エピローグ:ちゃんと生きて
朝の澄んだ陽光が車両の窓ガラスを透過し、並んだシートの上に穏やかな暖かさを広げていた。床下から響いていたディーゼルエンジンの重苦しい唸りが、列車の減速に合わせてゆっくりと低音へと落ち着いていく。
直哉が先に目を覚ました。何度か瞬きを繰り返し、嗅ぎ慣れた日常の匂いを胸に吸い込む。電車の空調の気配、朝刊の微かなインクの香り、そして一日の始まりを告げる静岡の清浄な空気。隣では、日和もまた静かに瞼を持ち上げたところだった。昨夜、あの最果ての無人駅で彼女を切り裂いたあの心理的緊張も、パニックも、凄まじい頭痛も、今はもう綺麗に消失している。そこにあるのは、長い眠りのあとに訪れる、まっとうな肉体の疲弊だけだった。
プシュー、バタン。
列車が終着駅である静岡に完全にその身を止めると、鉄の扉が大きく左右に割れた。改札の向こうから溢れる気配は、昨夜の凍てつくような断絶とはあまりにも鮮烈な対比を描き出している。朝の通勤客たちのせわしない靴音、スピーカーから響く明瞭な構内アナウンス、そして、すべてを等しく祝福するように降り注ぐ、まばゆい太陽の光。
二人は並んで車両の外へと足を踏み出し、確かな実在の重みを持つホームのコンクリートをしっかりと踏み締めた。
日和は混雑するホームの中ほどで、ふと足を止めた。彼女は視線を上げ、雲一つない静岡の青空を見つめながら、深く、長く息を吸い込んだ。東京の四畳半で嫌悪し、逃げ出してきたはずの「現実の空気」が、今は肺の奥を優しく満たし、奇妙なほど彼女の心を安らがせている。世界の側から消去されかけていた彼女の輪郭は、今や完全にこの場所に定着していた。もう二度と、あの白い霧のなかに溶けていくことはない。
{C} 二人は急ぐ風でもなく、互いの歩調を合わせるようにして自動改札機を通り抜け、広々とした駅の東口広場へと出た。目の前には、朝の光を浴びてダイナミックに脈動する、まっとうな都市の営みが広がっている。
それぞれが自分の日常へと帰り、再び自らの足で歩き出すその別れの間際、直哉が足を止めた。彼は静かに身体を反転させ、玲の追悼集が眠るビジネスバッグの取っ手を持ち直すと、日和の瞳を正面から真っ直ぐに見つめた。
直哉の口元に、遠い傷痕を抱えた大人の男だけが浮かべられる、穏やかで温かい微笑が刻まれた。その揺るぎない眼差しは、少女がこれから再び厳しい現実へ踏み出していくための、最後の確かな道標だった。
直哉は、静かに、しかし彼女の鼓膜の奥に永遠に消えない楔を残すように、極めて優しい声で告げた。
「ちゃんと生きて」
その短い言葉は、過酷な生存競争の中で常に勝者であれと強いるような、冷酷な要求では決してなかった。それはただ、もう二度と自分を偽って逃げ出さないでほしいという、祈りにも似た願いだった。不器用でも、途中で躓いてもいいから、この冷たくて騒がしい現実のなかで、一歩ずつ自分の足で歩き続けてほしいという、至上の肯定。
日和はその決別の言葉を受け止め、一瞬だけ身体を硬直させた。その双眸にみるみるうちに熱い涙が込み上げてきたが、そこにはもう、あの無人駅の暗闇にあった絶望の色は微塵もなかった。彼女の唇が、今度は歪な形ではなく、心からの純粋な弧を描く。日和は直哉に向かって、深く、断固とした意志を込めて首を縦に振った。
「うん」
掠れた、けれど芯のある声が、朝の光の中に響いた。
日和は踵を返し、朝の柔らかな光に満ちた静岡の街並みのなかへと歩み出した。かつて自らの手で雪の下に埋めてしまったはずの、あの綺麗な夢の断片をもう一度その胸に抱き締めて。彼女はもう、二度と逃げ出さない。




