第12章:消えかけている存在
直哉の思考を甘慢に麻痺させていたあの不気味な睡魔は、完全に霧散していた。山あいを狂ったように吹き抜ける夜風の咆哮とともに、すべての欺瞞が剥ぎ取られていく。いま自らの胸元にある玲の追悼集は、確かな重量と熱を帯び、彼を日常の側へと繋ぎ止める絶対的な現実の錨として機能していた。
直哉は完全に覚醒した意識で、薄暗いプラットホームをぐるりと見回した。
静岡の最果てにあるこの無人駅は、単なる不運な偶然がもたらした終着駅などではない。ここは、現実の競争に敗れ、生きることを諦めてしまった者たちを誘い込む、酷薄な精神の罠なのだ。もしもこのまま、社会との繋がりを断たれた暗闇の中で、何もかもを忘却して甘美な死に同化してしまえば、外の世界における彼らの存在そのものが永久に消去されてしまう。誰からも思い出されぬ、真の境界の住人になってしまうのだ。
直哉は視線を落とし、湿ったコンクリートの床で未だに激しい嗚咽を漏らし続ける日和の姿を凝視した。
その刹那、彼の心臓が、冷水を浴びせられたかのように激しく跳ね上がった。点滅を繰り返す頼りない蛍光灯の光の下、目の前の少女の身体に、取り返しのつかない異変が起き始めていることに気づいたからだ。
足元からせり上がってくる濃密な夜霧のなかに、日和の身体の輪郭が、不自然なほど淡く溶け込み始めている。
彼女が溢れる涙を拭おうと、強張った手のひらを持ち上げたその瞬間だった。直哉の目には、彼女の指先が、周囲を対流する白い澱みのなかに境界線を失って融け落ちていくように見えた。肉体の境界が、存在の強度が、この駅が強いる「静寂」によって一歩ずつ磨り潰され、消失へと向かっている。鬱屈の極致にあった彼女の精神は、すでに臨界点を越えていた。彼女は、外の世界に生きる人々の記憶の網の目から、完全に零れ落ちる手前まで来ていたのだ。
直哉は焦燥に駆られながらポケットのスマートフォンを引き抜いた。
液晶の隅には、変わらず『圏外』の二文字が無機質に点滅しており、バッテリーの残量はすでに限界を示していた。手首のアナログ時計に目をやると、先ほどまで狂ったように歪んでいた秒針の律動は、いつの間にか、冷徹なまでの正確さで時を刻み直している。現実の時間は、彼らの絶望など歯牙にもかけず、残酷に前へと進み続けていた。
もう、猶予はなかった。もし次の機会を逃し、日和をこのホームの暗闇の中に置き去りにしてしまえば、彼女は二度と、自分の足で現実へと歩み出す気力を取り戻せないだろう。彼女の魂は、この死んだ駅の地層に永久に埋没してしまう。
直哉は上体を起こし、左腕で玲の追悼集を強く抱きしめると、右手で彼女の震える肩を掴むべく、力を込めた。
「おい」
直哉の声は、日和の弱々しい嗚咽を切り裂くように、明確な意志の強さを持って響いた。
「泣くのは終わりだ。今すぐ、ここから出るぞ」




