特別書き下ろし:境界のあとに
数年後の世界は、驚くほどまっとうな光と音で満ちていた。
週末の午後、地方都市の広大なショッピングモールの吹き抜けには、休日を愉しむ家族連れの笑い声や、BGMの軽快なジャズ、そして穏やかな日常の喧騒が心地よく対流している。一ノ瀬直哉は、買い出しの紙袋を片手に、その賑わいのなかをのんびりとした歩調で歩いていた。東京での日々を遠い記憶の地層に仕舞い込み、この街で生きるようになってから、彼の内側はいつの間にか、完全な凪を取り戻していた。
中央の特設催事広場に差し掛かったとき、いつもとは違う異質な人だかりが目に留まった。
仕切られたパーテーションの向こう、長い列を作っているのは、熱心に単行本を抱えた若い世代の男女だ。看板には『新進気鋭の女性漫画家・待望の最新単行本発売記念 サイン会』という文字が踊っている。
直哉は、普段ならそうした華やかな流行の催しには目もくれない。あの最果ての無人駅で、一人の少女を日常へと引き戻したあの日から、創作の世界というものは、彼にとってそっと遠くから見守るべき聖域のようなものになっていたからだ。
人混みを避けるように、足早に通り過ぎようとした、その刹那だった。
「直哉くん……?」
雑踏のノイズを正確に切り裂いて、その声が彼の鼓膜を震わせた。
直哉の足が、大理石の床の上で完全に凍りつく。
聞き間違えるはずがなかった。あの凍えるような夜、世界の果てのようなホームで、自分の言葉に「うん」と確かに応えた、あの掠れて、けれど芯のあった声の主。
ゆっくりと振り返る。
パーテーションの奥、サイン机の前に座っていたその女性が、ペンを握ったまま、信じられないものを見るかのように目を丸くして直哉を見つめていた。
蘭香日和だった。
かつての、あの血の気を失った皺だらけの衣服の少女は、どこにもいなかった。髪を綺麗に整え、自分の名前が誇らしげに印刷された単行本を前にした彼女の瞳には、かつて無人駅の霧のなかで失われていた、圧倒的なきらめきが満ちていた。彼女はもう、世界の側から消えかけてなどいない。この現実の光の中で、一人の創作者として、確かに息をして、自分の足で立っていた。
直哉の口元に、自然と、温かな微笑みがこぼれ落ちた。
歩み寄り、机を挟んで彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。数年という歳月は、言葉を尽くさずとも、彼らの表情だけで全ての軌跡を語らせるのに十分だった。
「やっと、だな」
直哉の短い呟きに、日和は少しだけ目元を潤ませたが、今度はもう涙を流しはしなかった。彼女はいたずらっぽく、けれどこの上なく誇らしげに胸を張り、心からの満面の笑みを咲かせた。
「うん。やったよ」
あの夜、世界の果てで交わした小さな約束は、嘘ではなかった。彼女は確かに、泥を啜りながらでも、自分の息をする場所で、ちゃんと生きていた。
TERIMA KASIH.




