第44話: 「夕食。初めての顔合わせ」
玄関に上がり、買ってきた食材の入った袋を壁際に置いた。
「蓮くん、そんなところに立ってないで。上がってちょうだい」
愛乃の母親が笑いながら、袋をいくつか受け取る。
「愛乃、蓮くんに手を洗う場所を教えてあげて」
「うん。蓮、こっち」
「分かった」
愛乃についていく。
手を洗って戻ると、愛乃はすでにエプロンを身につけていた。
テーブルの上には、キャベツ、きのこ、にんじん、長ねぎ、豆腐、それに肉まで並んでいる。
思ったより多い。
家族全員分なら、これくらいになるのかもしれない。
愛乃はテーブルの上を見ながら、小さく息を吐いた。
「……多くない?」
「何が?」
「食材」
「鍋なんだから、こんなものじゃない?」
「それはそうだけど……」
愛乃は少し考えてから、俺を見る。
「まさか、何もしないで見てるつもりじゃないよね?」
「何をすればいい?」
「手伝って」
「分かった」
俺はまな板を手に取った。
「何を切る?」
「じゃあ、キャベツお願い」
愛乃が包丁を渡してくる。
「こんな感じ。大きすぎないようにしてね」
手で大きさを示す。
「分かった」
「あと、細かくしすぎるのもダメだから」
「じゃあ、このくらい?」
「うん。それくらい」
俺はキャベツをまな板の上に置いた。
包丁は普通の家庭用だ。
特に難しいことはない。
急がなければいい。
トントン、と一定のリズムで包丁を入れていく。
しばらくして切り終える。
大きさはだいたい揃っていた。
まあ、こんなものだろう。
次ににんじんを切ろうとしたところで、愛乃がこちらを見ていることに気づいた。
「蓮……」
「ん?」
「わざと?」
「何が?」
愛乃がまな板を指差す。
「これ」
「キャベツ?」
「そうじゃなくて!」
少し怒ったような顔になる。
「なんで全部同じくらいの大きさなの?」
俺は切ったキャベツを見る。
「同じくらいになるように切ったから」
「……それができるのがすごいんだって」
「そう?」
「そうなの!」
愛乃は納得していない顔で、きのこの袋を開けた。
「私だって料理くらいできるんだから」
「うん」
「その『うん』、なんか腹立つ」
「そう?」
「ほら、それ!」
俺は何も言わず、にんじんを切り始めた。
すると、後ろから小さな笑い声が聞こえた。
振り返ると、愛乃の母親が立っていた。
「何してるの?」
「何でもない!」
愛乃がすぐに答える。
母親はテーブルの上を見て、それから俺を見る。
「まあ……蓮くん、もうこんなに切ったの?」
「はい。もう少しで終わります」
「きれいねぇ」
母親は感心したように切った野菜を見る。
そして愛乃のほうを向いた。
「愛乃も見習わないとね」
「お母さんまで言うの?」
「だって、本当にきれいだもの」
「私だって普通に切れるよ」
「もちろん知ってるわよ」
「その言い方、絶対分かってないでしょ」
「ふふっ」
愛乃が頬を膨らませる。
俺は気にせず、肉を切る。
しばらくして、すべての下ごしらえが終わった。
包丁を洗い、布巾で水気を拭いて元の場所に戻す。
「終わりました」
「ありがとう、蓮」
「ううん。これくらいなら」
愛乃は切り分けられた野菜を見て、小さく笑った。
「……でも、ほんとにきれい」
「そう?」
「うん」
「じゃあ、よかった」
「そこで普通に返すんだ……」
愛乃が何か言いたそうにしていたが、俺は聞き流した。
---
しばらくして、台所から愛乃の声が聞こえた。
「できたよー!」
リビングに戻る。
低いテーブルには、すでに夕食の準備が整っていた。
中央には卓上コンロ。
その上には、大きな鍋が置かれている。
湯気がゆっくりと立ち上っていた。
肉と野菜、きのこ、それにだしの香り。
「蓮くん、座って」
愛乃の母親が手招きする。
「今日は一緒に食べていってね」
「ありがとうございます」
「これだけ手伝ってもらったんだもの。お腹を空かせたまま帰すわけにはいかないでしょう?」
「それなら、遠慮なく」
「ふふ。どうぞ」
俺は席についた。
向かいには愛乃が座る。
鍋を覗き込みながら、愛乃が言った。
「もう食べられるかな?」
「まだよ」
母親が肉を箸で軽く動かす。
「あと少し」
「えー……」
「さっきから何度目?」
「だって、お腹空いてるんだもん」
「もう少しだけ待ちなさい」
「はーい……」
俺は二人のやり取りを眺めていた。
こういうのが普通の家の夕食なのだろう。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
数秒後、一人の男性が部屋に入ってくる。
愛乃の父親だろう。
背が高く、がっしりとした体格。
短く整えた髪に、真面目そうな顔つき。
男性は入口で立ち止まり、俺を見る。
静かな目だった。
ただ、こちらをしっかり見ている。
愛乃が少しだけ姿勢を正した。
「お父さん。もう帰ってきたんだ」
「ああ」
男性は俺から目を離さない。
「……こちらは?」
「あ、うん。蓮。前に話したでしょ?」
「そうか」
男性がこちらへ歩いてくる。
俺も立ち上がった。
「初めまして。影山蓮です。よろしくお願いします」
男性が手を差し出した。
「正人だ。愛乃の父親」
俺も手を出して握る。
……強い。
手のひらが大きく、握る力もしっかりしている。
余計なことは何も言わない。
俺も同じくらいの力で握り返した。
数秒。
互いに目を合わせる。
やがて、正人さんが先に手を離した。
「……うん」
それだけ言うと、何事もなかったように席についた。
俺も座る。
隣で愛乃が小さく息を吐いた。
「……ごめんね」
「何が?」
「お父さん、いつもあんな感じだから」
「別に」
「本当に?」
「うん」
愛乃は少し安心したように笑った。
正人さんが箸を手に取る。
「食べよう。冷めるぞ」
「うん」
「はいはい」
母親が鍋を少し混ぜる。
「じゃあ、いただきましょう」
俺たちは手を合わせた。
「いただきます」
鍋から肉を取り、野菜と一緒に小皿へ入れる。
一口食べる。
あっさりしただしの味に、肉の旨味が加わっている。
野菜も火が通りすぎていない。
普通の鍋料理だ。
でも、うまい。
「どう?」
愛乃がこちらを見る。
「おいしい」
「本当?」
「うん」
「よかった……」
愛乃がほっとしたように笑う。
「蓮くん、口に合ったみたいでよかったわ」
「はい。すごくおいしいです」
「それならたくさん食べてね」
「ありがとうございます」
正人さんは黙々と食べていた。
時々、こちらに視線を向ける。
俺も気づいてはいたが、特に気にしなかった。
しばらくして、正人さんが口を開く。
「蓮くん」
「はい」
「愛乃とは、長い付き合いなのか?」
「いえ。まだそんなに長くは」
「そうか」
少し間を置いて、また聞く。
「学校は同じなんだな?」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
質問は少ない。
ただ、聞かれたことにはきちんと答える。
それで十分だろう。
食事が進むにつれて、少しずつ会話も増えていった。
母親が今日あったことを話し、愛乃がそれに突っ込む。
正人さんは時々短く相槌を打つだけだった。
俺も時々会話に加わる。
気づけば、最初よりずっと普通の食卓になっていた。
しばらくして、俺の小皿が空になる。
それを見た愛乃の母親が声をかけてきた。
「蓮くん、もう少し食べる?」
「じゃあ、少しだけお願いします」
「はいはい。遠慮しないで」
母親が肉と野菜を取り分けてくれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「いっぱい食べる子はいいわねぇ」
「お母さん、それ私にも言ってよ」
「愛乃は自分で取れるでしょう?」
「そうだけど……」
「ほら、食べなさい」
「はーい」
愛乃が箸を動かす。
俺ももう一度鍋に箸を伸ばした。
しばらくして、鍋の中身もほとんどなくなった。
俺は箸を置く。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
愛乃の母親が笑う。
「今日は来てくれてありがとうね、蓮くん」
「こちらこそ、ごちそうさまでした」
「またいつでも来てね」
「はい」
愛乃がこちらを見る。
「どうだった?」
「楽しかったよ」
「そっか」
その横で、正人さんがお茶を飲んでいた。
湯飲みを置くと、もう一度俺を見る。
相変わらず真面目な目だった。
けれど、さっきほど硬い感じはしない。
俺も目を合わせる。
正人さんは小さく頷いた。
俺も頷き返した。
それで十分だった。




