プロローグ:燃え尽き症候群の残り香
雨というよりは、ただ湿った空気が宙に停滞しているだけだった。落ちるべきか、それとも雲のままでいるべきか、測りかねているかのような空模様。
狭隘なアパートの窓辺に、蘭香日和は佇んでいた。視線の先には、眠ることを忘れた無機質な都市の営みがある。ガラスに覆われた高層ビルの群れが放つ光は、温かくも冷たくもない。ただそこにある。見慣れすぎて、もはや何の情緒も呼び起こさない記号の羅列だった。
机の上では、ノートパソコンの液晶が虚しく発光している。
白紙の文書ファイル。
カーソルが、一定の間隔で明滅を繰り返していた。
一秒、二秒、三秒。
それは生きているとは言い難い、ただの機械的な脈動だ。
何時間前、あるいは何日前から、その鍵盤に触れていないのだろう。最近、時間の輪郭がひどく曖昧になっている。
わずかに視線を落とした。
卓上に置かれたままの両手は、どこへ向かうでもなく強張っている。
思考が結論に達するより早く、肉体が先に理解していた。今夜はもう、何も生まれない。
書きたい言葉がないのではない。
どれほど言葉を尽くしても、決して届かないような、そんな無力感だけが肥大していくのだ。
足元には、印刷されたまま放置されたいくつかの草稿が散らばっていた。
それは乱雑というほどでもなく、かといって整然ともしていない。
かつて必死に縋りつき、そして諦めるでもなく、ただ途中で放り出されてしまった骸。いくつかの頁には赤い線が引かれ、別の頁は、最初の一行から先へ進むことすらできていない。
そのすべてを、日和は暗記していた。
あまりにも知りすぎていた。
それが、すべての元凶だったのかもしれない。
並んだ文字を凝視すればするほど、それが自分の内側から湧き出たものとは思えなくなっていく。
――まだ、上がらないんですか。
液晶の横で、スマートフォンの画面が短く明滅した。
通知。担当編集者。
昨日と同じ。その前日と同じ。おそらく、先週から何も変わっていない文字列。
日和はすぐには触れなかった。
読まなくとも、内容は網膜の裏に焼き付いている。
怒りや叱責ではない。
ただ、繰り返されすぎて平坦になった事務的な声が、そこにはあった。
『もう一度、改稿をお願いします。市場で戦えるだけの、もっと強いフックが必要です』
戦う、という言葉。
それは誰もが口にするありふれた響きなのに、今の彼女にとっては、触れるだけで指先が裂けるような酷薄な刃物だった。
ようやく指を動かし、画面を開く。
一度だけ文字を追い、すぐに画面を伏せた。
暗転。そして静寂。
しかし、この狭い部屋の静寂は、決して空虚ではない。
そこには、立ち去ろうとしない過去の残響が、いつも澱のように沈殿していた。
逃げるように、足音を忍ばせて台所へ向かう。
調理のためではない。ただ、その場に立っていたいだけだった。
戸棚を開けると、がらんとした空間にいくつかの即席麺と、飲みかけの水、そして何度も淹れ直して味のしなくなったインスタントコーヒーの瓶が並んでいる。
手付きの悪いまま、スティックの粉をマグカップに落とした。
熱湯を注ぐ。
昨日と同じ。その前日と同じ。もはや記憶の彼方に溶けてしまった、数多の日常と同じ仕草。
出来上がった黒い液体を、しかしすぐに口に運ぶことはしなかった。
シンクの脇、冷たい床にそのまま腰を落とし、戸棚の扉に背中を預ける。両手で包み込んだ陶器は、確かに熱を帯びていた。
熱い。けれど、その熱が皮膚の奥まで浸透してくることはなかった。
――私は、何を追いかけているんだろう。
声にはならなかった。
脳裏を過っただけの呟き。それなのに、どんな絶叫よりも重く胸を圧迫する。
かつては、答えを知っていたはずだった。
あるいは、知っているつもりになっていただけか。
昔、ただ一人、自分に文字を書かせる原動力となった存在がいた。その人が紡ぐ物語だけが、この狭苦しい四畳半の天井を、どこまでも広大な世界へと変えてくれた。
しかし、その名前が思い出せない。
手繰り寄せようとするほどに、境界線は霞んでいく。
よく知っているはずの文字が、まったく見知らぬ配列で並んでいるかのように、記憶の網の目からすり抜けていった。
瞬きをすると、こめかみの奥が小さく脈打った。
指先で強引にそこを押さえつける。
「疲れたな……」
乾いた笑いが漏れた。そこには何の感情もない。ただ、久しく忘れてしまったはずの「微笑」という記号を、肉体が痛々しく模倣しているだけだった。
窓の外で、ようやく本格的な雨が弾ける音がし始めた。
しかし、その雨音さえも、この停滞した世界を変える兆しには見えなかった。ただ繰り返される日常の、退屈なBGMに過ぎない。
その日、日和は外へ出なかった。
パソコンを開き直すこともなく、編集者からの二通目の通知を確かめることもしなかった。
ただ、座っていた。
物音ひとつ立てずに。
時間は音もなく摩耗していく。
夜の帳が完全に降り、街の灯がいつもより不鮮明に滲むまで。
「今日」と「昨日」を隔てる境界線が、完全に溶けて消失してしまうまで。
胸の奥の閉塞感が、この狭い壁のなかに収まりきらなくなったとき、日和は唐突に立ち上がった。
部屋着のままで、鞄すら持たず、行く先などどこにもないまま、玄関の鍵を開ける。
足が動いたのは、ただの盲目的な本能だった。すべてから逃げ出したいという、それだけの衝動。明滅するカーソルから、編集者の期待から、首を絞め続ける絶望の部屋から。
夜の冷気に身を晒し、引き摺られるようにして最寄りの駅へと向かう。
ホームへ滑り込んできたのは、郊外へと向かう各駅停車の鈍行列車だった。日和は考えることを放棄したまま、開いた扉を潜り抜けた。
この列車が自分をどこへ運ぶのか、そんなことはどうでもよかった。東京から遠ざかることができるなら、どこだっていい。誰もいない場所へ、静かに消えてしまいたかった。
夜の闇を切り裂いて進むガタゴトという電車の振動のなか、日和は窓ガラスに額を預けた。
うつろな視線の先で、都会の残光がゆっくりと闇に呑まれていく。
目を閉じる。現実の境界が曖昧になっていくなかで、彼女はただ、流されていく感覚に身を委ねていた。
線路の終着点にある、いつか自分の隠れ家となるはずの、うらぶれた無人駅を目指して。




