↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/72

第2話「届かなかった拳」


最後のチャイムが鳴ってからしばらくすると、校舎は少しずつ静かになっていった。

生徒たちはそれぞれ家へ帰っていく。

校門の前では、何人かの生徒が笑いながら話をしていた。

電車の時間を気にして、急ぎ足で駅へ向かう者もいる。

そんな中、蓮は一人で歩いていた。

制服のポケットに両手を入れ、いつものように周囲を気にすることなく歩いている。

身長は百八十センチ近く。

黒い髪に、茶色の瞳。

整った顔立ちではあるものの、特別目立つような派手さはない。

細すぎるわけでもなく、かといって鍛え抜かれた体つきでもない。

適度に引き締まった、どこにでもいそうな体格だった。

ただ一つ、普通の少年とは違うところがある。

その瞳だった。

茶色の瞳の奥には、年齢とは到底釣り合わないほど深く、静かで、そしてどこか知恵を感じさせる眼差しが宿っていた。

――もっとも。

本人はそれを気にしたことなど一度もない。

蓮にとって、この程度のことはどうでもよかった。

「おい、転校生」

背後から声がした。

蓮は足を止めた。

振り返る。

そこには五人の男子生徒が立っていた。

その先頭にいるのは、十六歳とは思えないほど肩幅の広い少年だった。

名前は武雄。

この学校では、それなりに知られた存在だった。

武雄は蓮を睨みつける。

「ちょっと話がある」

蓮は周囲を見回した。

すでに人通りは少ない。

「いいよ」

「こっち来い」

数分後。

二人は学校の校舎と、古びた室外機が並ぶ狭い路地にいた。

レンガ造りの壁に挟まれたその場所は、人が二人並んで歩くのも難しいほど狭い。

武雄は蓮の正面に立った。

「お前さ……」

「うん?」

「この学校に来て、まだ日が浅いくせに、ずいぶん余裕そうだよな」

蓮は首を傾げた。

「そうかな?」

「そうだよ」

武雄は一歩近づいた。

「必要な奴に挨拶もしない。誰かに媚びるわけでもない。授業中だって、まるで誰にも興味がないみたいな顔してる」

そして、鼻で笑った。

「それでいて、テストではわざとみたいに三点とか四点とか取ってる」

「……」

「自分が一番頭いいとでも思ってんのか?」

蓮は少し考えた。

そして、何でもないことのように答えた。

「実は、わざと三点を取ってるんだ」

後ろにいた男子たちが顔を見合わせた。

「は?」

「いや、何でもない」

蓮は小さく笑った。

武雄の眉間に皺が寄る。

「お前……俺を馬鹿にしてんのか?」

「そんなつもりはないよ」

「じゃあ、土下座しろ」

蓮は武雄を見た。

「なんで?」

数秒間、沈黙が続いた。

「俺が言ったからだ」

武雄が右手をポケットから出す。

拳を握る。

そして――

勢いよく振り抜いた。

拳が蓮の顔へ向かって飛んでくる。

普通の人間なら、避けることなどできないほどの速さだった。

だが、蓮には見えていた。

肩の動き。

腕の軌道。

重心の移動。

拳が飛んでくるよりも前に、次の動きが分かっていた。

――昔の蓮なら。

この程度の攻撃で、一つの軍勢どころか、その軍勢が存在する惑星ごと消し去ることすらできただろう。

だが、今の蓮は違う。

「……っ」

蓮は反射的に目を閉じた。

そして、慌てたように両手を顔の前へ持っていく。

一歩、後ろへ下がった。

拳が頬のすぐ横を通り過ぎる。

その瞬間だった。

武雄の拳の周囲にある空気が――ほんの一瞬だけ、変化した。

わずかな違和感。

空気抵抗が変わる。

拳の軌道が、ほんの少しだけずれた。

それだけだった。

だが、それで十分だった。

「なっ……!」

武雄の身体が前へ流れる。

止まろうとする。

しかし、勢いはもう止まらない。

蓮は一歩横へ移動した。

そして――

まるで偶然だったかのように、武雄の足に自分の足を引っかけた。

「うわっ!」

ドンッ!

武雄の身体がアスファルトへ叩きつけられる。

路地に大きな音が響いた。

静寂。

誰も言葉を発しなかった。

武雄は地面に倒れたまま、しばらく動かなかった。

「俺……」

自分でも何が起きたのか理解できない。

拳は確かに当たるはずだった。

なのに、なぜか身体のバランスを崩した。

「……何だよ、これ」

武雄は顔をしかめた。

後ろにいた仲間たちも、何が起きたのか分からず黙り込んでいる。

蓮はゆっくりと目を開けた。

「大丈夫?」

そう言って、蓮は武雄へ手を差し出した。

「ほら」

武雄はその手を見つめた。

まるで理解できないものを見るような目だった。

「……お前」

「うん?」

「怖くないのか?」

蓮は少し首を傾げた。

「怖がる必要ある?」

武雄は答えられなかった。

蓮はそのまま武雄の手を取って立たせる。

そして、制服についた埃を軽く払った。

武雄の膝には小さな擦り傷ができていた。

蓮はそれを見た。

「痛い?」

「……少し」

「家に帰ったら、何か冷たいものを当てたほうがいいよ」

武雄は蓮を見つめた。

さっきまでの怒りとは違う。

そこにあったのは、戸惑いだった。

そして、初めて見るものを見るような視線。

「なあ……」

「ん?」

「なんで助けた?」

蓮は武雄を見る。

目の前にいるのは怪物ではない。

敵でもない。

ただ、自分が怖い人間だと思われたくて、必死になっている十六歳の少年だった。

蓮には、それが分かっていた。

かつての自分も、似たようなことをしていたからだ。

世界中に自分が恐れられる存在だと証明しようとした。

その結果、自分が何を失ったのかも知らずに。

だが――

蓮はそれ以上、武雄のことを知ろうとはしなかった。

昔なら、一目見ただけで相手の過去も、恐怖も、考えていることも、その家族さえも知ることができた。

けれど、今は違う。

知ることができるからといって、知る必要があるわけではない。

「だって、転んだんだから」

蓮は穏やかに答えた。

「……それだけ?」

「それ以外に何かある?」

武雄は何も言えなかった。

その答えが、なぜか一番腹立たしかった。

馬鹿にされているわけじゃない。

見下されているわけでもない。

蓮は本当に、ただ自分が転んだから助けただけなのだ。

まるで――

さっきの出来事など、最初から大したことではなかったかのように。

武雄は拳を握った。

それでも、何も言えなかった。

蓮は小さく笑った。

「じゃあ、また明日」

そう言って、路地の出口へ向かって歩き出す。

「……おい」

蓮が振り返る。

武雄は何か言おうとした。

しかし、結局言葉が出てこなかった。

「……いや」

「そう?」

蓮は首を傾げる。

そして、そのまま歩いていった。

残された武雄は、しばらく蓮の背中を見つめていた。

拳を握ったまま。

苛立ちを抱えたまま。

そして――

自分がなぜあの男に何もできなかったのか。

その理由すら分からないまま。

ただ一つだけ。

武雄の中に、今まで感じたことのない感情が生まれていた。

それが何なのか。

この時の武雄には、まだ分からなかった。

――それは、ほんの僅かな尊敬だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。