第8話「王都では今、食料が底をつきかけている」
三十日の引き継ぎが始まって、二週間が経った。
テアの火加減は、最初の五日間で基礎が固まった。強火と弱火の切り替えは体で覚えた。鍋の位置の調整は、まだ俺が隣にいないと迷う場面があるが、それでも一ヶ月前と比べれば別人と言っていい。今日は一人で朝のスープを仕上げた。味見して「塩が少し足りないかもしれません」と自分で言えた。それが大事だ。作れることより、気づけることの方が、料理では先に来る。
「どうですか」
テアがスープの入った器を俺に差し出した。
俺は一口飲んだ。
「塩は丁度いい」
「え、本当ですか」
「少し足りないかと思ったのは、蓋を開けた直後に嗅いだ匂いで判断したからだろう。仕上げの段階では、匂いより舌で確かめること。まず飲め」
テアが自分のスープを一口飲んだ。しばらく考えた。
「……丁度いいです」
「そうだ」
「でも、どうして匂いで判断すると少なく感じるんですか」
「塩の匂いは熱で飛びやすい。湯気と一緒に出ていくから、蓋を開けた直後は実際より薄く感じる。時間を置いてから嗅ぐか、舌で確かめる方が正確だ」
テアが「なるほど」と言って、手帳に何かを書き込んだ。この二週間でテアは手帳を一冊ほぼ埋めた。字が小さくて、俺には読めないほど細かく書いてある。
「明日は何を教えてもらえますか」
「野草の見分け方を、もう一段階進める。食用と非食用の境界線が似ているものがある。間違えると危ないので、慎重にやる」
「はい」
テアが真剣な顔で頷いた。
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ロッツの方は、さらに早かった。
農夫として土を読んできた人間だから、食材の採取場所を教えると、その周辺にある類似した環境を自分で探してくる。俺が二週間かけて見つけた群生地を、ロッツは三日で倍に増やした。
「ここにも同じ種類がありました」と言って、新しい場所を地図に書き加えてくる。
「これは食用ですか」と聞いてくる植物の判断が、最初の頃は全部俺に頼っていたのが、今は半分くらい自分で「たぶん食えると思うが確認してください」と言えるようになっていた。
畑の管理については、ロッツはほぼ自分でやれていた。土の状態を見て、水の量を判断して、作物の生育を観察する。俺がやっていた「料理の副産物として畑に影響を与える」部分だけが再現できないが、それはロッツのせいではない。スキルの問題だ。
「俺がいなくなっても、畑は大丈夫そうですね」と俺が言うと、ロッツは「そう言われると複雑な気持ちになりますね」と笑った。
「複雑というのは」
「もう少しいてほしいと思っているので」
「そうですか」
「でも、ここの飯の作り方は引き継ぎます。腕前は真似できないですが、考え方は少し分かってきた気がします」
「考え方というのは」
「食材を無駄にしない、ということと、食べる人間の顔を思い浮かべながら作る、ということです」
俺は少し考えた。
俺がそれを言葉にしたことはなかった。ただやっていただけだ。それをロッツが見ていて、言葉にした。
「それで合っています」
「よかった」
ロッツが地図を折り畳んだ。
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引き継ぎが進む一方で、エルナが王都からの手紙を受け取るのは三日に一度の頻度になっていた。
最初の頃は週に一度だったが、徐々に増えた。王都の状況が変化するにつれて、報告の頻度も上がっているのだろう。
エルナが手紙を読んでいる顔は、いつも少し険しい。読み終わった後、しばらく手紙を机の上に置いたまま動かないことがある。俺は何も聞かない。聞く必要があれば、エルナから言ってくる。
ロッツとの森の巡回から戻ったある日の昼、テアが一人でスープを作っていた。
俺が見ていることに気づかなかったようで、真剣な顔でかまどに向き合っていた。薪の足し方を確認して、鍋の位置を少し調整して、一度だけ蓋を開けて匂いを確かめた。それから蓋を閉めて、また数えた。唇が動いていた。
二分ほどして、テアが俺に気づいた。
「い、いつから見てましたか」
「鍋の位置を直すところから」
「……合ってましたか」
「ほぼ合っていた。鍋を動かしたのは少し早かったが、それ以外は問題ない」
テアが「ほぼ」という部分が引っかかったらしく、眉をわずかに寄せた。
「どのくらい早かったですか」
「十数えるくらい」
「次はもう少し待ちます」
テアが手帳に書き込んだ。「十数える分、待つ」と書いたのが横から見えた。細かい字で丁寧に書いてある。
「テア」
「はい」
「今のスープ、自分で味見したか」
「しました。少し薄いかもしれないと思って」
「飲んでみていいか」
テアが器にスープをよそって渡した。俺は一口飲んだ。
悪くなかった。薄いと感じたのはテア自身で、実際には丁度よかった。二週間前に教えた「匂いではなく舌で確かめる」ことを、もう自分でできている。
「これで出せる」
「本当ですか」
「お前が作ったと言わなければ、俺が作ったと思われる」
テアが固まった。それから、ゆっくり笑顔になった。今まで見た中で、一番嬉しそうな顔だった。
「言いすぎじゃないですか」
「言いすぎじゃない」
テアが手帳を胸に抱えた。
「……ルークさんがそう言うなら、本当なんですね」
「俺は料理について嘘をつかない」
テアがもう一度「よかった」と言った。安堵の声だった。
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引き継ぎ開始から十六日目の夜、エルナが来た。
「少し、話していいですか」
俺は翌日の仕込みの準備をしていた。手を止めた。
「どうぞ」
エルナが椅子に座った。机の上に手紙を置いた。
「王都の状況が、想定より悪くなっています」
「どのくらい」
「私が思っていたより、はるかに」
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エルナが話した内容を、順番に整理すると、こうなる。
俺が追放されてから四ヶ月が経った。その間、宮廷の食事は見た目の上では維持されている。量も、品数も、問題ない。しかし騎士団の体調不良が収まらない。戦闘訓練の成果が出ない。魔法の精度が落ちた、という報告が複数の隊から上がっている。
侍医の分析では、食事に含まれる魔力の量が著しく低下しているとのことだった。具体的には、俺が宮廷にいた時期と比較して、三割以下になっているらしい。騎士の体はその差を感じ取っていた。慢性的な疲労、集中力の低下、回復の遅さ。
さらに、今年の干ばつが予想以上に深刻だった。
王国は例年、東と南の農地から食料を調達している。今年は東の農地が干ばつで半分以下の収穫になった。南の農地は虫害に見舞われた。備蓄は三ヶ月分を切りつつある。隣国からの輸入を増やそうとしたが、隣国も今年は不作で、交渉が難航している。
そして陛下の病状が、思ったより重い。
「三ヶ月は持つ」という当初の侍医の見立てが、先日の手紙で「一ヶ月半が限度かもしれない」に変わった。
「……三十日の猶予を取ったのは」とエルナが言った。「その時点での見立てでは十分な余裕があると思っていました」
「今は違う」
「はい。急いで王都に向かってほしいと、要請が来ています」
俺はエルナを見た。エルナが俺を見た。
「あなたの判断を聞きたいです」
エルナが静かに言った。
「命令ではありません。私の立場では、今すぐ連れていく権限もありません。ただ、状況を伝える義務があると思ったので」
「分かりました」
「どうしますか」
俺はしばらく黙っていた。
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翌日、俺はゴードンに会いに行った。
用件は一つだった。
「引き継ぎを急ぎます。残りの二週間でやる予定だったことを、一週間で終わらせたい。手伝ってもらえますか」
ゴードンが俺を見た。
「急ぐのか」
「はい」
「王都の件か」
「……はい」
ゴードンが少し間を置いた。
「テアとロッツは」
「今の速度でいけば、一週間で最低限は整います。完璧じゃないが、なんとかなるはずです」
「なんとかなるというのは、お前の見立てか」
「俺の見立てです」
ゴードンが腕を組んだ。しばらく黙った。
「……村の管理は、俺がやる」
「ありがとうございます」
「ただし」
ゴードンが俺を真っ直ぐ見た。
「必ず戻ってこい」
命令口調だった。依頼でも、要望でもなく。老人の口から出た、短くて強い言葉だった。
「はい」
俺は頷いた。
「ここが俺の家ですから」
ゴードンが少し目を細めた。何かを言おうとして、やめた。それからもう一つ言おうとして、またやめた。
最終的に、老人は「薪は切っておいてやる。帰ってきたときに使え」とだけ言った。
それがこの人の言い方だと、今の俺にはよく分かる。
ゴードンが村の方へ歩いていった。その背中を見ながら、俺は翌日の段取りを考えた。
テアへの最終授業、ロッツへの畑の引き継ぎ確認、献立記録の仕上げ。それと、村人たちへの挨拶もしなければならない。カルとネムには、明後日の朝に別れを言う時間が必要だろう。難民の老人二人にも。
やることが多い。
でも、それだけやるべきことがあるということは、この一ヶ月でそれだけのものができたということだ、と俺は思った。
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その夜、一人でかまどの前に座っていたとき、王都のことを考えた。
デレク・ホルトのことを考えた。
あの人が今、どういう状況にいるかは想像できる。宮廷の食事が崩壊している。騎士団が弱体化している。国王が伏せっている。その全てに、デレクが関わっている。関わっているというより、デレクの判断が引き金を引いた。
悪意はなかったはずだ。
俺を追放したのは、国の命令に従っただけだ。戦時の人員整理で、料理人の数を絞る方針が上から来た。そのとき、誰を残して誰を出すかを決めたのはデレクだった。
自分を残して、俺を出した。
それは人間として当然の選択かもしれない。俺がデレクの立場でも、同じことをしたかどうか、分からない。
今頃あの人はどんな顔をしているだろう、と思った。
怒っているか、開き直っているか、あるいは——。
ただ、今の俺にはデレクの心境を確かめる手段がない。王都に着けば、あるいは顔を合わせることになるかもしれない。そのときのことは、そのときに考えればいい。
かまどの火が少し落ちてきた。薪を一本足した。
翌日の仕込みの段取りを頭の中で組んだ。引き継ぎを急ぐとはいえ、今日の夜の飯は丁寧に作る。急いでいても、目の前の飯を雑にするのは違う。
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王都、王宮の厨房。
夜半過ぎ、デレク・ホルトは一人で厨房に残っていた。
翌日の献立の見直しをしていた。正確には、見直しと言えるほどのことはできず、ただ紙を眺めていた。
厨房は静かだった。日中は人が動いているが、夜はほとんど誰もいない。デレクはここ数週間、夜の厨房に一人残ることが増えた。
壁に、ルークが書き置いていった引き継ぎ書きがある。
追放の日に、ルークが仕込みの状態を書いて残した紙だ。火加減の注意、食材の管理方法、翌日に使えるものの場所。丁寧な字で、余白なく書いてある。
あの日から四ヶ月が経つのに、デレクはその紙を捨てられなかった。
手に取って読む必要はない。内容は全部頭に入っている。それでも捨てられない。
騎士団の報告書が毎日届く。体調不良、魔力低下、訓練成果の不振。陛下の容態を伝える侍医の文書が届く。食料備蓄の残量報告が届く。
全部が、あの日の判断と繋がっている。
戦時の人員整理は、上からの命令だった。それは本当だ。ただ、誰を出すかを決めたのは自分だ。アッシュフォードを最初に出したのは自分だ。あのとき、迷わなかったわけではない。
迷った。
ただ、迷った末に出した。
理由を思い出せる。アッシュフォードの料理は確かに旨い。しかし「旨い」だけでは残す根拠にならないと思った。測定できる数値上の効果は他の料理人でも再現できると判断した。だから出した。
その判断が、間違っていた。
デレクはそれを今、認めることができる。四ヶ月かかった。
「……お前の塩加減は、確かに天才的だった」
誰もいない厨房で、デレクは小さく言った。
声にしたのは初めてだった。
言ってしまえば、それだけのことだった。謝りたいとか、取り消したいとか、そういう大げさなことではない。ただ、正確なことを言いたかった。あの料理は、正確に旨かった。自分の判断は、正確に間違っていた。
デレクは引き継ぎ書きを丁寧に折り畳んで、机の引き出しに戻した。
翌日の献立を、もう一度見直した。
何をどう工夫しても、今の厨房では限界がある。それは分かっている。それでも、今の自分にできることをするしかない。
料理人というのはそういうものだ、とデレクは思った。
アッシュフォードが言いそうなことを、今頃になって自分が思っている。
それが少し、情けなかった。
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辺境に戻る。
エルナからの話を受けて三日後、俺は引き継ぎのペースを上げた。
テアへの授業を、一日二項目に増やした。テアは「一日一つって言いましたよね」と言ったが、「状況が変わった」と答えた。テアが「ずるいです」と言ったが、次の瞬間には真剣な顔で手帳を開いた。
ロッツへの森の案内も、残りの場所を全部回った。二日で終わらせた。ロッツは「急にどうした」と聞いたが、「引き継ぎを早める必要がある」と言ったら、「分かった、全力でついていく」と言って一言も文句を言わなかった。
夜は献立の記録を書いた。
辺境で使える食材の一覧、季節による変化、採取場所、調理方法。俺が王宮でやっていた仕事を、この村向けに全部紙に落とした。字数で言えばかなりの量になった。テアとロッツに一冊ずつ渡すつもりで、二部作った。
引き継ぎ書きを作りながら、デレクの書き方を少し思い出した。
あの人も几帳面な字を書く人だった。引き継ぎ書きの形式を最初に俺に教えたのはデレクだった。項目の立て方、優先度の示し方。宮廷で学んだことが、辺境の村への引き継ぎ書きに生きている。
皮肉なようで、そうでもない、と思った。
何かを教えた人間のことは、教えてもらったことが役に立ったとき、自然に思い出す。それだけのことだ。
デレクのことを恨んでいるかと聞かれたら、今もそうではないと答えられる。ただ、あの別れ際の言葉——「お前の料理は確かに旨かった」——は、今でも時々頭に浮かぶ。
過去形だった。
旨かった、という言葉は、もう終わったことへの評価だ。旨い、ではなく。あの人はあの瞬間に、俺の料理との関係を過去のものにした。それ以上でも、以下でもない。
でも今、俺はここで料理を続けている。
過去形にする必要は、俺にはなかった。
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引き継ぎ開始から二十四日目の夜、エルナが俺のところへ来た。
手に、一通の手紙を持っていた。いつもの王都からの手紙とは違う。封の形が違う。紙の質が違う。
「今日、届きました」
エルナが差し出した。
受け取った。封を見た。
王の花押だった。印璽が押してある。正式な王書だ。クロイツが持ってきた勅命状と同じ形式だが、それより格が上だ。
「……開けてもいいですか」
「あなたに宛てたものです。あなたが決めることです」
俺は封を開けた。
中の紙を広げた。
文字が少なかった。短い手紙だった。王族の正式な文書の形式を取っていたが、内容は短かった。
そして、その短い内容の最後に、一文が添えられていた。
明らかに、他の文面と筆跡が違う。震えた字で、力を絞って書いたような跡がある。
『余に料理を食わせてくれ。礼は何でも言う』
俺は手紙を持ったまま、しばらく動かなかった。
勅命ではなかった。命令ではなかった。
王が、一人の人間として、俺に頼んでいた。
エルナが俺を見ていた。
「アッシュフォード」
「はい」
「どうしますか」
俺は手紙を折り畳んだ。
翌日、テアに話があると伝えようと思った。ロッツにも。ゴードンにも。
三十日はまだ六日残っている。でも、もう答えは決まっていた。
「明後日、出ます」
俺は言った。
「引き継ぎの最終確認を明日一日でやります。明後日の朝、王都へ向かいます」
エルナが少し目を細めた。
「……承知しました」
「一つだけ」
「はい」
「王都へ行くのは、行くと決めたからです。連行されるからではありません」
エルナが頷いた。
「報告書にそう書きます」
少し間があった。
「アッシュフォード」
「はい」
「戻ってきますよね」
エルナの声が、いつもより少し低かった。騎士の声ではなく、ただの人間の声だった。
「ここが俺の家ですから」
「……テアも、ゴードン老も、ロッツも、そう聞くと思うので、先に確認しました」
「全員に同じことを答えます」
エルナが「そうですか」と言って、手紙を丁寧に折り畳んだ。
「では、出発の準備を手伝います。馬の手配と、王都までの道中の護衛は私が担当します」
「助かります」
「食料も必要です。道中の分を明日用意します」
「……それは俺が作ります」
「道中の食料まで」
「当たり前です」
エルナが「そうですね」と言って、初めて少し笑った。作った笑いではない、自然に出た笑いだった。
俺は立ち上がって、かまどに向かった。
夜の仕込みが残っている。明後日出発するなら、今夜と明日、テアに最後の授業をしなければならない。ロッツに畑の最終確認を頼まなければならない。献立の記録を仕上げなければならない。
やることはまだある。
でも今夜は、最後にもう一度、この村の食材で丁寧なものを作ろうと思った。
テアを呼ぼうと思った。一緒に作れば、最後の授業にもなる。
「テア」
空き家の奥から声が返ってきた。
「はーい」
「飯を作る。来い」
「今行きます」
ばたばたと足音がして、テアが出てきた。手帳を持ったままだった。
「なんか、急に呼ばれると思ってました」
「なぜ」
「ルークさんが考え込んでるときは、だいたい飯を作り始めるので」
俺は少し考えた。
「……そうかもしれない」
「今日は何を作りますか」
「持っている食材を全部出せ。あるもので一番旨いものを作る」
テアが「はい」と言って、食材の棚に向かった。
かまどに火を入れた。
明後日、ここを出る。でも今夜はここで飯を作る。それだけだ。




