第15章:ドアが閉まるその前に
直哉の放った言葉は凍てつくホームの空気を切り裂き、日和を絶望の檻に閉じ込めていた心の防壁を完全に瓦解させた。目の前に立つ男の、微塵も揺るぎのない確固たる眼差しは、彼女の脳内を覆い尽くしていた濁った霧を貫く一条の灯台のようだった。そして、彼の口からあまりにも真摯に紡がれた「橘玲」というその名前が、消えかけていた彼女の最後の勇気を呼び覚ます決定的な現実の打鍵となった。
日和は、目の前に差し出された直哉の広げられた手のひらを見つめた。身体の震えはまだ収まっていなかったが、いまや自分という存在の根拠を完全に失うことへの恐怖のほうが、外の世界で再び敗北することへの恐怖を遥かに上回っていた。
混濁していく意識の最後の残滓を振り絞り、日和は血の気を失った右手をゆっくりと持ち上げた。
――ぎゅっと。
二人の皮膚が触れ合ったその刹那、あまりにも鮮烈な実在の熱が、日和の身体の奥底へと怒涛のように流れ込んできた。直哉の骨張った逞しい手の感触は、消失しかけていた彼女の生命の鼓動を強引に引き戻していく。直哉の目には、先ほどまで夜霧のなかに淡く溶けかけていた日和の輪郭が、みるみるうちに確かな質量を取り戻し、このプラットホームの上に一人の人間としての実在を再び強固に定着させていくのが見えた。
「君……」
日和は掠れた声で呟き、直哉の指を握る手に爪が食い込むほどの力を込めた。
プシュー、と。
鉄の扉を閉ざすハイドロリックの機構が非情に動き出し、開かれていた隙間が秒単位で狭まっていく。直哉はその刹那の好機を逃さなかった。彼は即座に上体を起こすと、右腕の全力を傾けて日和の細い身体をコンクリートの床から引き剥がし、迫り来る扉の狭間へと大きく足を踏み出させた。
バタン!
最終列車の重々しい扉が完全に噛み合い、二人を眩いほどの光と暖気で満たされた車内へと閉じ込めた。列車の安全システムが発車を拒絶する、まさに一秒手前の出来事だった。床下から響くディーゼルエンジンの唸りがにわかに高音へと跳ね上がり、鉄の塊は一定の律動を刻みながら、ゆっくりと、しかし確実に前進を始めた。あの見捨てられた無人駅のホームを、後方へと置き去りにして。
日和は張り詰めていた緊張の糸が切れたように、清潔な車両の床へそのままへたり込み、激しく息を切らせた。直哉はその傍らで、ステンレスの握り棒に背中を預けながら、ビジネスバッグと玲の追悼集を再び胸元に硬く抱きしめていた。
二人は無言のまま顔を巡らせ、車両の大きな窓ガラスの向こうへと視線を走らせた。
ガラスの向こうで、名もなき駅のうらぶれた木造駅舎と、あの古びた長椅子のシルエットが、ゆっくりと後方へ剥がれ落ちていく。やがてその黒い影は、静岡の山あいに蟠る濃密な夜霧の底へと完全に溶け込み、二度と戻ることのない忘却の彼方へと消失した。
甘美な逃避の場所は、いま明確に決別されたのだ。
主要な文明の動脈へと向かって闇を切り裂き走る列車のなかで、感情を限界まで搾り尽くされたことによる猛烈な疲弊が、二人の肉体を同時に襲った。直哉と日和は、暖房の効いた心地よいシートに並んで腰を下ろすと、どちらからともなく深い、安らかな眠りの底へと深く堕ちていった。




