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FORGOTTEN STATION  作者:


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 第1章:静岡行きの最終列車

 金曜日の夜、東京駅が纏う喧騒には、いつも決まり切った律動がある。

 大理石の床を刻む、急ぎ足の靴音。スピーカーから絶え間なく流れ落ちる、低く濁った発車アナウンス。駅弁の出汁の匂いと、プラスチックのカップから立ち上る珈琲の熱い香りが、湿った空気に混ざり合っていた。長い一週間を終え、帰路を急ぐ群青色の背中が波打つなかを、一ノ瀬直哉はどこか他人事のような足取りで歩いていた。

 急ぐわけでもなく、かといって遅れるでもない。

 その内側は、奇妙なほど凪いでいた。

 東京での日々は、概ね平穏に、そして規則正しく過ぎている。かつて胸を激しく揺さぶったあの嵐が去ってから、もう何年になるだろう。喪失の傷痕が消えてなくなったわけではない。けれど直哉は、鞄の底に大切な記憶を仕舞い込んだまま、それでも前を向いて歩く術をいつの間にか身につけていた。

 すべては、受け入れた現実のうえに成り立っている。


 東海道本線、静岡行きの普通列車に足を踏み入れた。

 車内は、疲弊した勤め人たちの熱気で満ちていたが、運良く窓際の席を確保することができた。直哉は革のビジネスバッグを膝に抱え、両腕でそれを包み込むようにして背もたれに身を預ける。

 列車が滑り出すと、窓の外の東京がゆっくりと後方へ剥がれ落ちていった。ガラス越しに見る高層ビルの群れは、夜の帳を鋭く切り裂く光の帯となって明滅している。

 小さく、息を吐き出した。

 肩のあたりに、一日の労働を終えた者が等しく覚える、心地よい怠さが伝わってくる。しかし、かつてのような抉られるような空虚さはない。そこにあるのは、ただ、静かで温かい追憶の残り火だけだった。

 腕時計の文字盤に目を落とす。静岡まではまだ長い。肉体は、自覚している以上に休息を欲していた。


 鉄輪がレールを叩く音が、一定の周期で鼓膜を震わせる。

 ガタゴト。ガタゴト。

 冷房の微かな唸りと、その規則正しい振動は、次第に意識を揺り籠のように侵食していった。直哉の瞼が重くなる。一度、二度と視界が閉じかけ、電車の揺れに我に返るのを繰り返す。

 いくつもの駅が、音もなく通り過ぎていった。停車するたび、一人、また一人と乗客が吐き出され、都会の気配が薄れていく。列車が中心部から遠ざかり、郊外の静寂へと深く潜り込むにつれて、車内の密度はみるみる下がっていった。

 直哉は膝の上の鞄をもう一度、抱きすくめるようにして位置を直した。中にある大切なもの――どこへ行くにも手放さずにいる、あの厚手の一冊の存在を確かめるように。

 ガタゴト。ガタゴト。

 抗いきれない睡魔が、ついに思考の輪郭を完全に塗り潰した。日々の過労に引き摺り込まれるようにして、深い眠りの底へと堕ちていく。列車が目的の駅を遠く通り過ぎ、夜の最果てへとひた走っていることなど、知る由もなかった。


 ふいに、静寂が訪れた。

 身体がわずかに前方に傾く感覚に、直哉は弾かれたように目を開けた。

 ずっと続いていたレールの振動が、完全に途絶えている。列車は動いていない。床下から響いていたモーターの唸りも、低く落ち着いた呼吸のような音に変わっていた。長時間の停車を告げる、特有の静けさだった。

 何度か瞬きをして、視界に張り付いた眠りの膜を剥ぎ取る。最初はおぼつかなかった焦点を周囲に合わせた瞬間、直哉の輪郭が強張った。

 車内が、妙に静まり返っている。


 先ほどまで並んでいたはずの、くたびれたスーツ姿の乗客たちはどこにもいなかった。がさごそと荷物を弄る音も、誰かの寝息すら聞こえない。左右を見渡しても、青いシートの並ぶ車内には、自分以外の生気が完全に消え失せていた。

 とっくに日付を跨いだ深夜、列車は地方の、そのまた最果ての終着駅に辿り着いていたのだ。自分が眠り貪っている間に、すべての乗客はそれぞれの日常へと降りていってしまったらしい。

 天井の蛍光灯が一度だけ頼りなく瞬き、誰もいない床の上に白い、無機質な光を落とした。直哉は上体を起こし、腕時計を確認する。針はすでに、午前零時を大きく回っていた。

「嘘だろ……乗り過ごしたのか」

 焦燥が、乾いた声を絞り出させる。

 立ち上がり、窓の外の闇へ顔を寄せた。そこには、明るく出迎えてくれるはずの「静岡」の文字も、人の気配もない。ただ、視界の先にあるのは、古びた、見捨られたような狭いホームと、それを厚く覆い尽くしている濃密な夜霧だけだった。

 最終列車は彼を乗せたまま、世界の果てのような、名もなき無人駅へと流れ着いていた。


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