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FORGOTTEN STATION  作者: 橘


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 第6章:かつて憧れた「あの人」

 静まり返った無人駅の空気は、凍てつくような拒絶から、どこか張り詰めた痛みを融かすような、穏やかなカタルシスの器へと変貌を遂げていた。直哉の言葉は、日和の硬直した輪郭を優しく解きほぐし、外の世界が強いる過酷な要求から一時的に身を退くための、目に見えない許可証のように機能していた。再び訪れた二人の間の沈黙は、しかし、先ほどまでのそれとは異なり、微かな熱を孕んでいる。

 日和は、夜気によって白く血の気を失った己の両手を見つめた。長い拒絶の時間のあと、彼女は再び唇を開く。それは現在の絶望ではなく、彼女の奥底に眠る、かつて最も大切だった記憶の断片を手繰り寄せるための呟きだった。


「私……最初から、書くことが嫌いだったわけじゃないの」


 日和の視線は霧の向こうの闇へと彷徨っていた。まるで、数年前の遠い記憶の頁を捲るかのように。

「あの狭いアパートの壁に追いつめられて、編集者の言葉に怯える前は、私にだってどうしても書きたい理由があった。とても、綺麗な夢があったの」

 直哉は膝の上のビジネスバッグの位置を静かに直し、彼女の言葉のすべてを網膜に刻みつけるように、一言も挟まずに耳を傾けた。


 日和の白い横顔に、この夜初めての、微かな、しかし確かな微笑みが浮かんだ。

「一人の、女性の漫画家がいたの。直接会ったことも、話したこともないけれど、彼女の描く物語が……学生時代の、一番底のほうにいた私を救ってくれた。その人が紡ぐ言葉と、ペン先に込められた圧倒的な感情が、私の狭苦しかった世界を、一瞬でどこまでも広い場所に変えてくれた。それ以来、私にとって、その人はずっと特別な『あの人』だった」


『あの人』という響きが霧の中に溶けた瞬間、直哉の指先が、バッグの取っ手を握る手に微かな、しかし明確な戦慄を伝えた。彼は沈黙を維持したが、その眼差しは鋭く研ぎ澄まされ、日和の唇から零れ落ちる音節の一つひとつに集中された。


「何よりも私の心を震わせたのは、その作品が生まれた背景だった」

 日和の声に、先ほどまではなかった微かな熱が宿り始める。そこには、純粋な敬意が満ちていた。

「彼女の最大にして最後の遺作は、その人がこの世界から消えてしまったあとに、ようやく一冊の本として形になったの。本の巻末にある編集後記を読んだ。そこには、彼女を愛していた周囲の人たちが、その記憶を絶対に風化させまいと死に物狂いで闘った軌跡が書かれていた。遺された歪な草稿の束を一枚ずつ掻き集めて、出版社に頭を下げて、戦って、読者の手元まで届けたの」

 日和は深く息を吸い込み、潤んだ瞳で無人の鉄路を見つめた。

「その事実を知ったとき、胸が張り裂けそうなくらい感動した。私も、そんな風に、誰かの心を震わせる大切な何かを形にしたいと思った。あの人の遺した本から貰った温もりを、今度は私の文字で、誰かへ繋いでいきたかったの。それが、私の始まりだった」


 静寂が、より深い質量を持ってホームを支配した。

 直哉は長椅子のうえで完全に凝固していた。全身の血流が激しく脈打ち、心臓が爆発的な律動を刻み始める。

 彼女がその固有の名を口にしなくとも、誰のことを語っているのか、直哉には痛いほどに理解できた。遺された最後の傑作、この世を去った女性漫画家、そしてそれを世に出すためにすべてを賭した人間の存在。

 ――それは、橘玲(たちばな れい)のプロジェクトに他ならない。

 いま、この目の前で燃え尽き果てた少女が、生涯の憧れとして語っている一冊の本は、数年前、直哉自身が血の滲むような日々の中で、涙とともに編み上げた、あの追悼集そのものだったのだ。


 直哉の胸の奥底から、言語化できないほどの巨大な震えがせり上がり、指先の端々まで熱となって駆け巡った。

 これまで直哉は、玲の記憶を自分一人で背負い、ただ彼女の存在が己の中で風化しないように守ることだけが、自らに課せられた使命だと信じて生きてきた。しかし、この真夜中、静岡の最果てにある無人駅で、世界に絶望した見知らぬ少女が、直哉のあの日々の闘いは無駄ではなかったと告げていた。

 玲の生きた証は、霧を越え、時間を越えて、一人の人間へ確実に届いていたのだ。彼女の遺産は、別の誰かの命を動かす原動力となっていた。


 直哉はバッグのうえで両手を固く握り締め、内側から溢れ出そうとする凄烈な感情の波を必死に抑え込んだ。そして、日和へと視線を向ける。その瞳には、今や底知れないほどの深い感謝の念が灯っていた。

「そうか……」

 直哉の声は微かに掠れていたが、驚くほど穏やかで、優しかった。

「あんたは、彼らの闘いがあったから、自分も創ることを選んだんだな」


 日和は静かに首を縦に振ったが、現実の重みが再び縫い目を塞ぐように、その表情はすぐに翳っていった。

「うん。でも、今の私を見てよ。結局、競争に耐え切れなくて、途中で勝手に壊れて、ここに逃げてきた。あの人の本を読んだときに誓ったはずの夢を、私は自分の手で裏切っちゃったの」

 直哉は、ゆっくりと、しかし断固とした否定を込めて首を横に振った。その瞳には、揺らぐことのない、確かな光が宿っていた。

「違うよ。あんたは何も裏切っていない」

 直哉は、目の前の震える肩を包み込むように言葉を紡いだ。

「こんな凍えるような世界の片隅で、その温もりをまだ覚えているということ自体が……あんたの夢がまだ死んでいない証拠だ。ただ、少しだけ疲れ果てて、雪の下に隠れているだけだよ」


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