4.道筋はどこに
「なんで、逃げるのですかっ!」
私は叫びながら熱い胸板を叩く。スーツなのに走り難くないのだろうか、と余分なことも考えながら。
本の頁に手のひらを当てると、いつの間にか景色は切り替わっていて、見渡す限り広がる草原。突然のことに、しばしの間途方に暮れた。
その時に、犬の遠吠えのような声が聞こえたのだ。
三人の大人は、警戒するように周囲に視線を彷徨わせた。私を真ん中にした、三角形のフォーメーションだ。
それにいち早く気が付いたのは、刑事である正木だった。
「拙いな」
そう呟いた彼は、私を抱えて走り出す。慌てたように、犬山所長、先生両名が追い掛ける。
肩越しに背後を覗くと、一匹の狼――にしては、禍々しいほど汚い毛皮をした四足歩行の動物が、駆け寄ってくる姿が見えた。
それは、ある程度距離が縮まるとピタリと動きを止める。そして距離が開くと、追いかけて来る。
だから、私は彼の胸板を叩いたのだ。
「相手は一定の距離になると動きを止めるのです! こちらから近寄って、反応を確かめるべきでは?」
「こちらは素手だ。武器が欲しい」
「殴り倒せるかもしれないじゃないですか!」
「血の気が多いなぁ、いったい誰に似たんだ?」
「母親。解っているくせに」
若干息を切らしながら、智先生は言った。脳裏で父が、肩を落とした。
「はぁ、はぁ、もう少し、痩せたほうがよかったなぁ!」
腹の出っ張った所長が言い、必死で先頭を走る私たちを追いかけている。
「走り続けるのは、無理そうですよ。どこまで逃げるおつもり?」
「分からんが、身を隠す場所も見当たらないか」
見渡す限りの草原だ。木も、岩も、蟻塚といった自然の工作物すらも見当たらない。建物なんて以ての外だ。
清々しいほどの緑と青のグラデーションが、地平線を彩っていた。
正木は諦めて立ち止まり、私を降ろしてくれた。狼のような動物は、私たちの様子を窺うように、ウロウロとした調子で距離を保っている。
「刑事でしたでしょう? 拳銃なんて持っていらっしゃらないの?」
「非常時じゃないんだから」
「これが? 非常時じゃない?」
「あはは、訂正するよ。予想できなかったからね」
余裕のある表情に、私は不貞腐れるように唇を尖らせた。
「いや、全く。こんな大自然をアニメのように走るとは思わなかった。ヤギでもでたら、雰囲気があるんだけどね」
「犬山先生、何を言っているの?」
「知らない? アルプス」
「アルプス一万尺なら……」
「妙なところで古臭いね」
貴方に言われたくありません。と、私は拗ねる。
「それより、休憩は出来るんだよね? あぁ、疲れた。飲み物でも持ってくれば良かったよ」
小さく見えるハンカチで汗を拭く所長。タオルすらも持ってきておらず、これはあくまでも様子見のつもりだった。本来の目的は達成できているのだから、このまま帰還しても申し分ないのだけど――。
「このまま帰っても良いのですけど、何も出来ずに逃げ帰るのは、ちょっと癪ですよね」
「本当に、血気盛んだ。でも、この状況では何ができるとも言えないね」
正木はネクタイを緩めている。スーツ姿で走りにくくないのだろうか。私は、彼のスーツ以外の格好を見たことがない。
理由を聞いたことがあったけれど、その答えは単純で。いつ事件があってもいいように、とのことだった。
刑事よりも格闘家のほうが似合うのでは、というワイルドな顔立ちに反して、仕事熱心で接しやすく、きっちりとしている。浮いた噂を訊かないのは、そう言った一面が災いしているのだろうか。
そんな彼の言い分を聞く限り、理想なのは武器を入手することなのだろう。けれど、一体どうすれば手に入るのかが分からない。
「お祖父様も、そういうことを教えてくださったら良かったのに」
「出来れば戦ってほしくない、という願いだろうね」
優しさで魔境は突破できないのに。
「魔境と言うより、ダンジョンみたい。ほら、ロールプレイングゲームの」
「セイナちゃん、ゲームをやったっけ? 僕は好きなんだけどね」
「所長の部屋、ゲームが並んでもいますものね。私も友達の家で遊んだことがあります」
部屋と言っても自宅ではなく、事務所の部屋だ。携帯ゲーム機のカセットのパッケージが並んでいて、ダウンロードは味気ないとよく話していた。
「神郷先生の人生で二つしかクリア出来なかったのなら、そう簡単に道筋を見つけられるものではないだろうね」
「僕もそう思うよ。地道な捜査なら、お手の物だけどね」
智先生も、正木も、どうしてそんな悠長なことを言っているのだろう。私は、何だか少し腹が立った。
「でも、早くクリアしないと、不特定多数に知らされる可能性はゼロではありません」
「そりゃ、時間をかければここの存在が人に知られる可能性はあるね。神郷先生も、それを危惧してこっそりと行っていただろうし」
けれども、当然協力者がいたはず。そう智先生は話す。
「その人たちを探して、頼ってみるか? 智君はどう思う」
「それが一番いいだろうけど、ね。所長はそれらの人物に心当たりはありませんか?」
「いや、ないね。先生の交友関係は、僕もよく知らない」
大人たちは、悠長に! さっきまでは逃げてばかりだったのに、今度は立ち止まって、呑気にお喋り。
それが大人の余裕だろうか。私はもっと、この世界を体感して、両親の、お祖父様の無念を感じて――。
と考えて、少し冷静になった。確かに、私は、この場の雰囲気に酔っていたらしい。
「……命は大事に、ですね」
「そう。後悔が先に立つのは、命があるお陰だからね」
頭に乗る智先生の手を、軽く振り払う。何だか少し、恥ずかしかった。
「けれど、謎解き自体は単純なものだと思う。構成される物の数が、極端に少ないからね。謎というものは、複数のものが重なり、混じり合うことで複雑性を増す。先ずはそれらを分解し、一つ一つ並び替えることで如何にして謎を構成しているのかを解きほぐさなくてはならないのだけど……。
此処には草原と、異様な怪物しかいない。怪物は倒すべきものだとすれば、怪しいものは一つだけ」
先生はしゃがみ、振り払われた手を使って一つの植物を摘み取った。
「これはアケボノソウ。花言葉の一つに、『前向き』というものがある。『祝福』も、だね。これは、君にあげるよ」
そういうことを、サラッと行うからっ!




