第8章:思い出せない名前
二本目の列車が去ったあとの静寂は、先ほどよりも遥かに冷徹だった。直哉の身体を侵食しかけていた不自然な睡魔は、まっとうな理性を脅かすその不気味な違和感によって、次第に掻き消されていった。彼は何度か頭を振り、思考の内にまで這い込もうとする泥のような霧を強引に追い払う。
直哉は隣に座る日和へと視線を向けた。先ほどの会話で胸に灯った凄烈な熱は、まだ彼の内側で脈打っている。あの物語の続きを、彼女の唇からもっと聴きたかった。自分がずっと孤独な傷痕として背負ってきたあの人の名前が、彼女という他者の口から祝福のように響く瞬間を、この耳で確かめたかった。
「あんた」
直哉は、努めて平穏な、しかし内なる焦燥を隠しきれない声で切り出した。
「さっき、その女性漫画家に救われたって言っただろ。あんたがずっと憧れていた、その『あの人』の本当の名前を、教えてくれないか」
日和は答えるために、反射的に唇を戦がせた。それは彼女にとって、あまりにも馴染み深い名前のはずだった。東京の狭い四畳半で、机の上の白紙の原稿を前にするたび、心の中で幾度となく唱え、縋りついてきた唯一の文字列。
しかし、音節は形を成さなかった。
日和は凍りついたように動きを止めた。双眸が激しく小刻みに震え始める。彼女は何度も瞬きを繰り返し、脳の最深部に刻まれているはずのその符号を手繰り寄せようとした。だが、意識の奥底の書棚は、唐突にがらんどうの空白へと変わっていた。まるで、大切な頁のインクが、雨に打たれて一瞬で融け落ちてしまったかのように。
「名前……その人の、名前は……」
日和は掠れた声で呟いた。その響きには、突如として足元を奪われた者の生々しい困惑が混じっている。
彼女は強引に記憶の底を暴こうとした。しかし、その名前に手を伸ばそうとする度、凄まじい頭痛がこめかみの奥を直撃した。頭蓋の内側が激しく脈打ち、鋭い拒絶の痛みが、その記憶が意識の表面へ浮上することを力任せに圧殺してくる。
「嘘……なんで? どうして私は……」
日和は両手で自らの頭を抱え込んだ。指先が乱れた髪を強く毟り、脳髄を蹂躙する苦痛と焦燥に、彼女の呼吸はみるみる荒くなっていく。
「知ってる、知ってるはずなのに! 部屋には、あの人の本が全部ある。あの一冊が私を……なのに、なんで頭の中が真っ白なの!?」
日和の肩が激しく上下した。血の気を失っていた顔は、いまや恐怖によって土気色に変色している。この名前もなき駅という「停滞の結界」へ深く沈溺しすぎた代償として、そして現実のすべてを拒絶した彼女の精神の防壁が限界を迎えたことで、彼女の輪郭そのものが、世界の側から消去されようとしていた。
その急激な崩壊を目の当たりにして、直哉は長椅子のうえで息を呑んだ。
「おい、落ち着け。無理に思い出そうとするな」
直哉の声に明らかな動揺が走る。日常の側に踏みとどまっている彼の理性は、目の前の少女が、いま致命的な精神の淵に立たされていることを瞬時に看取した。日和は単に疲弊しているのではない。この死んだ駅が差し出す甘美な「忘却」と引き換えに、彼女は自らを生かしていた最も重要な動機そのものを、文字通り剥ぎ取られようとしているのだ。
「嫌だ……嘘だよ。私を、私にしてくれた人の名前を忘れるなんて、そんなわけない!」
日和は喉の奥で嗚咽を漏らし、その瞳から大粒の涙が零れ落ちて、強張った手の甲を濡らした。足元からせり上がってくる夜霧が、彼女の膝を浸食していく。この最果ての闇の中で、日和は自分が問題から逃げてきたのではなく、自分という存在の根拠そのものを永久に失いかけているという、本当の絶望に直面していた。




