第14章:もう一度、現実を歩こう
直哉は、差し伸べた右手を引くことはしなかった。一人で車内へ逃げ込むことも、日和の絶望がこの冷徹な夜を支配するのを許すこともしなかった。自らも凄絶な喪失の嵐をくぐり抜け、酷薄な現実と折り合いをつけて前を向いた大人の男として、直哉は日和の震える双眸を真っ直ぐに見つめ返した。その眼差しは、微塵の揺らぎもなく堅固だった。
彼は再び凍てつく床に片膝を突き、日和のすぐ近くまで上体を寄せた。日常の側にいる人間の、確かな実在の熱を、彼女の肌に届けるために。
「俺の声を、よく聞け」
直哉の声は低かったが、紡がれる言葉の一つひとつには、裏打ちされた大人の重みがあった。
「現実の世界はうるさくて、速くて、俺たちの疲労なんてこれっぽっちも気にかけてくれない。あそこで敗北と向き合うことが、死ぬほど怖いのはわかる。だけどな、こんな死んだ駅に隠れて、自分がかつて抱いた夢すら忘れていくのは……それは救いじゃない。都合のいい痛みに縋って、自分を最も残酷に磨り潰しているだけだ」
日和の嗚咽が微かに弱まった。後退する動きも止まり、その視線は直哉の、一切の迷いのない顔に釘付けにされていた。
直哉は左腕を動かし、胸元に抱いていた玲の追悼集を日和の目の前へと掲げた。
「あんたは、その女性漫画家に救われたと言った。彼女の遺作から貰った温もりを、今度は自分の言葉で誰かへ繋いでいきたいんだと、そう言ったな」
直哉はそこで一度言葉を切り、夜風がその響きを日和の意識の底へと運んでいくのを待った。
「教えてやる。あんたが憧れた『あの人』――橘玲はな、こんな寂しい無人駅に逃げ込んで、あんなに美しい物語を描き上げたわけじゃない」
「橘玲」というその固有の名が直哉の唇から明瞭に放たれた瞬間、日和の身体が目に見えて大きく戦慄した。
「玲は、身体を引き裂くような苦痛のなかにあっても、最後の最後までペンを握り続けた。自分がこの現実に確かに存在したという証を、世界に刻みつけるために描き続けたんだ」
直哉の瞳に、日和の凍てついた心を融かすような、静かで熱い確信が灯る。
「傷跡を抱えて、失望と、敗北の恐怖を引き摺りながら、もう一度東京へ戻るんだよ。それは、名前も持たずにこんな場所に消えていくより、遥かに誇り高いことだ。今すぐ勝者になれなんて誰も言わない。不器用でも、どんなに遅くてもいい。自分が本当に息をしている場所で、泥を啜りながらでも生きるんだ」
ピ、ピ、ピ、ピ。
扉が閉鎖される最終の警告音が、無慈悲にホームへ鳴り響いた。山あいの冷気が狂ったように霧を巻き上げ、日和の身体を永遠の静寂のなかに繋ぎ止めようと、その境界線を激しく浸食してくる。
直哉は、荒れ狂う霧の誘惑を完全に黙殺した。彼は開いた右手を、まっすぐに日和の前へと突き出す。それは、彼女の人生に対する、退路を断つための絶対的な選択肢だった。
「俺の手を掴め。現実へ戻るんだ。その痛みも、まだ死んでいない夢も、全部一緒に抱えて家に帰るぞ」




