第9話「一つだけ、条件があります」
出発の前日、俺は夜明け前に起きた。
テアはまだ眠っている。エルナは外で見回りをしていた。ゴードンは早起きだが、今日はまだ家から出ていない。
俺は一人でかまどに火を入れた。
今日やることは決まっている。午前中にテアへの最終授業。昼過ぎにロッツと畑の最終確認。夕方に村人への挨拶まわり。夜に出発前の最後の食事。そして今朝の時間に、一通の手紙を書く。
火が安定してから、俺は机に向かった。
紙と筆を出した。
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手紙の宛先は、王都の使者クロイツだった。
エルナ経由で送れば明日中には届く。俺が王都に着く前に、先方に届く必要があった。
内容は短くした。
王都へ向かうこと、明朝出発すること、そして一つだけ条件があること。
条件は一行で書いた。
『この辺境の村、ハルムに正式な自治権を与え、当村に居住する全ての者の身分を保証すること』
それだけだった。
自分のための条件ではない。礼金も、地位も、宮廷への復帰条件も、何も書かなかった。ただ、この村とここに住む人間の身分が守られることだけを求めた。
テアは孤児だ。正式な身分記録がない。ロッツたち難民も、故郷の村が消えた今、どの領地にも属していない宙ぶらりんの状態だ。自治権がなければ、この村はいつでも王国の判断で取り潰せる土地のままだ。
エルナはここに残ると決めた。王国の騎士が命令なしに辺境に留まれば、立場が不安定になる。身分の保証があれば、エルナがここに残る根拠ができる。
ゴードンが守ってきた村が、正式に認められた土地になる。
俺がいなくなった後も、この場所が続くために。その一点だけのために、俺は王都へ行く価値があると思っていた。
それだけが条件だった。
手紙を書き終えて、封をした。エルナに渡すのは朝食の後でいい。
かまどの火が安定している。朝食の仕込みを始めた。今日の朝食は少し時間をかけて作ろうと思っていた。最後の引き継ぎ授業は、実際に作りながらやる。テアの隣に立って、一緒に作る。それが今日の授業だ。
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テアが起きてきたのは、ちょうど仕込みが始まったところだった。
目が覚めると同時に台所を見る癖がついている。包丁の音がしたら起きてくる。この一ヶ月でそういうリズムになっていた。
「今日は一緒に作るぞ」
俺が言うと、テアが目を覚ました顔のまま「はい」と言って、手を洗いに行った。
戻ってきてから、隣に立った。
「今日の献立は」
「お前が決めろ」
テアが少し固まった。
「……わたしが、ですか」
「今ある食材を確認して、何が作れるか考えて、献立を決めろ。俺はその通りに一緒に作る」
「え、でも」
「最後の授業だ。作り方じゃなくて、考え方を確認する」
テアが食材の棚に向かった。一つずつ確認して、手帳に書き出した。しばらく考えた。また書いた。考えた。
十分ほどして、戻ってきた。
「……スープと、根菜の炒め物と、干し魚の焼き物、でどうですか」
「なぜそれを選んだ」
「スープは朝に体が温まるから。根菜は今日の分を使い切らないと傷んでくるから。干し魚は焼くだけで済むから、他の二品に集中できると思って」
俺は頷いた。
「合っている。一つ加えるとすれば、食材の傷みを優先して考えたのは正しい。明日以降誰かが使う分を残すかどうかの判断も、いずれできるようになれ」
「今日は残さなくていいですか」
「今日は全部出す。俺がいなくなった後、食材の管理はロッツと相談しながらやれ。一人で判断しなくていい」
テアが手帳に書き込んだ。
「……分かりました」
「じゃあ始めろ。俺は隣で見る」
テアが「え、一緒に作るんじゃないんですか」と振り返った。
「最初はお前が一人でやれるところまでやれ。詰まったら聞け」
テアが少し唇を結んだ。それから「やります」と言って、かまどに向かった。
俺は少し離れたところに座って、テアの背中を見た。
火を起こして、水を汲んで、鍋を置く。一つひとつの動作が、一ヶ月前とは別人だ。まだ迷いはある。でも手が動いている。考えながら動いている。それが大事だ。
スープの仕込みが進んで、根菜を切り始めたところで、テアが一度だけ俺を振り返った。
「厚さ、これくらいでいいですか」
「もう少し薄く。熱が均一に入るよう、全部同じ厚さで」
「はい」
テアが切り直した。均一だった。
俺は手帳に何かを書き込んでいるふりをしながら、その様子を見ていた。
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朝食は四人で食べた。
ゴードンが来て、エルナが来て、テアと俺と。
テアが作った朝食だということを、俺は最初に言わなかった。全員が食べてから、テアが「わたしが作りました」と言った。
ゴードンが少し目を細めた。
「……旨い」
テアが固まった。ゴードンから「旨い」という言葉を聞いたのは、たぶん初めてだった。
「本当ですか」
「わしは料理について嘘をつかん」
俺と同じことを言っていた。
テアが手帳を取り出して、何かを書き込んだ。「ゴードンさんに旨いと言ってもらえた」と書いたのが横から見えた。
エルナが「よく仕上がっています」と言った。「特にスープの塩加減が」と続けた。テアが「ルークさんに教わりました」と答えた。エルナが俺を見た。俺は根菜の炒め物を食べていた。
食べ終わってから、エルナに手紙を渡した。
「今日中に王都へ送ってもらえますか」
エルナが手紙を受け取った。封を確認した。
「条件を書きました」と俺は言った。「これが通れば、明朝出ます」
「内容を確認してもいいですか」
「どうぞ」
エルナが封を開けた。読んだ。
「……自分のための条件は何もないんですか」
「ありません」
「礼も、身分保証も」
「いりません」
エルナが俺を見た。少し考えるような顔をしてから、手紙を折り直した。
「承知しました。今すぐ送ります」
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午後はロッツと畑を回った。
最終確認というより、挨拶に近かった。ロッツはすでに十分に分かっている。俺が何を言っても「知っています」という答えが返ってきた。
「水はけの悪い東の区画は」
「雨の後に必ず確認します。水が溜まる前に溝を切ります」
「冬の根菜は」
「十月に入ったら種まきを始めます。場所はここで、間隔はこのくらいで、と書いてあります」と言って地図を出した。
「秋になると森の入口近くに出る茸は」
「食用と毒のものが似ています。最初の年は採取しないで、俺が戻ってきてから教えてもらいます」
俺は「戻ってから教える」という言葉を聞いた。
「戻ってくると思っていますか」
「思っています」とロッツが即答した。「ここが家だって言ってましたよね。家に帰らない人間はいない」
俺は頷いた。
「秋の茸は、戻ってから教えます」
ロッツが「約束ですよ」と言って、地図を丁寧に折り畳んだ。
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夕方、村人への挨拶まわりをした。
エルナがついてきた。「護衛が必要な状況ではないですが」と俺が言うと、「一緒に挨拶をしたいです」と答えた。
難民の老人二人には、長く話した。
一人は「お前さんが来なければ、俺はここで死んでいた」と言った。俺は何も言わなかった。言える言葉がなかった。ただ、「ロッツがいます。困ったことはロッツに相談してください」とだけ言った。
もう一人の老人は「旨い飯をまた食わせてくれ」と言った。「戻ったら作ります」と答えた。老人が「約束だぞ」と言った。
若い母親には、子どもの食事についての話をした。成長期の子どもに必要な食材と、調理の注意点を紙に書いて渡した。母親が受け取って、丁寧に頭を下げた。声が出なかったようだった。それでよかった。
カルには「畑を手伝ってやれ」と言った。「ロッツさんなら一緒にやれます」とカルが答えた。頼もしかった。
ネムには「また帰ってきたら、甘いものを作る」と言った。ネムが「いつ」と聞いた。「できるだけ早く」と答えた。ネムが「約束」と言って、小指を出してきた。俺は小指を絡めた。
ゴードンには、一番最後に行った。
老人は家の前で薪を割っていた。俺が来ても手を止めなかった。薪を一本割って、また一本割って、それから斧を置いた。
「挨拶に来ました」
「聞こえている」
ゴードンが俺を見た。何か言いたそうだったが、しばらく何も言わなかった。
「……お前が来る前、この村は終わりかけていた」
静かな声だった。
「わしは毎年、あと何年持つかと考えていた。若い者はいない。作物は減る。魔物は来る。国は助けてくれない。じわじわと縮んでいくのを、どこかで諦めていた」
俺は黙って聞いた。
「お前が来て、変わった。飯が旨くなっただけじゃない。人が増えた。笑い声が増えた。カルが畑に行くようになった。ロッツが来た。テアが来た」
ゴードンが一度だけ俺を見た。
「礼は言わん。礼を言うような柄じゃない」
「そうですね」
「ただ、必ず戻ってこい。それだけだ」
「はい」
俺は頷いた。ゴードンがまた薪割りを再開した。それ以上何も言わなかった。
エルナが「あなたは約束が多いですね」と横で言った。
「守れる約束しかしていません」
「全部守れますか」
「全部守ります」
エルナが「そうですか」と言って、少し前を向いた。
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夜は全員で最後の食事をした。
ゴードンが広場に場所を作ってくれた。難民の人たちも全員呼んだ。収穫祭のときと同じように、あるものを全部出した。
今回は俺だけでなく、テアが作ったものが半分入っていた。スープはテアが作った。根菜の炒め物もテアが作った。俺は魚の焼き物と、最後の一品だけを担当した。
最後の一品は、蜂蜜と木の実を使った焼き菓子にした。収穫祭のときより少し凝った作り方をした。木の実を二種類使って、蜂蜜の量を調整して、焼き色をいつもより濃くした。
全員に行き渡って、一口食べた瞬間に、ネムが「これ好き」と言った。
前に食べたものより旨い、ということが分かったらしかった。
「前より旨いです」とテアが言った。「何が違いますか」
「木の実を二種類混ぜた。一種類だと単調になる。二種類使うと、噛むたびに違う香りが出る」
「じゃあ三種類使ったらもっと旨くなりますか」
「多ければいいわけじゃない。二種類の組み合わせが正しいときは、三種類目が邪魔になる」
「難しいですね」
「何でも最初はそう感じる。慣れると分かるようになる」
テアが手帳に書き込んだ。
ロッツが「そういう話を聞けるのも今日で最後か」と言った。誰かが笑った。どこか寂しさが混じった笑いだった。
エルナがその様子を見ていた。俺が横目で見ると、普段の騎士の顔ではなかった。ただここにいる人間の顔をしていた。
「明日から道中の護衛は任せてください」とエルナが言った。「王都までは私が責任を持ちます」
「よろしくお願いします」
「そして王都から戻るときも」
「帰り道も一緒に来てもらえますか」
「当然です」
エルナが断言した。それ以上何も言わなかったが、その一言で十分だった。
ゴードンが「賑やかになったもんだ」と言った。誰に言ったわけでもなかった。ただ、広場を眺めながら、独り言のように言った。
一ヶ月前、この村には二十人の村人がいた。今は難民を加えて三十人近い。全員が今夜、同じ場所で飯を食っている。
火が落ちてきた頃、テアが俺の隣に来た。
「ルークさん」
「なんだ」
「明日、見送りに行っていいですか」
「当たり前だ」
「……泣くかもしれません」
「泣いていい」
「ルークさんは泣きますか」
俺は少し考えた。
「分からない。たぶん泣かない」
「なんでですか」
「帰ってくるつもりでいるから」
テアが俺を見た。しばらく何も言わなかった。それから、「じゃあわたしも泣かないようにします」と言った。
「泣いていいと言った」
「でも、ルークさんが帰ってくるなら、泣く必要がないかもしれないから」
テアが少し笑った。泣きそうな顔のまま、笑った。
俺は火を見た。
今夜の飯は旨かった。テアが作ったスープも、俺が作った焼き菓子も、全部旨かった。全員が食べた。全員の顔が見えた。
これが今日で最後じゃない、と俺は思った。
帰ってきたら、また作る。それだけだ。
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翌朝、夜明けに起きた。
エルナがすでに外で準備をしていた。馬の手配は前日のうちに終わっていた。道中の食料は昨夜のうちに俺が準備した。荷物はほとんどない。包丁二本と砥石、着替え、それと村の食材で作った道中用の保存食。
空き家を出る前に、一度だけ中を見回した。
かまどがある。テアが使いやすいように、薪の置き場所を変えた。食材の棚の配置も、テアに合わせて直した。鍋の場所も。包丁は、テア用に一本残した。俺が研いで置いていった。
テアへの引き継ぎ書きが棚の上にある。ロッツへの地図の写しも一部残してある。ゴードンへの食材一覧も、村長の家に届けた。
何も持っていかなかった。全部ここに置いていく。
包丁二本と砥石は持っていく。それだけでいい。料理人に必要なのはそれだけだ。どこに行っても、それさえあれば飯が作れる。
ここに帰ってくる、という意味で、他は全部置いていく。
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村の入口に、全員が集まっていた。
ゴードンが先頭に立っていた。その後ろに老人たち、ロッツ、若い母親と子ども、カル。
ネムが前の方に出てきて、小指を立てた。昨夜の約束を確認するように。
俺は小指を絡めた。「甘いものを作る」と言った。ネムが頷いた。
カルが「早く帰ってきてください」と言った。「なるべく早く」と答えた。
ロッツが「秋の茸を待っています」と言った。「戻ったら案内します」と答えた。
ゴードンが何も言わなかった。俺も何も言わなかった。目が合って、ゴードンが小さく頷いた。それで十分だった。
テアが最後だった。
全員の後ろに立っていた。泣かないようにしていると分かる顔だった。唇を結んで、目が少し赤い。
「ルークさん」
「なんだ」
「また戻ってきますよね」
俺はテアを見た。
一ヶ月前、路傍で倒れていたときと同じ目をしていた。あのときは怖かったのだろうと、今なら分かる。また捨てられると思っていたのだと、今なら分かる。
今のテアは違う。怖いのではなく、確かめたいのだ。答えを知っているのに、聞かずにいられない。それはもうあの頃とは違う。
「ああ」
俺は答えた。
「ここが俺の家だから」
テアが一度だけ、目をつぶった。それから開いた。
「行ってらっしゃい」
俺は馬に乗った。エルナが隣に並んだ。
村の入口から、道が続いている。王都まで三日の道だ。
馬を進めた。
エルナが隣に並んだ。村から続く道が、少しずつ細くなっていく。
「道中三日です。今日は峠を越えて、明日は街道に出ます。王都には三日目の昼に着けるはずです」
「食料は十分ありますか」
「昨夜あなたが作ったものがあります。二日分は余裕を持って持てました」
「昼と夜の分は別々に包んであります。昼のものは包みに印をつけてあるので間違えないように」
「……細かいですね」
「食事の時間くらいは正確に管理したい」
エルナが「そうですね」と言った。少しだけ笑った気がした。
振り返らなかった。
振り返る必要がなかった。
帰る場所がある人間は、振り返らなくていい。
次に会う時には、もっと旨い飯を作ってやる、とだけ思いながら、俺は王都への道を進んだ。




