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FORGOTTEN STATION  作者: 橘


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 第7章:薄れゆく時間の感覚

 駅を閉ざす濃密な霧は、もはや脅威を孕んだものとしては感じられなかった。それはむしろ、このささやかなプラットホームを外界の喧騒から文字通り遮断し、匿うための強固な境界線のようだった。日和が語った過去、そして橘玲という存在が遺した尊い絵画の記憶。それらは、偶然隣り合わせただけの二人の空気を、静かな受容を伴う親密なものへと変質させていた。

 直哉は長椅子の背後にある駅舎の木壁に、静かに頭を預けた。日和の紡いだ一つひとつの言葉を、胸の奥底でゆっくりと咀嚼していく。溢れ出してくるのは、言葉にできないほどの穏やかな凪だった。あの日々、血を吐くような思いで玲の生きた証を編み上げた自分の涙が、目の前の少女に届いていた。その事実が、直哉の過去のすべてを肯定していた。この静まり返った無人駅は、いつの間にか、彼にとっても立ち去りがたい精神的な救済の場へと姿を変えていた。


 ――ゴト、ゴト。


 その静寂を、コンクリートの底から震わせる微かな地鳴りが侵食した。闇の奥から、鉄輪がレールを噛む冷たい音が近づいてくる。この夜二本目となるローカル列車が、白い霧の壁を押し破り、双眸のような黄色い光で二人の輪郭を白く浮かび上がらせた。


 プシュー、バタン。


 乾いた排気音とともに扉が左右に割れる。車内から溢れ出した暖房の温気が、氷点下に凍てつくホームの空気をわずかに揺らした。誰もいない無人の座席が、外界の日常へ戻ろうとする旅人を静かに待っている。

 直哉は開かれた扉を凝視した。理性的であるべき大人の男としての思考は、今すぐ立ち上がるべきだと告げている。バッグを拾い、あの眩い車内へ足を踏み入れ、静岡のまっとうな日常へ帰還する。この奇妙な夜を終わらせるための、これが二度目の、そして最も合理的な機会だった。

 しかし、肉体は動かなかった。バッグの取っ手を握る指先には、むしろさらに強固な力が込められていく。

 隣を見た。日和は依然として小さく身を縮め、寒さに肩を震わせながら、虚ろな視線を床に落としている。彼女は今、自らの最も深い傷口を開いて見せてくれたばかりだ。ここで自分が立ち去れば、彼女を再びあの底なしの孤独の淵へ突き落とすことになる。いや、それ以上に――直哉自身の内側が、ここに留まることを切望していた。自分が愛した人の記憶が、この見知らぬ少女の中でどのように生き続けているのか、もっとその声を聴いていたかった。


「……乗らなくて、いいの?」

 電車のアイドリング音が響くなか、日和が迷うような声を絞り出した。

 直哉は視線を線路に向けたまま、静かに口元を綻ばせた。

「次の電車なら、またそのうち来るさ。それに、あんたをこんな寒い場所に一人きりで残していったら、話の続きが聞けなくなるだろ」


 ピ、ピ、ピ、ピ。


 扉の閉鎖を告げる電子音が鳴り響き、ハイドロリックの重い排気音とともに扉が合わさった。鉄の塊はゆっくりと加速し、またたく間に濃霧の向こうへと溶けていく。尾灯の赤が消え去り、ホームには再び冷徹な静寂が戻ってきた。


 しかし、二本目の列車を見送ったその瞬間から、駅を包む空気が明らかに傾ぎ始めていた。

 直哉は、強烈な睡魔が不自然なほどの質量を持って、己の意識を急襲してくるのを自覚した。一日の労働による通常の疲労とは明らかに異なる、指先から感覚を奪っていくような麻痺の感覚。違和感を覚えて手首のアナログ時計に目を落とすと、秒針の刻むリズムが不気味に歪んでいた。ある時は狂ったように走り、次の瞬間には粘つくように遅くなる。あたかも、時間という概念そのものがその輪郭を失い、崩壊していくかのように。


 周囲の霧もまた、不穏な対流を始めていた。風もないのに、白い澱みは彼らの足元から這い上がり、靴を、そしてスラックスの裾を音もなく呑み込んでいく。二人の肉体は、自覚のない冷徹な麻痺のなかに、確実に囚われつつあった。


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