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FORGOTTEN STATION  作者:


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1/3

 プロローグ:燃え尽き症候群の残り香

 雨というよりは、ただ湿った空気が宙に停滞しているだけだった。落ちるべきか、それとも雲のままでいるべきか、測りかねているかのような空模様。

 狭隘なアパートの窓辺に、蘭香日和は佇んでいた。視線の先には、眠ることを忘れた無機質な都市の営みがある。ガラスに覆われた高層ビルの群れが放つ光は、温かくも冷たくもない。ただそこにある。見慣れすぎて、もはや何の情緒も呼び起こさない記号の羅列だった。

 机の上では、ノートパソコンの液晶が虚しく発光している。

 白紙の文書ファイル。

 カーソルが、一定の間隔で明滅を繰り返していた。

 一秒、二秒、三秒。

 それは生きているとは言い難い、ただの機械的な脈動だ。

 何時間前、あるいは何日前から、その鍵盤に触れていないのだろう。最近、時間の輪郭がひどく曖昧になっている。

 わずかに視線を落とした。

 卓上に置かれたままの両手は、どこへ向かうでもなく強張っている。

 思考が結論に達するより早く、肉体が先に理解していた。今夜はもう、何も生まれない。

 書きたい言葉がないのではない。

 どれほど言葉を尽くしても、決して届かないような、そんな無力感だけが肥大していくのだ。

 足元には、印刷されたまま放置されたいくつかの草稿が散らばっていた。

 それは乱雑というほどでもなく、かといって整然ともしていない。

 かつて必死に縋りつき、そして諦めるでもなく、ただ途中で放り出されてしまった骸。いくつかの頁には赤い線が引かれ、別の頁は、最初の一行から先へ進むことすらできていない。

 そのすべてを、日和は暗記していた。

 あまりにも知りすぎていた。

 それが、すべての元凶だったのかもしれない。

 並んだ文字を凝視すればするほど、それが自分の内側から湧き出たものとは思えなくなっていく。


――まだ、上がらないんですか。


 液晶の横で、スマートフォンの画面が短く明滅した。

 通知。担当編集者。

 昨日と同じ。その前日と同じ。おそらく、先週から何も変わっていない文字列。

 日和はすぐには触れなかった。

 読まなくとも、内容は網膜の裏に焼き付いている。

 怒りや叱責ではない。

 ただ、繰り返されすぎて平坦になった事務的な声が、そこにはあった。

『もう一度、改稿をお願いします。市場で戦えるだけの、もっと強いフックが必要です』

 戦う、という言葉。

 それは誰もが口にするありふれた響きなのに、今の彼女にとっては、触れるだけで指先が裂けるような酷薄な刃物だった。


 ようやく指を動かし、画面を開く。

 一度だけ文字を追い、すぐに画面を伏せた。

 暗転。そして静寂。

 しかし、この狭い部屋の静寂は、決して空虚ではない。

 そこには、立ち去ろうとしない過去の残響が、いつも澱のように沈殿していた。


 逃げるように、足音を忍ばせて台所へ向かう。

 調理のためではない。ただ、その場に立っていたいだけだった。

 戸棚を開けると、がらんとした空間にいくつかの即席麺と、飲みかけの水、そして何度も淹れ直して味のしなくなったインスタントコーヒーの瓶が並んでいる。

 手付きの悪いまま、スティックの粉をマグカップに落とした。

 熱湯を注ぐ。

 昨日と同じ。その前日と同じ。もはや記憶の彼方に溶けてしまった、数多の日常と同じ仕草。

 出来上がった黒い液体を、しかしすぐに口に運ぶことはしなかった。

 シンクの脇、冷たい床にそのまま腰を落とし、戸棚の扉に背中を預ける。両手で包み込んだ陶器は、確かに熱を帯びていた。

 熱い。けれど、その熱が皮膚の奥まで浸透してくることはなかった。


――私は、何を追いかけているんだろう。


 声にはならなかった。

 脳裏を過っただけの呟き。それなのに、どんな絶叫よりも重く胸を圧迫する。

 かつては、答えを知っていたはずだった。

 あるいは、知っているつもりになっていただけか。

 昔、ただ一人、自分に文字を書かせる原動力となった存在がいた。その人が紡ぐ物語だけが、この狭苦しい四畳半の天井を、どこまでも広大な世界へと変えてくれた。

 しかし、その名前が思い出せない。

 手繰り寄せようとするほどに、境界線は霞んでいく。

 よく知っているはずの文字が、まったく見知らぬ配列で並んでいるかのように、記憶の網の目からすり抜けていった。


 瞬きをすると、こめかみの奥が小さく脈打った。

 指先で強引にそこを押さえつける。

「疲れたな……」

 乾いた笑いが漏れた。そこには何の感情もない。ただ、久しく忘れてしまったはずの「微笑」という記号を、肉体が痛々しく模倣しているだけだった。


 窓の外で、ようやく本格的な雨が弾ける音がし始めた。

 しかし、その雨音さえも、この停滞した世界を変える兆しには見えなかった。ただ繰り返される日常の、退屈なBGMに過ぎない。


 その日、日和は外へ出なかった。

 パソコンを開き直すこともなく、編集者からの二通目の通知を確かめることもしなかった。

 ただ、座っていた。

 物音ひとつ立てずに。

 時間は音もなく摩耗していく。

 夜の帳が完全に降り、街の灯がいつもより不鮮明に滲むまで。

「今日」と「昨日」を隔てる境界線が、完全に溶けて消失してしまうまで。


 胸の奥の閉塞感が、この狭い壁のなかに収まりきらなくなったとき、日和は唐突に立ち上がった。

 部屋着のままで、鞄すら持たず、行く先などどこにもないまま、玄関の鍵を開ける。

 足が動いたのは、ただの盲目的な本能だった。すべてから逃げ出したいという、それだけの衝動。明滅するカーソルから、編集者の期待から、首を絞め続ける絶望の部屋から。

 夜の冷気に身を晒し、引き摺られるようにして最寄りの駅へと向かう。

 ホームへ滑り込んできたのは、郊外へと向かう各駅停車の鈍行列車だった。日和は考えることを放棄したまま、開いた扉を潜り抜けた。

 この列車が自分をどこへ運ぶのか、そんなことはどうでもよかった。東京から遠ざかることができるなら、どこだっていい。誰もいない場所へ、静かに消えてしまいたかった。

 夜の闇を切り裂いて進むガタゴトという電車の振動のなか、日和は窓ガラスに額を預けた。

 うつろな視線の先で、都会の残光がゆっくりと闇に呑まれていく。

 目を閉じる。現実の境界が曖昧になっていくなかで、彼女はただ、流されていく感覚に身を委ねていた。

 線路の終着点にある、いつか自分の隠れ家となるはずの、うらぶれた無人駅を目指して。


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