第4章:見送った一本目の列車
女の短い答えは湿った夜気の中に漂い、二人の間には再び静寂が這い寄ってきた。直哉は、青白い蛍光灯に照らされた日和の横顔を盗み見る。そこには奇妙な不調和があった。彼女の衣服は紛れもなく大都市の営みの一部であることを示しているのに、この最果ての無人駅が持つ異常な静けさに、その存在が驚くほど深く溶け込んでいるのだ。
直哉は自嘲気味に、鼻から抜けるような小さな笑い声を漏らした。
「真夜中に、手ぶらでこんなところへ降りるなんてな」
直哉は長椅子のうえで姿勢を正し、真っ直ぐに伸びる鉄路を見つめた。
「あんた、ただ寝過ごしただけの男より、よっぽど訳ありに見えるよ」
日和からの返答はなかった。彼女はただ膝を少しだけ引き寄せ、寒さで赤く強張り始めた指先をスカートの隙間に深く隠した。知り合ってわずか五分の見知らぬ男に、己の内実を切り売りして説明する必要など、今の彼女には微塵も感じられなかった。
――ゴト、ゴト、ゴト。
不意に、鉄の震えが二人の沈黙を破った。前方から足元へと、冷たいレールの振動が伝わってくる。
それはやがて、遠くから響く重苦しいディーゼルエンジンの唸りへと変わり、山あいを遮断していた濃霧を縦に切り裂いた。二条の黄色い前照灯が白い霧の障壁を透過し、それまで死んでいたホームをにわかに照らし出す。霧の向こうから現れたのは、二両編成の短いローカル列車だった。それは速度を落としながら滑り込み、二人が座る長椅子の真ん前で静かにその身を止めた。
プシュー、と。
排気音とともに、扉が自動で左右に開く。
開かれた車両の内側は眩いほどに明るく、ホームの凍てつく暗闇とは対照的な、圧倒的な暖気を放っていた。車内に人影はない。おそらく夜間の線路点検を兼ねた回送か、あるいは早朝の始発に向けて送り込まれた臨時の車両なのだろう。
直哉は反射的に立ち上がっていた。右手には、すでにビジネスバッグの取っ手が握られている。これこそが、日常へと帰還するための切符だ。静岡の、見慣れた安穏な自宅へ帰り、この奇妙に張り詰めた夜の記憶を眠りの底へ葬り去るチャンスだった。
しかし、彼が黄色い点字ブロックを越えようとしたその刹那、視線が自然と日和の足元へと落ちた。
女は、一ミリたりとも動いていなかった。
長椅子の端で小さく身を縮めたまま、完全に生気を失った瞳でコンクリートの床を見つめ続けている。車内から溢れ出す温かな光が彼女の身体を半分だけ白く染めていたが、日和はその鉄の塊がそこに存在しないかのように振る舞っていた。彼女は自ら、この凍えるような暗闇に留まることを選択していた。
直哉の足が、ホームの黄色い線の内側で完全に停止する。
今ここで自分がこの列車に乗り込めば、上着すら持たないこの女は、電波も届かない死んだ駅にたった一人で取り残されることになる。その精神状態が、極めて危うい境界線の上に立っていることは火を見るより明らかだった。
かつて、自らも身を切られるような激しい喪失の底を這いずり回った大人の男として、直哉は痛いほど知っていた。人間が本当の意味で世界のすべてを諦めてしまうとき、その傍らに誰もいないということが、どれほど決定的な絶望であるかを。
ピ、ピ、ピ、ピ。
電子音が鳴り響き、扉の閉鎖を予告する。
直哉は開かれた車内を見つめ、それからもう一度、長椅子の女へと視線を戻した。
白く濁った長い溜息を夜気へと吐き出し、直哉はゆっくりと身体を反転させた。彼は開かれた日常の誘惑に背を向け、元の長椅子へと戻って腰を下ろす。そして、手に持っていたビジネスバッグを、諦念とともに足元のコンクリートへと置いた。
プシュー、バタン。
重々しい音を立てて扉が閉ざされる。警笛を鳴らすこともなく、鉄の塊は再び動き出し、濃密な霧の向こうへとその姿を消していった。尾灯の微かな赤色が闇に呑まれて完全に消滅するまで、そう時間はかからなかった。
駅は、元の冷徹な静寂へと逆戻りした。
日和がわずかに首を動かし、隠しきれない当惑の光をその瞳に宿して直哉を凝視した。
「なんで……乗らなかったの。あれ、街へ戻る電車なのに」
直哉は古い木製の背もたれに深く背中を預け、再び忍び寄る冷気に耐えるように両腕を胸の前で組んだ。
「さあな」
闇の中で、直哉の声だけが妙に落ち着いた響きを持って響いた。
「こんな凍えるような場所に女一人を残していったら、明日の寝覚めが最悪になりそうだからな。それに……あんたにとっても、あの冷たいレールを凝視し続けるよりは、俺の退屈な話でも聞いているほうが、いくらかマシだろ?」
日和はその言葉を受け止め、一瞬だけ言葉を失った。
初めて、その光を失っていた瞳が直哉の顔を真っ直ぐに射す。この真夜中の、世界の果てのような静寂の中で、目の前の見知らぬ男が一体どんな意図を持って自分の隣に留まったのか、その輪郭を測りかねているようだった。




