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FORGOTTEN STATION  作者: 橘


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 第5章:世界の冷たさと、そこからの逃避

 夜霧はさらにその密度を増し、ホームの屋根を支える古びた柱の輪郭さえも曖昧に塗り潰していった。駅という空間がどこまでも狭まり、世界から完全に切り離されていくような錯覚。列車の去ったあとの静寂は先ほどよりも深かったが、二人の間に漂っていた刺々しい空気は、音もなく形を変え始めていた。直哉がここに留まるという選択をしたことが、日和の周囲に、目に見えない小さな安息の領土を作り出していた。

 日和は浅い呼吸を繰り返し、山あいの冷徹な空気を肺に満たしてから、ぽつりと唇を開いた。


「外の世界は……速すぎる」


 その声はひどく細く、夜風の囁きに今にも掻き消されそうだった。

「誰も彼もが走ってる。一秒でも立ち止まって息を抜こうとしたら、世界は背中から踏みつけて、振り返りもせずに進んでいっちゃう」

 直哉は何も言わなかった。沈黙を差し出すことで、彼女の言葉の続きを静かに促した。


 日和はうつむき、移動の泥に汚れた自分の靴先を見つめた。

「東京で、小さな出版社から仕事を請けて、ずっと描いてた。原稿が足りないなんてことは一度もないのに、いつも時間だけが足りなかった。毎日が締め切りと、改稿と、競争。あそこでは、脱落することは許されない。何週間も睡眠を削って削り出したネームが、担当の一言でゴミクズみたいに突き返されるたび、自分の存在そのものを否定されたような気持ちになる」

 スカートのポケットに突っ込まれた日和の両手が、布越しにもわかるほど強く握り締められた。

「もう、自分を証明し続けることに疲れたの。誰かと競うことにも。……昨日の夜、パソコンの画面のなかで、カーソルが何時間も明滅してるのをただ見てたら、頭のなかで何かがパチンと弾けた。あの狭いアパートの壁に押し潰されそうになって、東京のあらゆる音が耐えられなくなった」


 日和は長く、白い息を吐き出した。それに合わせて両肩の力が衣服の重みとともに抜け、彼女がずっと内側に鍵をかけて閉じ込めていた重圧が、少しだけ外へと漏れ出したようだった。

「だから、逃げ出したの。行き先なんてどこでもよかった。電車の窓からこの死んだような駅が見えたとき、わかったの。ああ、ここが私の場所だ、って。時間が止まっていて、誰からも何者であることも求められない場所」


 直哉は、隣の女が吐き出す剥き出しの告白を、一言も聞き漏らさぬよう静かに受け止めていた。話を遮ることも、ましてや『明けない夜はない』とか『頑張っていれば報われる』といった、空虚な手垢のついた慰めを口にすることもなかった。かつて、大切な『玲』という存在を喪い、世界そのものが瓦解するような痛みを経験した彼だからこそ、傷口を抱えた人間が求めているのは、ただその存在をそのまま肯定されることだけだと、痛いほど理解していたのだ。

 直哉は、埃の積もった庇の天井を見上げた。

「自分の歩調で歩きたいだけの人間に、あの街は優しく作られていないからな」

 その声は、夜の闇に深く馴染む大人の落ち着きを湛えていた。

「自分を見失うまで磨り潰されるのがどれほど苦しいか、俺にも少しはわかるよ」

 日和はわずかに顔を巡らせ、直哉の横顔を見つめた。「君も……逃げ出したくなったことが、あるの?」


 直哉は薄く笑った。それは、遠い過去に負った傷痕がようやく乾き、時を経て穏やかな形に変わった者だけが浮かべられる、大人の微笑みだった。

「昔ね。自分の世界が完全に終わってしまって、この先へ進む意味なんてどこにもないと思った時期があった。でも、俺は運が良かったんだ。輪郭を保ったまま歩き続けるための理由を、その傷跡と一緒に、なんとか見つけることができたから」

 直哉は視線を戻し、日和の光を失った瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その眼差しは、夜霧の冷たさを撥ね退けるように温かく、揺るぎなかった。

「こんな寂しい駅に逃げてくることは、少しも間違っていないよ。君の身体が、無理に走らされ続けたあとに、当然の休息を要求しているだけだ。だから、今夜はここに座ったままでいい。この場所は、君がまたどこへ歩き出すかを決めるまでの、ただのささやかな待合室だよ」


 ここ数ヶ月の間、日和の胸をきりきりと締め付けていた目に見えない鉄の輪が、ほんの少しだけ緩んだような気がした。何一つ糾弾することなく、ただ隣でその重みを受け止めてくれる男の存在が、彼女の凍てついた心の防壁を、外側から静かに融かし始めていた。


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