並んで歩くのも難しいほど狭い。
武雄は蓮の正面に立った。
「お前さ……」
「うん?」
「この学校に来て、まだ日が浅いくせに、ずいぶん余裕そうだよな」
蓮は首を傾げた。
「そうかな?」
「そうだよ」
武雄は一歩近づいた。
「必要な奴に挨拶もしない。誰かに媚びるわけでもない。授業中だって、まるで誰にも興味がないみたいな顔してる」
そして、鼻で笑った。
「それでいて、テストではわざとみたいに三点とか四点とか取ってる」
「……」
「自分が一番頭いいとでも思ってんのか?」
蓮は少し考えた。
そして、何でもないことのように答えた。
「実は、わざと三点を取ってるんだ」
後ろにいた男子たちが顔を見合わせた。
「は?」
「いや、何でもない」
蓮は小さく笑った。
武雄の眉間に皺が寄る。
「お前……俺を馬鹿にしてんのか?」
「そんなつもりはないよ」
「じゃあ、土下座しろ」
蓮は武雄を見た。
「なんで?」
数秒間、沈黙が続いた。
「俺が言ったからだ」
武雄が右手をポケットから出す。
拳を握る。
そして――
勢いよく振り抜いた。
拳が蓮の顔へ向かって飛んでくる。
普通の人間なら、避けることなどできないほどの速さだった。
だが、蓮には見えていた。
肩の動き。
腕の軌道。
重心の移動。
拳が飛んでくるよりも前に、次の動きが分かっていた。
――昔の蓮なら。
この程度の攻撃で、一つの軍勢どころか、その軍勢が存在する惑星ごと消し去ることすらできただろう。
だが、今の蓮は違う。
「……っ」
蓮は反射的に目を閉じた。
そして、慌てたように両手を顔の前へ持っていく。
一歩、後ろへ下がった。
拳が頬のすぐ横を通り過ぎる。
その瞬間だった。
武雄の拳の周囲にある空気が――ほんの一瞬だけ、変化した。
わずかな違和感。
空気抵抗が変わる。
拳の軌道が、ほんの少しだけずれた。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
「なっ……!」
武雄の身体が前へ流れる。
止まろうとする。
しかし、勢いはもう止まらない。
蓮は一歩横へ移動した。
そして――
まるで偶然だったかのように、武雄の足に自分の足を引っかけた。
「うわっ!」
ドンッ!
武雄の身体がアスファルトへ叩きつけられる。
路地に大きな音が響いた。
静寂。
誰も言葉を発しなかった。
武雄は地面に倒れたまま、しばらく動かなかった。
「俺……」
自分でも何が起きたのか理解できない。
拳は確かに当たるはずだった。
なのに、なぜか身体のバランスを崩した。
「……何だよ、これ」
武雄は顔をしかめた。
後ろにいた仲間たちも、何が起きたのか分からず黙り込んでいる。
蓮はゆっくりと目を開けた。
「大丈夫?」
そう言って、蓮は武雄へ手を差し出した。
「ほら」
武雄はその手を見つめた。
まるで理解できないものを見るような目だった。
「……お前」
「うん?」
「怖くないのか?」
蓮は少し首を傾げた。
「怖がる必要ある?」
武雄は答えられなかった。
蓮はそのまま武雄の手を取って立たせる。
そして、制服についた埃を軽く払った。
武雄の膝には小さな擦り傷ができていた。
蓮はそれを見た。
「痛い?」
「……少し」
「家に帰ったら、何か冷たいものを当てたほうがいいよ」
武雄は蓮を見つめた。
さっきまでの怒りとは違う。
そこにあったのは、戸惑いだった。
そして、初めて見るものを見るような視線。
「なあ……」
「ん?」
「なんで助けた?」
蓮は武雄を見る。
目の前にいるのは怪物ではない。
敵でもない。
ただ、自分が怖い人間だと思われたくて、必死になっている十六歳の少年だった。
蓮には、それが分かっていた。
かつての自分も、似たようなことをしていたからだ。
世界中に自分が恐れられる存在だと証明しようとした。
その結果、自分が何を失ったのかも知らずに。
だが――
蓮はそれ以上、武雄のことを知ろうとはしなかった。
昔なら、一目見ただけで相手の過去も、恐怖も、考えていることも、その家族さえも知ることができた。
けれど、今は違う。
知ることができるからといって、知る必要があるわけではない。
「だって、転んだんだから」
蓮は穏やかに答えた。
「……それだけ?」
「それ以外に何かある?」
武雄は何も言えなかった。
その答えが、なぜか一番腹立たしかった。
馬鹿にされているわけじゃない。
見下されているわけでもない。
蓮は本当に、ただ自分が転んだから助けただけなのだ。
まるで――
さっきの出来事など、最初から大したことではなかったかのように。
武雄は拳を握った。
それでも、何も言えなかった。
蓮は小さく笑った。
「じゃあ、また明日」
そう言って、路地の出口へ向かって歩き出す。
「……おい」
蓮が振り返る。
武雄は何か言おうとした。
しかし、結局言葉が出てこなかった。
「……いや」
「そう?」
蓮は首を傾げる。
そして、そのまま歩いていった。
残された武雄は、しばらく蓮の背中を見つめていた。
拳を握ったまま。
苛立ちを抱えたまま。
そして――
自分がなぜあの男に何もできなかったのか。
その理由すら分からないまま。
ただ一つだけ。
武雄の中に、今まで感じたことのない感情が生まれていた。
それが何なのか。
この時の武雄には、まだ分からなかった。
――それは、ほんの僅かな尊敬だった。




