第2章:名もなきホームの違和感
プシュー、というハイドロリックの湿った排気音が、濃密な夜の静寂を鋭く引き裂いた。
直哉は凍てつく外気へと足を踏み出す。革靴の薄い底を通して、コンクリートの床から刺すような冷気が這い上がってきた。真夜中の、山あいのものと思われる冷徹な空気が容赦なく肌を刺す。直哉は膝の上の鞄をさらに強く抱きすくめ、ビジネスコートの襟をかき寄せた。
振り返ると、遥か前方、先頭車両のあたりに微かな人影が見えた。乗務員がこの最終列車の運行を終え、主要システムを眠らせる準備をしているのだろう。あまりの距離に、声をかけることすら躊躇われた。
直哉は、ホームの端にそびえる駅名標の方へと歩を進めた。
目を細める。枠の上に取り付けられた小さな蛍光灯が、不規則に明滅しながら不快な高周波を放っていた。経年と湿気、そして見捨てられた時間の長さを物語るように、アクリル板の文字は無残に剥がれ落ちている。漢字の輪郭は完全に崩れ、もはや一つの地名すら判読できない。そこは文字通り、名前を奪われた「名もなき駅」だった。
ひゅう、と。
駅を囲む山々の闇から、湿った夜風が吹き抜けた。それに応じるように、白い霧の塊が境界線を越えて侵入してくる。
霧はまたたく間に足元を侵食し、錆びついた鉄路を覆い、ホームの端を視界から奪い去っていった。背後では、先ほどまで乗っていた車両の明かりが、前方から順にぷつんと消灯していく。温かみのあった空間は、一瞬にして巨大な鉄の死骸へと姿を変え、明朝の始発まで深い眠りについた。
直哉は焦燥を誤魔化すようにコートのポケットを探り、スマートフォンを取り出した。デジタルマップで現在地を確認するか、あるいはタクシーを呼ぶための手段を確保したかった。
冷たい液晶の光が、自分の顔を白く照らし出す。しかし、画面の右上、いつもなら並んでいるはずの電波の格子は一本も立っていなかった。そこにはただ、『圏外』の二文字が無機質に浮かんでいる。
直哉は深く息を吐き出した。白い口腔の熱が、夜気の中で霧となって霧散する。
「静岡の山奥ってのは、一本入るだけでこれだからな……」
合理的な理屈を自分に言い聞かせ、乱れかける動悸を宥めた。日本の山間部において、こうした無人駅は珍しくない。携帯電話の電波が途絶えることも、決して怪異の類ではないはずだった。
静まり返ったホームを歩き、改札口か駅舎らしき建物がないか探した。
コツ、コツ、コツと、硬い足音がコンクリートに反響して不気味に響き渡る。
やがて見つかった駅舎は、歳月によって黒ずんだ古い木造の代物だった。引き戸は内側から固く閉ざされ、自動券売機もなければ、待合室を温める灯りもない。当然、人の気配など微塵もなかった。この場所は、太陽が昇るその時まで完全に死に絶えているのだ。
建物の外壁に、歪んだ時刻表が貼り付けられているのが見えた。
光量を落とし始めたスマートフォンの画面をかざし、数字の羅列に目を凝らす。静岡方面へ戻る上りの始発列車は、午前五時十五分。それはつまり、この凍えるような静寂の中で、あと五時間近くも一人で耐え忍ばねばならないことを意味していた。
深い霧に閉ざされた駅の外へ出たところで、土地鑑のない夜道を彷徨うのは自殺行為に等しい。ホームへ戻るのが最善の選択だった。
直哉は、簡素な庇の下に置かれた古びた長椅子へと歩み寄った。木製の座面は夜露を吸って、じっとりと濡れている。ポケットから取り出したティッシュペーパーでその水分を雑に拭き取り、腰を下ろした。
ビジネスバッグを隣に置き、かじかむ両手を合わせて息を吹きかける。微かな温もりを求める、惨めな仕草。
駅は、静かだった。あまりの静寂に、自分の手首で時を刻むアナログ時計の秒針の音が、脳髄に直接響くかのように大きく聞こえた。夜虫の鳴き声も、周囲の木々が擦れ合う葉音すらない。ただ、濃密な霧だけが音もなく対流し、彼を外界の喧騒から完全に隔離していた。
理性的な大人として、直哉はパニックに陥ることを拒絶した。これは単なる、過労がもたらした些細な不運に過ぎない。目を閉じ、寒さに耐え、夜明けを待てば済む話だ。
しかし、胸の奥底で、奇妙な予感が小さく身を震わせた。
――まるでこの静まり返った駅が、現実の摩耗から彼を匿うために、意図してここへ招き入れたのではないか、というような。




