↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
FORGOTTEN STATION  作者: 橘


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/18

 第3章:見知らぬ二人、静寂の中で

 寒さが、容赦なく骨の奥まで染み込んできた。

 直哉は幾度目かもわからない仕草でコートの合わせ目を強く引き寄せたが、山あいの湿った冷気は、何枚もの衣服の層など存在しないかのように容易く皮膚を侵していく。腕時計の文字盤に視線を落とす。最終列車がその息の根を止めてから、まだ三十分しか経っていない。この駅に滞留する時間は、都会のそれとは明らかに異なる歪んだ歩みをしていた。濃密さを増していく霧のなかで、ただ静寂だけがだらしなく引き延ばされていく。


 ――コツ。


 微かな硬い音が、ホームの静寂に小さな亀裂を入れた。

 直哉は息を潜め、耳の奥の神経を研ぎ澄ます。先ほどまで脳髄を支配していた時計の秒針の音が、反対側のホームの端から聞こえてきた新しい律動によって塗り替えられていく。


 コツ。コツ。コツ。


 それは、間違いなく足音だった。しかし、帰路を急ぐ東京のサラリーマンたちが見せるような、あの直線的でせわしない歩調ではない。地面を引きずるように遅く、重く、あらゆる生気を剥ぎ取られたような足取り。まるでその人物は、目に見えない巨大な重力に両肩を押し潰されているかのようだった。


 白く濁った霧の障壁の向こうから、ひとつの不確かな輪郭がゆっくりと立ち現れてくる。

 直哉は長椅子のうえで無意識に上体を硬直させ、膝の上のビジネスバッグの取っ手を強く握り締めた。夜中に、このような人気のない無人駅で見知らぬ他者と遭遇するという事態は、同じように迷い込んだ同胞か、あるいは明確な悪意を持った何者か、そのどちらかでしかない。

 点滅を繰り返す頼りない蛍光灯の光が、近づいてくるその影のディテールをようやく捉えた。


 女だった。


 上着も羽織らず、冷気に晒された衣服はひどく皺が寄っている。髪はわずかに乱れ、鞄やそれに類する手荷物は一切持っていなかった。両手は、オフィスカジュアルのスカートのポケットに深く突き刺されている。

 だが、直哉の目を最も強く引いたのは、その顔立ちそのものではなく、彼女が宿している「目」だった。整った輪郭のなかに嵌め込まれたその瞳には、光と呼べるものが完全に失われていた。夜気に打たれて血の気を失った白い肌のまま、ただ真っ直ぐに前方を見つめている。その視線にとって、周囲の風景も、そこに座っている直哉という人間の存在も、等しく意味を持たない空虚な幻灯に過ぎないかのようだった。

 彼女の全身から漂う、すべてを摩耗し尽くした「燃え尽き」の気配はあまりにも色濃く、それは直哉にかつて世界を諦めてしまった者たちが浮かべていた、あの救いのない眼差しを思い出させた。


 女は直哉の前で足を止めることはなかった。まるでそこに生命体など存在しないかのように、長椅子の前を通り過ぎていく。

 三メートルほど行き過ぎたところで、唐突にその足音が途絶えた。彼女は機械的な緩慢さで身体を反転させると、直哉が座る同じ木のベンチの、最も離れた端の境界にその身を落とした。二人の間には、不自然なほどの空白が取り残される。

 背もたれに深く背中を預け、霧に隠された鉄路を見つめながら、女は長く、深い息を吐き出した。ひび割れた唇から、細い白濁した熱が夜気へと溶けていく。


 再び訪れた静寂は、先ほどまでのそれよりも遥かに居心地が悪く、張り詰めていた。直哉は小さく咳払いをし、凍りついた空気を強引に動かそうと試みる。真夜中の山奥、上着すら持たない軽装の女を目の前にして、まっとうな理性を残した大人の男が沈黙を守り続けることは、むしろ不自然に思えた。

 直哉は、同じ不運に見舞われた旅人に声をかけるような、気安い調子を選んで口を開いた。


「あんたも……最終で寝過ごしたクチ?」


 蘭香日和は、すぐには言葉を返さなかった。

 直哉の投げかけた問いは、霧のなかに吸い込まれるようにして、静かに霧散していく。日和は、首を動かすという行為そのものに膨大なエネルギーを要求されているかのように、ゆっくりと顔を巡らせた。光のない瞳が直哉を捉え、一度だけ、時間をかけて瞬きをする。

 その瞳の奥に、極めて微小な驚愕の光が明滅した。自分をこの世界の辺境に幽閉してから、一体どれほどの時間が経ったのだろう。業務の催促でもなく、人生の競争を強いるものでもない、ただの「まっとうな人間の声」を聞いたのは、いつ以来のことだったか。

 日和は直哉の隙のないスーツ姿に目を落とし、それから彼が大切そうに抱え込んでいるビジネスバッグへと視線を移した。その瞬間、彼女は理解した。目の前にいる男は、自分がつい先ほど激しい嫌悪とともに決別してきた世界――あの、人間を磨り潰していく労働という名の日常の、断片であるということを。


「違う」

 日和の声は、掠れていて、ひどく細く、そして冷たかった。

「私は、ここで降りたくて降りたの」

 彼女は再び、興味を失ったように視線を無人の線路へと戻した。

「君のほうこそ……乗る電車を間違えたんじゃない?」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。