第7話「王国の使者と、エルナの選択」
使者の名前はクロイツといった。
三十代後半、がっしりした体格で、王国の紋章が入った外套を几帳面に着込んでいる。顔つきは険しくも穏やかでもなく、ただ仕事をしている人間の顔だった。悪意があるわけではない。ただ命令を持ってきた。そういう種類の人間だ。
俺は朝のスープを火から下ろして、クロイツに向き合った。
「読みましたか」
「読みました」
「返答は」
「今すぐには難しいです」
クロイツが少し眉を動かした。
「陛下が倒れられています。一刻を争う状況です」
「それは分かっています。ただ、今すぐここを離れると、この村に問題が起きます」
「問題とは」
「食料の管理、魔物への対策、畑の回復。今俺がいなくなれば、全部が途中で止まります」
クロイツが俺を見た。算段しているような目だった。
「それは口実ではないですか」
「口実ではありません。この村に来た日から今まで、俺がやってきたことです」
「しかし国王陛下のご病状は——」
「一週間だけ待ってもらえますか」
「一週間」
「その間に、俺がいなくてもある程度まわるよう、引き継ぎをします。完璧にはなりませんが、急にゼロになるよりはましです」
クロイツがしばらく黙った。
俺はその間も、スープのことを気にしていた。火から下ろしたが、蓋を閉めておけばまだ温かいはずだ。朝食の時間が迫っている。
「……持ち帰って上に確認します。ただし、その間もここを動かないでいただく必要があります」
「どこにも行くつもりはありません」
「分かりました。今日中に返答を——」
「ルークさんに、何か御用ですか」
後ろから声がした。
テアだった。
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テアは空き家の戸口に立って、クロイツを見ていた。
子どもの顔だが、目が据わっていた。眠そうな顔のまま、真剣な目をしていた。
「王都からの使者です」とクロイツが言った。「ルーク・アッシュフォードを王都へ連行する命令を持っています」
「連行」
テアが繰り返した。
「はい。国王陛下の——」
「ルークさんは、この村の人たちのために料理を作っています」
テアが静かに、しかしはっきりと言った。
「ルークさんがいなくなったら、この村の人たちが困ります。難民の人たちも困ります。魔物も来るかもしれません。それでも連行しなければいけないんですか」
クロイツが少し言葉に詰まった。
「それは……陛下の命令ですので」
「王様の命令は、村の人たちの命よりも大事なんですか」
テアが言った言葉は、感情的ではなかった。怒鳴ってもいない。ただ、真っ直ぐに聞いた。
クロイツが答えに困った顔をした。
「そういう……問題ではなく」
「ルークさんが来るまで、この村のゴブリン被害はひどかったと聞きました。ルークさんの料理が畑を回復させました。隣の領地から来た難民の人たちも、ルークさんの料理で助かっています。それが全部、今日でなくなるんですか」
クロイツが俺を見た。
助けを求めるような目だった。
「テア、少し落ち着け」
「落ち着いています」
「……そうだな」
確かにテアは落ち着いていた。声が震えていない。ただ、真剣だった。
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ゴードンが来たのは、それから少ししてだった。
どこから聞いたのか、村の老人も二人ついてきた。難民のロッツも、後ろの方に立っていた。カルが塀の上から覗いていた。
ゴードンがクロイツの前に立った。
「村長のゴードンだ」
「これは……」
「お前さんが持ってきた命令は読んだ。ルークを連れていくという話だな」
「そうです。国王陛下の——」
「聞いた」
ゴードンが短く遮った。
「この村はここ十年、干ばつと魔物に苦しめられてきた。国に助けを求めたが、返事はなかった。誰も来なかった。作物は減り、若い者は出ていき、残ったのは老人と子どもだ」
クロイツが黙って聞いていた。
「ルークが来て、変わった。畑が戻った。魔物が来なくなった。隣の土地から来た者たちが飯を食えるようになった。それはお前さんの王様が何かしてくれたわけじゃない。この男が、一人でやったことだ」
「……それは理解できます。しかし——」
「分かった上で聞く」
ゴードンがクロイツをまっすぐ見た。
「お前さんは、この村から唯一の支えを取り上げに来た。そういうことでいいか」
クロイツがまた言葉に詰まった。
使者の立場からすれば、それは正確な表現ではないかもしれない。国王が危篤で、最善の手を尽くしているのは本当のことだろう。悪意があってここに来たわけでもない。
ただ、ゴードンの言葉は事実だった。
「……三十日の猶予をいただけないでしょうか」
エルナが前に出た。
全員が振り向いた。
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エルナ・ヴァルトは騎士の姿勢で立っていた。背筋が真っ直ぐで、声が静かで、目が動いていなかった。
クロイツがエルナを見て、眉を上げた。
「ヴァルト中尉。あなたはここに」
「調査のために残留しています」
「調査は終わったはずでは」
「まだ終わっていません」
エルナが言い切った。
「三十日の猶予を要請します。その間に、アッシュフォードがいなくてもこの村が機能する体制を整えます。それが整えば、本人も動きやすくなる」
「しかしヴァルト中尉、陛下の状態は——」
「陛下が倒れられた原因は、食事の問題だと伝わっています。三十日で陛下の状態が決定的に悪化するとは考えにくい。侍医の見立ては何日猶予があると」
クロイツが少し口を閉じた。
「……二ヶ月は持つだろう、と」
「であれば三十日は十分に交渉の余地がある。私が保証します。三十日後に、アッシュフォードが自ら王都へ向かうよう説得します」
「あなたにその権限は——」
「私の身分で届かなければ、上官のベルク将軍に掛け合ってください。将軍は私を知っています」
クロイツが黙った。エルナを見て、それからゴードンを見て、それからテアを見た。それから俺を見た。
「……返答は本日中にします」
クロイツが馬に向かった。
馬蹄の音が遠ざかっていく間、広場は誰も動かなかった。
最初に動いたのはテアだった。
俺の隣に来て、服の裾を少し引いた。
「……よかったですか。言いすぎましたか」
「よかった」
「本当に?」
「本当に」
テアが少し肩の力を抜いた。「よかった」と小さく言った。今度は安堵の声だった。
ゴードンが俺を見た。何かを言おうとして、やめた。それから「朝飯はどうなった」と言った。
「スープが冷めています。温め直します」
「……そうしてくれ」
俺はかまどに向かった。スープに火を入れながら、今の交渉を振り返った。
一週間と言いたかったが、エルナが三十日と言った。三十日の方が現実的だ。一週間では足りない。三十日あれば、引き継ぎの形ができる。
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クロイツが馬で村を出ていった後、広場は静かになった。
全員がまだそこに立っていた。ゴードン、テア、村の老人たち、ロッツ。塀の上のカルが「どうなった?」と聞いた。誰も答えなかった。
エルナが俺の方を向いた。
「勝手なことをしました」
「いいえ」
「あなたの意向を確認せずに、三十日と言ってしまいました」
「丁度よかったです」
「三十日で引き継ぎができますか」
俺は少し考えた。
完璧にはならない。ただ、今すぐゼロよりはずっとましにできる。食材の知識、調理の基本、畑の管理。一人では抱えきれないが、テアとロッツがいれば、最低限は伝えられる。
「やります」
「……ありがとうございます」
エルナが短く言った。
「なぜ」と俺は聞いた。
「何がですか」
「あなたは命令に逆らいましたね。さっき。クロイツに、まだ調査が終わっていないと言った。残留命令があったわけじゃないでしょう」
エルナが少し間を置いた。
「……なかったです」
「それでも」
「はい」
「なぜ」
エルナがゴードンたちの方を見た。それからテアを見た。テアがエルナを見ていた。
「昨日の夜」
エルナが静かに言った。
「焚き火の前で、あなたに言いました。ここにいます、と」
「言いましたね」
「あの言葉は、私が自分で選んで言いました。命令ではなかった」
エルナがまっすぐ俺を見た。
「今日も、自分で選びました。命令に逆らうことの意味は分かっています。報告が上がれば、処分があるかもしれない。それでも——」
「それでも」
「ここを守る方が、今日の私にはできることだと思いました」
俺はエルナを見た。
騎士として十年以上、命令に従い続けた人間が、今日初めて命令より自分の判断を取った。それがどれだけのことか、この人には分かっているはずだ。
あの日、俺の追放が決まったとき、止められなかったと言っていた。命令に逆らう理由が見つけられなかった、と。
今日は見つかった、ということだろう。
ここに残ると決めた夜から、この人は少しずつ変わってきていた。剣の使い方が変わったわけではない。声のトーンも、姿勢も同じだ。ただ、何かの優先順位が変わった。それだけだ。
それだけのことが、今日の「三十日」を生んだ。
「分かりました」
俺は言った。
「三十日、よろしくお願いします」
エルナが頷いた。
テアが「エルナさん、かっこよかったです」と言った。エルナが「……ありがとう」と言って、少し顔を逸らした。
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その夜、クロイツが戻ってきた。
返答は、三十日の猶予を認める、というものだった。ただし条件が二つ。一つは、三十日後に必ず王都へ向かうこと。もう一つは、エルナが期間中ルークの動向を監視し、報告書を提出すること。
エルナが「承知しました」と答えた。
クロイツが去って、ゴードンが「三十日か」と言った。短いな、という意味に聞こえた。
「短くはないです」と俺は言った。「やれることをやります」
ゴードンが頷いた。
テアが「わたしも覚えます。ルークさんのやることを全部」と言った。
「全部は無理だ」
「全部やります」
「そうか」
テアの目が本気だった。俺は少し考えた。テアはこの一ヶ月で、水の汲み方、野草の選び方、火の管理の基本は身についている。料理そのものより、食材の扱いと火加減を教えれば、最低限のものは作れるようになるかもしれない。
「じゃあ明日から、本格的に教える。ただし俺の言った通りにやること。自分流に変えるのは、基本ができてからだ」
テアが「はい」と背筋を伸ばした。
ロッツが「俺も畑の方は頼まれていいか」と言った。「農夫だったんで、土のことは分かる。あんたが教えてくれた食材の場所も、引き継いでいい」
「助かります」
「飯が旨かったんで」
ロッツが照れたように言った。「ここに居られるなら、居たい。飯のためだけでも」
笑い声が上がった。
ゴードンが「馬鹿なことを言うな」と言ったが、口元が少し緩んでいた。
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夜が更けて、全員が帰った後、俺は一人でかまどの前に座っていた。
三十日。
短くはない、と言ったが、正直なところ足りるかどうか分からない。食材の知識は一ヶ月で全部伝わらない。火加減の感覚は体で覚えるしかなく、それには時間がかかる。畑の管理は、ロッツが引き継いでくれるとはいえ、土地の癖を掴むまでには何度も失敗する。
それでも。
テアがいる。ロッツがいる。エルナがいる。ゴードンが村を守る。
一人では足りないが、全員でやれば、なんとかなるかもしれない。
料理というのは、最終的にそういうものだと俺は思っている。一人で豪華な一品を作るより、複数の人間がそれぞれの仕事をして、全体として旨いものが出来上がる。宮廷の厨房でもそうだった。一番旨い料理は、チームが最も噛み合った日に生まれた。
この村も、今そういう状態に近づいている。
テアが食材を選ぶ目を持ち、ロッツが畑を管理し、エルナが村を守り、ゴードンが人をまとめる。俺がいなくなっても、それぞれが役割を持てば、全体として機能する。
完璧にはならない。
でも、十分になる。
そのための三十日だ、と俺は思った。
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翌朝から、引き継ぎが始まった。
テアへの最初の授業は、火加減だった。
かまどの前に二人で座って、俺が火を調整する手元をテアに見せた。強火と弱火の切り替え、薪の足し方、鍋の位置の動かし方。説明しながらやって、次にテアにやらせた。
「もう少し薪を後ろに引いて」
「こうですか」
「そう。そのまま三十数えて、鍋を少し手前に」
テアが真剣な顔で数えた。唇を動かして、声には出さずに数えていた。鍋を動かした。
「……これで、合っていますか」
「合っています」
テアが少しだけ顔を緩めた。すぐにまた真剣な顔に戻った。
「次は何ですか」
「今日はここまでだ」
「もっとやります」
「焦ると覚えない。一日一つだ」
テアが「えー」という顔をした。
「ルークさんは三十日で全部教えられるんですか」
「無理だ」
「じゃあ急いで教えてください」
「急いで教えたら、雑になる。雑な火加減は、飯を雑にする」
テアが唇を結んだ。考えている顔だった。
「……分かりました。一日一つ」
「そうだ。ただ、一日一つを絶対に忘れるな」
「忘れません」
テアが言い切った。俺はその顔を見た。
この子は、約束を守る。それはこの一ヶ月で分かっていた。
ロッツへの最初の引き継ぎは、食材の採取場所だった。
森の入口から歩いて、俺が見つけた野草の群生地を全部案内した。ロッツは黙って地図を書き取っていた。字が丁寧で、略図が正確だった。農夫として長年土地を読んできた人間の目をしていた。
「ここは季節によって変わりますか」と聞いた。
「春と秋は種類が増えます。冬は根菜が中心になります。この辺りの森は比較的豊かなので、冬でも何かしら使えるものがあります」
「了解です」
ロッツが地図に書き加えた。
帰り道、「あんたは引き継ぎが上手いな」とロッツが言った。
「そうですか」
「惜しむ様子がない。俺だったら教えるのを少しためらうかもしれん」
「なぜためらうんですか」
「自分がいなくても大丈夫、ってなったら、自分の価値がなくなりそうで」
俺は少し考えた。
「そういうふうに考えたことがないので、よく分かりませんが」
「料理人ってそういうものですか」
「飯は食われてなんぼです。食べてもらえれば、誰が作ったかは関係ない」
ロッツが「なるほど」と言って、また地図に何かを書き加えた。
少し歩いてから、ロッツが続けた。
「俺、故郷の村を出るとき、自分が情けないと思った。守れなかった。作物を作り続けてきたのに、干ばつ一つで村を失った」
俺は黙って聞いた。
「ここに来て、飯を食わせてもらって——なんか、もう一回やれる気がしてきた。土を触るのが、また怖くなくなった」
「それは」と俺は言った。「畑のことを頼んで、よかったです」
「俺の方こそ」
ロッツが地図を丁寧に折り畳んだ。
「三十日、精いっぱいやります」
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三日目の夕方、エルナが俺に声をかけてきた。
「少しいいですか」
「どうぞ」
「王都への報告書を書かなければならないのですが——内容を確認してもらえますか」
エルナが紙を差し出した。受け取って読んだ。
丁寧な文章だった。ルークの滞在状況、村への影響、スキルの確認、三十日間の引き継ぎ計画。事実だけが書いてあった。誇張もなく、不足もない。
一箇所だけ、俺が気になったところがあった。
「ここ」と俺は言って、ある一文を指した。「『ルーク・アッシュフォードは三十日後の王都への移動に同意している』とありますが」
「書いてはいけませんでしたか」
「俺は同意とは言っていません。三十日後に向かう、と言いました」
エルナが少し考えた。
「……違いは」
「同意というのは、納得して賛成するという意味です。俺は納得していません。ただ、条件を受け入れると言っただけです」
エルナが俺を見た。
「……修正します」
「お願いします」
エルナが紙を書き直した。それから、書き直した紙をもう一度俺に見せた。
今度は「移動することに応じた」という表現になっていた。
「これでどうですか」
「十分です」
「……あなたは、細かいですね」
「料理人ですから。分量と表現は正確にしないと、仕上がりが変わります」
エルナが「なるほど」という顔をした。それから少し笑った。声には出なかったが、確かに笑った。
「三十日、よろしくお願いします、アッシュフォード」
「こちらこそ」
俺は言った。
「あなたが今日、命令に逆らってくれたことで、この三十日ができました。ありがとうございます」
エルナがまた少し顔を逸らした。
「……礼はいいです。私がやりたくてやったことなので」
「そうですか」
「そうです」
エルナが報告書を丁寧に折り畳んだ。
「では、明日からも引き続き森の警戒をします。何か変わったことがあれば報告します」
「お願いします。あと、食事は三食きちんと取ってください」
エルナが立ち止まった。
「……分かっています」
「好き嫌いが多いのは知っていますが、出したものは残さないように」
「分かっています」
「野菜も食べてください」
「分かって——」
「特に昨日の葉野菜は——」
「アッシュフォード」
エルナが振り返った。
「うるさいです」
「そうですか」
「……ありがとうございます」
エルナが歩いていった。
その背中を見ながら、俺はかまどに向かった。
夕飯の時間だ。三十日分の最初の一食。
丁寧に作ろう、と思った。
三十日後のことは、三十日後に考える。今日できることを今日やる。テアに火加減を教えた。ロッツに採取場所を案内した。エルナの報告書を確認した。それだけで今日は終わりだ。
包丁を取り出した。
今夜の食材は、ロッツが新しく見つけてきた根菜が入っている。「一緒に歩いたら見つけた」と言って、夕方持ってきた。使えるかどうか、まだ分からない。とりあえず一口食べて確かめる。旨ければ使う。旨くなければ今日は見送る。
料理はいつもそこから始まる。




