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第1話「あまりにも完璧な楽園」

第一章 新しい人生


レンはベッドの上で勢いよく身を起こした。


荒い息をしながら、自分がどこにいるのかを理解しようとする。


心臓が胸の中で激しく鼓動していた。


「……何が起きた? ここはどこだ?」


レンは周囲を見回した。


そこは、彼が暮らしていた大都市の郊外にある、小さな賃貸部屋ではなかった。


すべてがまるで違っていた。


広々とした明るい寝室。


大きな窓。


木製の家具。


壁には、レンが一度も見たことのない写真が何枚も飾られている。


レンはゆっくりとベッドから立ち上がった。


そして――自分の手に気づいた。


小さい。


細い。


きれいな手。


そこには、ひとつの傷も、タコもなかった。


レンは固まった。


昨夜、彼はいつもの十二時間勤務を終え、質素な部屋へ戻って眠りについたはずだった。


彼は、自らそんな人生を選んだ。


三百億年もの間、権力を握り続けた末に、彼が本当に知りたかったもの。


それは――


普通の人生だった。


彼なら、思考ひとつですべてを手に入れられた。


金。


権力。


理想の家。


不老不死。


それどころか、現実そのものを書き換えることさえできた。


だが、もうそれを望まなかった。


自分で稼いだ一枚の硬貨には、それに見合う価値を。


自分が生きる一日一日には、意味を。


それこそが、レンの望みだった。


だからこそ、彼はごく普通の仕事に就き、小さな賃貸部屋へ帰り、疲れ果てながらも満足した気持ちで眠りについた。


彼は初めて、自分が自由なのだと感じていた。


それなのに――


レンは鏡を見た。


そこに映っていたのは、十五歳ほどの少年だった。


黒い髪。


痩せた顔。


そして――年齢には似つかわしくないほど、静かで、あまりにも賢そうな瞳。


「……神々め」


レンの胸に不安がよぎった。


まさか、また彼らが干渉したのか?


レンは慎重に部屋の外へ出た。


階段を下りると、一階へと続いていた。


そのときだった。


ふわりと漂ってきた香りに、レンは足を止めた。


温かな味噌汁。


炊きたてのご飯。


緑茶。


なぜか――その匂いが、ひどく懐かしく感じられた。


レンは居間へ向かった。


低いテーブルの前には、眼鏡をかけた年配の男性と、年配の女性が座っていた。


そして、台所には四十歳くらいの女性が立っている。


彼女が振り返った。


そして、笑った。


「まあ、レン! もう起きたの?」


レンは凍りついた。


その笑顔。


あまりにも純粋で、あまりにも優しくて――


レンは数秒間、呼吸の仕方すら忘れていた。


「早く座って。朝ご飯、もうできてるわよ」


女性はレンの前にご飯を置いた。


「今日は高校の入学初日なんだから。遅刻しないようにね」


レンは黙って彼女を見つめた。


頭が、目の前の現実を受け入れることを拒んでいた。


彼女は誰だ?


なぜ自分の名前を知っている?


なぜ、まるで自分のことを何よりも大切に思っているかのような目で見ている?


レンは男性へ視線を移した。


男性は新聞を置き、微笑んだ。


「どうした、息子よ? 緊張しているのか?」


――息子。


その一言は、どんな武器よりも強烈にレンの胸を打ち抜いた。


レンはゆっくりと椅子に座った。


その瞬間、頭の中にひとつの力が蘇った。


かつて、二度と使わないと誓った力。


全知。


レンは、目の前で何が起きているのかを理解しようとした。


そして――


無数の現実の糸が見えた。


この家族は、本当に彼の家族だった。


この家は、本当に彼の家だった。


彼には、本当に過去が存在していた。


幼少期。


思い出。


学校。


祝日。


家族写真。


すべてが本物だった。


神々は、ただ彼を新しい身体へ移したわけではない。


現実そのものを書き換えたのだ。


まるで、レンがこれまでずっとここで生きてきたかのように。


レンは女性を見た。


母親。


彼女はレンの前に湯飲みを置いた。


「どうしたの? 大丈夫?」


レンはすぐには答えられなかった。


三百億年を生きた。


星の誕生を見た。


文明の滅亡を見た。


神々を滅ぼした。


何十億もの世界を支配した。


そんな彼の心が――


今、見知らぬ女性の手の中にある一杯の茶によって、揺さぶられていた。


「……うん」


レンは視線を落とした。


「大丈夫だよ……母さん」


女性は微笑んだ。


その瞬間、レンの胸に不思議な温かさが広がった。


この家族のことを、彼は知らない。


それでも――


なぜか、久しぶりにどこにも行きたくないと思った。


---


それから三十分後。


レンは朝の東京を歩いていた。


肩には、シンプルな学生用のリュック。


周囲では人々が足早に行き交っている。


車が道路を走り抜ける。


学生たちは笑いながら会話している。


街は、いつも通りの日常を営んでいた。


レンは学校の門の前で立ち止まった。


高校。


レンは校舎を見上げた。


かつて彼は、いくつもの世界を支配していた。


それなのに今は――


一時間目に遅刻しないかどうかを気にしている。


レンは思わず苦笑した。


「……これが、俺の新しい人生か」


---


学校生活は、レンにとって奇妙な試練だった。


物理の授業。


教師が黒板に複雑な数式を書いた。


レンはそれを見つめた。


答えは分かる。


ただの答えではない。


なぜその公式が成り立つのか。


その背後にある法則が何なのか。


そして――


その法則そのものをどう変えればいいのか。


すべて知っている。


かつてのレンにとって、そんなことは子供の遊びにも等しかった。


教師が教室を見回した。


「誰か、この問題を解いてみるか?」


レンは顔を上げた。


反射的に手を上げかける。


しかし――


止めた。


いや。


目立ちすぎる。


レンは手を下ろした。


その後、わざとノートにいくつか間違いを書いた。


教師が答案を確認すると、深いため息をついた。


「レン君……」


教師は答案を彼の前に置いた。


「あなたなら、これくらい正しく解けたでしょう?」


レンは申し訳なさそうに笑った。


「たぶん、問題をちゃんと読んでいなかったんだと思います」


教師は首を横に振った。


「あなたには明らかに才能があるのに。ただ、ものすごく怠けているだけね」


レンは軽く頭を下げた。


「すみません、アイコ先生。これから頑張ります」


教師が去っていく。


レンは自分の答案を見つめた。


そして、小さく笑った。


完璧だ。


平凡な成績。


誰からも注目されない。


質問もされない。


なぜ十五歳の少年が大学教授よりも多くのことを知っているのか――


そんな疑問を抱く科学者も、政府機関も、誰もいない。


「普通」であること。


それこそが、レンにとって最高の防御だった。


そして彼は――


かつて王冠を被っていた頃よりも、その平凡さを気に入っていた。


レンは頬杖をつき、窓の外を眺めた。


東京は、太陽の光を浴びて輝いていた。


人々が街を歩いている。


誰かが笑っている。


誰かが口論している。


誰かが仕事へ急いでいる。


ありふれた日常。


――その瞬間。


レンは固まった。


瞳孔が大きく開く。


世界そのものが、彼の周囲から消え去ったように感じられた。


全知が、勝手に目覚めた。


目の前に、何千もの光景が浮かび上がる。


母。


白髪。


顔に刻まれた皺。


父。


椅子に座る姿。


力の弱った両手。


老い。


痛み。


墓。


レンは鋭く息を吸った。


幻視を止めようとする。


だが、止まらない。


年月。


数十年。


世代。


レンは、五十年後の同じ家を見た。


そこに、両親の姿はなかった。


代わりに、見知らぬ人々が暮らしている。


そして――


墓地に立つ自分。


同じ若い姿。


十五歳のままの顔。


ただし、その瞳には何も宿っていなかった。


レンは理解した。


これこそが、神々の狙いだったのだ。


彼らは、ただ家族を与えたのではない。


レンが失うことのできるものを――


与えたのだ。


母は老いていく。


父も老いていく。


そして、二人は死ぬ。


それでも、レンだけは残る。


二十歳。


三十歳。


百歳。


千歳。


永遠に。


彼は両親の墓の前に立つことになる。


その後は、子供たちの墓。


孫たちの墓。


ひ孫たちの墓。


時間は、彼の周囲にあるすべてを破壊していく。


そして彼だけが、生き続ける。


覚えている。


すべての別れを。


すべての顔を。


すべての声を。


すべての愛を。


レンはゆっくりと目を開いた。


胸の奥が痛かった。


とても――痛かった。


それでも、彼の顔には笑みが浮かんだ。


かつて、数え切れないほどの文明が恐れた笑み。


冷たく。


頑なで。


何者にも屈しない笑み。


「……そうか」


レンは窓の外を見つめた。


「……お前たちの勝ちだ、神々」


レンは拳を握りしめた。


「苦しいよ」


そして、朝に家で見た家族写真へ視線を向けた。


その瞳が、少しだけ優しくなる。


「だけど……」


「みんなが生きている間は――」


レンは静かに呟いた。


「俺も、一秒たりとも無駄にせず、一緒に生きよう」


レンは再び東京の街を見つめた。


彼はまだ知らなかった。


運命が、彼に永遠の命だけではなく――


それ以上のものを用意していることを。


そして、彼が「普通の人間」になる方法を探しているその頃――


学校の角には、一人の少年が立っていた。


少年の名は、タケオ。


この辺りでは有名な不良だった。


彼は腕を組み、レンをじっと見つめていた。


「こいつが、噂の転校生か?」


タケオはニヤリと笑った。


「大人しすぎるな」


そして、一歩前へ踏み出す。


「ちょっと、教育してやるか」

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