第45話: 「夜の公園での話」
愛乃が門を開け、俺が外へ出るのを待ってから、軽く手を振った。
「蓮、今日は買い物も手伝ってくれてありがとう。それに、夕食まで付き合ってくれて。じゃあ、また明日。学校でね」
「ああ。また明日、愛乃」
そう答えて、俺は夜の道を歩き始めた。
家へ向かいながら、今日一日のことを思い返す。
人間の料理を食べたこと。
家族と一緒に食卓を囲んだこと。
愛乃の父親と交わした握手。
そして、門の前で見た愛乃の笑顔。
どれも、今までの俺にはなかったものだった。
不思議な感覚だった。
だが、嫌ではない。
むしろ、満たされていた。
友達と呼べる相手もできた。
それだけでも十分だった。
数分後、家に着いた。
玄関を開けると、母さんが出迎えてくれた。
「蓮、おかえり。そうだ、悪いんだけど、これゴミに出してきてくれる?」
母さんが玄関脇に置かれたゴミ袋を指差す。
「分かった」
俺はゴミ袋を持ち、そのまま外へ出た。
近所のゴミ置き場まで行き、袋を置く。
その帰り道。
俺は小さな公園の前を通りかかった。
こんな時間になると、周囲にはほとんど人がいない。
公園を通り過ぎようとしたとき、街灯に照らされたベンチが目に入った。
そこに誰かが座っている。
……愛乃?
俺は足を止めた。
ベンチには愛乃が一人で座っていた。
膝を抱え、じっと地面を見つめている。
俺はゆっくりと近づいた。
「愛乃?」
愛乃の肩が小さく跳ねた。
顔を上げた彼女は、慌てて笑おうとする。
「れ、蓮……?」
「こんな時間に、どうして一人でいる?」
「えっと……ちょっと散歩してただけ。寝る前に外の空気を吸いたくて」
愛乃は視線を逸らした。
「大丈夫だから」
俺は黙って彼女を見る。
「……それ、本当か?」
愛乃は答えなかった。
ただ、もう一度視線を落とした。
「そうか。じゃあ、違うんだな」
俺はベンチの端に腰を下ろした。
「俺は、こういうときに何を言えばいいのか、あまり分からない」
愛乃がちらりとこちらを見る。
「でも、話を聞くことならできる」
「……」
「話したければ、聞く」
しばらく沈黙が続いた。
愛乃はセーターの袖を指でつまみながら、何度も言葉を探しているようだった。
やがて、小さく息を吐く。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
「私、最初は蓮のこと……すごく怪しい人だと思ってた」
「そうなのか?」
「うん」
愛乃は少し気まずそうに笑った。
「最初に会ったときのこと、覚えてる?」
「覚えてる」
「それから、もう一度会ったよね」
「ああ」
「私はね……その二回目のとき、蓮が私の後をつけてるんだと思ったの」
「……」
「だから、もう私に近づかないでって言った」
「覚えてる」
「でも蓮は、ずっと『偶然だから』って言ってたよね」
「実際、偶然だったからな」
「うん。今なら分かる」
愛乃は苦笑した。
「でも、あのときの私は信じられなかったの。会うたびに『本当に偶然だ』って説明するから、逆に怪しく感じちゃって」
「なるほど」
「しかも、蓮ってすごく真面目な顔で説明するでしょう?」
「……そうか?」
「そうなの」
愛乃が少しだけ笑う。
「だから余計に変な人だと思ってた」
「ひどいな」
「ごめんって」
愛乃は小さく笑った。
だが、その笑顔はすぐに消えた。
「……でも、あの頃は仕方なかったんだと思う」
「何かあったのか?」
愛乃は少し黙ってから、静かに話し始めた。
「中学生の頃ね……好きな男の子がいたの」
「……」
「自分から話しかけようと思って、すごく緊張したけど……勇気を出して、その子のところへ行った」
愛乃は膝の上で手を握った。
「それで、『よかったら、私と付き合ってくれませんか』って聞いたの」
「相手は?」
「すぐに『いいよ』って」
そのときのことを思い出したのか、愛乃の表情が少し曇った。
「学校の近くのお店の前に、夜七時に来てって言われた」
「それで行ったのか?」
「うん。嬉しくて……そのときは何も疑わなかった」
愛乃は一度、言葉を止めた。
「その子はもう来ていて、手には小さな箱を持ってた」
「箱?」
「うん。綺麗な箱だった」
愛乃は苦笑する。
「『プレゼントを用意したんだ』って言われて……私、本当に嬉しかった」
だが、その表情はすぐに消えた。
「箱を開けたら……中に大きな虫が入ってた」
俺は黙って聞いていた。
「びっくりして箱を放り出したら、その子が大声で笑い始めたの」
愛乃の指に力が入る。
「その直後、お店の陰から友達が何人も出てきた。みんな最初から隠れて見てたんだって」
「……」
「みんなで私を笑ってた」
愛乃は俯いた。
「それから、その子が私に言ったの」
少しだけ声が震える。
「『俺が本気でお前みたいな地味な女と付き合うと思ったの?』って」
一筋の涙が、愛乃の頬を伝った。
けれど、彼女は拭おうともしなかった。
「……あのとき、本当に悔しくて、悲しくて」
愛乃は小さく息を吐いた。
「そのまま走って……この公園に来たの」
俺は黙って聞いていた。
「夜だったし、誰もいなかった。私はこのベンチに座って、ずっと泣いてた」
「……」
「それから、男の人を信用できなくなった」
愛乃は苦笑する。
「みんな同じなんだって思ってた」
少しして、愛乃が俺を見る。
「だから、蓮に会ったときも……最初から疑ってた」
「俺が後をつけてると思ったのも、そのせいか」
「うん」
愛乃は頷いた。
「でも、蓮は違った」
「どこが?」
「私が何度も離れてって言っても、無理に近づいてこなかった」
愛乃は少し考える。
「会うたびに『本当に偶然だ』って説明してくれて……なんだか変だったけど」
「変だったのか」
「ちょっとね」
愛乃が笑う。
「でも、話していくうちに分かったの。蓮は、私が思ってたような人じゃないって」
「……そうか」
「うん」
愛乃はまっすぐ俺を見る。
「すごく優しいし、困ってる人がいたら放っておけないし。それに……一緒にいると安心する」
俺は黙った。
胸の奥に、今まで感じたことのない感覚が生まれていた。
これが、人間の言う「同情」や「共感」というものなのかもしれない。
「中学生の頃、かなり辛い目に遭ったんだな」
俺は静かに言った。
「俺には、そういう感情を完全に理解することはできないかもしれない。でも……辛かったんだろうなってことくらいは分かる」
少し間を置く。
「……ごめん」
「どうして蓮が謝るの?」
愛乃が少し驚いた顔をする。
「いや……なんとなく」
「ふふ……変なの」
愛乃は涙を拭い、小さく笑った。
「でも、もう大丈夫。今は平気だから」
「そうか」
少しの間、二人とも黙っていた。
俺は愛乃を見る。
「愛乃」
「なに?」
「俺は、お前の友達だよな?」
愛乃が少し驚いた顔をした。
「うん。そうだけど……どうしたの?」
「もし、また誰かに嫌なことをされたら、俺に言ってくれ」
「……私だって、自分のことくらい自分で守れるよ」
少し照れたように、愛乃が呟く。
「分かってる」
「じゃあ、なんで?」
「念のためだ」
愛乃は俺を見つめ、それから小さく笑った。
「……うん。分かった」
「それならいい」
俺は立ち上がった。
「もう遅い。家まで送る」
「うん」
愛乃も立ち上がった。
二人で夜道を歩く。
十分ほどして、再び愛乃の家の門の前に着いた。
夜の空気は、さっきより少し冷たくなっていた。
「じゃあ、また明日」
俺が帰ろうとしたときだった。
「……待って」
愛乃の声がした。
振り返る。
「ん?」
「……ありがとう」
「何が?」
「話を聞いてくれて」
愛乃は優しく笑った。
「この話、誰にもしたことなかったから」
「気にするな」
俺は少し考えてから言った。
「俺たち、友達だろ。友達なら、こういうときは支え合うものだ」
「……うん」
愛乃が小さく頷く。
「おやすみ、蓮」
「おやすみ、愛乃」
愛乃が家の中へ入っていく。
門が閉じるのを確認してから、俺は踵を返した。
そして、静かな夜道を一人で歩いて帰った。




