第11章:無理やり呼び覚まされた痛み
上質な紙のうえに刻まれた「橘玲」という漢字の羅列が、青白い蛍光灯の光を鋭く撥ね返していた。日和の瞳のなかで、その文字はもう歪むことも、霞むこともなかった。それらはあまりにも明確な、容赦のない輪郭を持ってそこに立ち塞がり、彼女が絶望と鬱屈の果てに築き上げてきた忘却の防壁を、跡形もなく引き裂いていく。
磨り潰され、消えかけていた記憶のすべてが、決壊した濁流となって日和の脳内へと乱入してきた。
「あ……」
日和は胸元を強く掴み、その場に激しくののしるようにして息を詰まらせた。戻ってきた記憶は、彼女に救いをもたらしたわけではなかった。それは、骨を軋ませるほどの凄絶な苦痛を伴ってやってきたのだ。
彼女は、一瞬にしてすべての現実と直面することを強制されていた。学生時代、あの人の遺作をめくりながら胸に抱いた、あの眩いほどに純粋な憧れ。しかし同時に、そこから逃げ出す原因となった酷薄な現実もまた、容赦なく彼女の脳髄を突き刺す。積み上がった不採用通知、担当編集者の冷徹な電子音、そして、東京という巨大な瓦解のなかで誰にも見出されずに摩耗していった、敗北者としての己の無力さ。
この死に絶えた駅で貪っていた甘美な微睡みは、完全に崩壊した。日和は理解した。自分がこの場所に留まっていたのは、傷を癒やすためなどではなかったということを。ただ、現実の痛みに耐えかねて自らの精神に麻酔を打ち、生きる理由そのものを消去することで、都合のいい死を擬似的に受け入れていただけだったのだ。
堰を切ったように、涙が瞳から溢れ出た。
日和は、開かれた追悼集のすぐ傍ら、冷え切ったコンクリートの床に崩れ落ちるようにして膝を突いた。両肩が、狂ったような嗚咽とともに激しく震える。彼女の悲痛な泣き声は、山あいの無人駅の不気味な静寂を切り裂き、安全な逃避壕だと信じ込んでいたその場所の欺瞞を、木霊となって暴き立てていく。
「なんで……なんで、思い出させるの……」
日和は浅い呼吸を貪りながら、喉の奥から声を絞り出した。
「私はもう諦めたの……あんな、息もできないような場所には、もう戻りたくないのに……!」
直哉は、自らの足元で子供のように泣きじゃくる日和を、静かに見下ろしていた。胸の奥が、抉られるように痛む。彼はこの痛みを、誰よりも熟知していた。否認という名の温かな檻から無理やり引きずり出され、剥ぎ出しの現実という名の傷口を、直視させられるときの凄惨な痛みを。
しかし、直哉は同時に知っていた。この激痛こそが、彼女が未だ手放していない生の証明であることを。涙を流せるということは、彼女の肉体が、感情が、まだ人としての機能を放棄していないということだ。彼女の魂は、完全には死に絶えてなどいない。
直哉は凍てつく床にゆっくりと片膝を突き、日和の視線と同じ高さまで上体を下げた。触れることはしなかった。ただ、その硬直した指先を伸ばし、床の上の『橘玲追悼集』を静かに拾い上げると、それを自らの胸元へと大切そうに抱き寄せた。
「泣けばいい」
直哉の声は、荒れ狂う日和の感情の嵐のなかにあっても、驚くほど平穏で、揺るぎない地軸のように響いた。
「破り捨てられた夢を思い出して苦しむほうが……自分がどうして生きたかったのかすら忘れて、ただの抜け殻になるよりは、よっぽど人間らしいよ」




