第3話「この飯、おかしい——魔物すら寄ってこなかった」
ゴードンに「好きにしろ」と言われてから一週間が経った。
村での暮らしは、思っていたより悪くなかった。
朝に起きて、食材を探しに行く。川、森の縁、畑の脇。毎日少しずつ歩く範囲を広げると、少しずつ使える食材が増えていく。昼に仕込みをして、夕方に調理する。夜に翌日のメニューを考えて眠る。
王宮の厨房と違うのは、誰も急かさないことだ。
一の膳は何時、二の膳は何時、陛下の好みはこうで、大臣の食い合わせに気をつけろ。あの厨房には常に誰かの要求があった。悪くはなかったが、常に緊張していた。
ここでは誰も俺に何も要求しない。ゴードンは俺の料理を黙って食べてから「悪くない」と一言だけ言う。テアは毎回「おいしい」と言って皿の縁まで舐める。村の子どもたちが空き家の窓から匂いを嗅ぎに来るようになっていた。
俺にはそれで十分だった。
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異変が起きたのは、村に来て八日目の夜のことだ。
その日の夕食は少し手が込んでいた。
森の奥で見つけた根菜——見た目は地味だが、じっくり焼くとでんぷんが糖化して驚くほど甘くなる——をメインに据えた献立だ。それに川魚の干物を戻して、森の香草で煮込んだスープ。仕上げに摘んできたばかりの野草を刻んで、香りを最後に乗せる。
火加減が難しい料理だった。根菜は弱火で時間をかけないと中まで火が通らない。スープは沸騰させすぎると出汁が濁る。二つを同時に管理しながら、香草を加えるタイミングを見計らう。
「いい匂い……」
テアが鍋を覗き込んできた。
「まだだ。もう十分かかる」
「十分も待つんですか」
「待てないなら外で遊んでいろ」
テアが頬を膨らませて、それでも鍋から離れなかった。
俺は火加減を調整しながら、窓の外を見た。日が沈んで、空が暗くなり始めている。森の輪郭が夜の闇に溶けていく。
風が変わった。
ほんの少しだけ、空気の匂いが変わった。土と草の匂いに、何か別のものが混じった。
獣の匂いだ。
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「ゴブリンだ」
戸の外から声がした。男の声、若い。村の青年で、見張りを任されているらしかった。
「三十は下らない。東の森から出てきた。今から村に来る」
俺は鍋を火から下ろした。
ゴードンが走ってきた。この一週間で一番速い動きだった。
「アッシュフォード、お前と子どもは空き家の中に入っていろ。戸に鍵をかけて出てくるな」
「村人は」
「仕方ない。やれるだけやる」
この村に戦える人間はほとんどいない。老人と子どもが大半で、武器になるものといえば農具くらいだ。三十のゴブリンが来れば、それで終わりだ。
俺は少し考えた。
「鍋、外に出してもいいですか」
「は?」
「今日の夕飯です。せっかく作ったので」
ゴードンが俺を見た。正気を疑うような目だった。それは正しい反応だと思う。ゴブリンが来るという時に、飯の話をするのは普通ではない。
ただ、この料理を捨てるのは惜しかった。根菜を焼くのに一時間かけた。香草を選ぶのに半時間かかった。
「馬鹿なことを言うな。早く中に入れ」
「分かりました」
俺はテアを引っ張って、空き家の中に入った。戸を閉めて、鍵をかけた。
ただ鍋は、かまどの脇に置いたままにした。
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暗くなった空き家の中で、俺とテアは息を潜めていた。
テアが俺の袖を両手で握っていた。震えているのが伝わってくる。怖いのだろう。当然だ。故郷を失ったのも魔物のせいだと聞いていた。
「大丈夫だ」
俺は言った。根拠はなかったが、言った。
「……はい」
テアが小さく頷いた。
村の外から声がした。ゴードンが何か指示を出している。農具を持った村人たちが集まっている気配がある。子どもの泣き声も聞こえた。老婆が何かを祈るような声で唱えている。
鍵のかかった戸の隙間から、かまどの脇に置いた鍋が見えた。蓋の隙間から薄く湯気が漏れている。根菜の甘い匂いと、香草の清々しい香りがまだ漂っている。
足音がした。複数の、不規則な足音。引きずるような、短い歩幅の。
ゴブリンだ。村の入口まで来た。
ゴードンの声が大きくなった。農具が地面を叩く音がした。村人たちが声を上げて威嚇している。
それから。
静かになった。
静かすぎた。
悲鳴がない。武器がぶつかる音もない。ゴブリンが叫ぶ声もない。
テアが俺の袖を握ったまま「……来ない」と囁いた。
「ゴブリン、来ていません」
俺は耳を澄ませた。確かに何も聞こえない。風の音と、遠くで梟が鳴く声だけがある。
十分ほどが経って、ゴードンが戸を叩いた。
「開けろ」
俺は鍵を外した。ゴードンが立っていた。その表情は俺がこの一週間で初めて見る顔だった。困惑というより狼狽に近い。後ろに村人が数人いた。全員が同じような顔をしていた。
「どうなっています」
ゴードンがしばらく黙った。
「……来なかった」
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話を聞くと、こういうことだった。
ゴブリンの群れは確かに東の森から出てきた。見張りの青年が数を数えたところ三十二匹。いつもの倍以上だ。ハルム村は毎月のように被害を受けていた。今回も同じだと思っていた。
ところが群れは村の手前三十歩のところで止まった。
止まった、というより壁にぶつかったような動きだったと、見張りは言った。先頭のゴブリンが何度か前に出ようとして、そのたびに後退した。まるで見えない何かを恐れているように。やがて群れ全体がざわつき始めて、一頭がくるりと向きを変えた。それを合図に全員が森に引き返した。
声を上げることも、暴れることもなく。ただ静かに、来た道を戻っていった。
「信じられんが、そういうことだ」とゴードンは言った。
その場にいた村人が七、八人。全員が俺を見た。何かを期待するような、あるいは疑うような、複雑な目つきだった。
俺はかまどの脇に目をやった。
鍋が置いてある。根菜の焼き物と香草スープ。蓋をしていたが、隙間から湯気が少し漏れている。あの匂いは村の入口まで届いていたはずだ。
「……飯の匂いのせいじゃないか」
俺は言った。
「何?」とゴードンが聞いた。
「匂いが漏れていました。香草を多めに使ったので」
「香草の匂いで魔物が退くのか」
「分かりません。ただ、他に心当たりがないので」
村人たちがざわついた。「そんな馬鹿な」という声と、「でも確かにあの匂いは変だった」という声が混じった。
ゴードンがじっと俺を見た。それから鍋を見た。それから俺を見た。
「……ひとつ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前、本当に何者だ」
「料理人です」と俺は答えた。「外れ職業の」
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その夜は全員で飯を食った。
騒ぎを聞いて集まってきた村人たちが、空き家の前に座り込んだ。大人も子どもも老人も、全員だ。鍋の中身はとても足りなかったが、俺はあるものを全部出した。根菜の焼き物は二切れずつ。スープは椀に半分ずつ。
量より質だ、と俺は常々思っている。少なくても、旨ければ腹に入ったときの満足感が違う。
全員が無言で食べた。
最初に声を上げたのは、一番端に座っていた老婆だった。さっきまで何かを祈っていた人だ。
「……旨い」
ぽつりと言った。それから誰かが「旨い」と言って、また誰かが言った。子どもが追加を要求して、ゴードンに頭を小突かれた。見張りの青年が「こんな飯、生まれて初めて食った」と言って、隣の老人に「大げさなことを言うな」と咎められていた。
テアが俺の隣に座って、自分の椀を大事そうに両手で持っていた。
「やっぱりルークさんのせいです」
小声で、俺にだけ聞こえるように言った。
「根拠は?」
「なんとなく。あの匂いが変わっているんです。普通の料理と匂いの種類が違う。魔力みたいなものが、混じっている気がします」
俺は椀の中のスープを見た。香草、魚の出汁、根菜の甘み。使った食材はごく普通のものだ。調理方法も特別ではない。ただ火加減と香草の配合に少し気を使っただけだ。
「気のせいじゃないか」
「気のせいじゃないと思います」
「まあ、旨けりゃいいんじゃないか」
テアが「もう」という顔をした。俺は椀の中を飲み干した。
向かいでゴードンが俺を見ていた。何かを言おうとして、やめた。それを二回繰り返してから、老人は静かにスープを飲み干した。
飲み干してから、ゴードンはもう一度だけ俺を見た。言葉はなかった。ただ、最初に会ったときとは目の色が違った。あの「値踏みしている目」ではなく、もう少し別の、柔らかいものが混じっていた。
俺はそれを見て、何も言わなかった。言う必要がないと思った。
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翌朝、見知らぬ男が空き家の前に立っていた。
王国の紋章が入った外套を着ている。馬に乗ってきたらしく、村の外れに馬をつないであった。年は三十前後、鋭い目をした男だ。手帳を持っている。
「あなたが料理人のルーク・アッシュフォード?」
「そうですが」
「王国からの伝令です。この辺境に追放された料理人がいると報告があり、実情を確認しに参りました。昨夜の騒ぎのことも聞いています」
「昨夜の騒ぎというと」
「ゴブリンの群れが、村の手前で引き返した件です」
男は手帳に何かを書き込みながら話を続けた。
「ひとつ確認させてください。昨夜、料理をしていたそうですね」
「していました」
「何を使いましたか」
「根菜の焼き物と、香草のスープです。地元の食材だけです」
男が書き込む手を止めて、俺を見た。
「普通の料理人が、普通の食材で作った。それだけのことだと」
「そう思っています」
男が少し間を置いた。外套の胸元に手を当てて、何かを確かめるような仕草をした。
「アッシュフォード。あなたのことを知っている者が王都にいます。十年間、宮廷料理の最前線にいた人間だと聞きました」
「それがどうかしましたか」
「あなたが作る料理が、普通のものだとは思えない。そう、上の者たちが言い始めています。騎士の体力回復が早いとか、食後に魔力の通りが良くなるとか、そういう話が宮廷に出回っていたそうですね」
俺は少し考えた。
そういう評価は確かにあった。強化効果が上がった、回復が早まった、体調がいい。けれど料理の味について言及されることはなかった。そういう評価ばかりが先に立って、俺はずっとそこに違和感を覚えていた。
「……俺にはよく分かりません」と俺は言った。「ただ飯を作っているだけです」
「結果的に魔物を退けたことについては?」
「香草の使い方を工夫しただけです。偶然かもしれない」
男がまた手帳に何かを書いた。それからゆっくりと顔を上げた。
「正直に申し上げます。今回の件は報告書に記載します。内容によっては、王都からさらなる使者が来る可能性があります」
「承知しました」
「それだけですか。驚かないんですか」
「驚いても飯は旨くなりません」
男が俺を見た。初めて表情が変わった。苦笑いに近い顔だった。
「……了解しました。報告しておきます」
それだけ言って、男は馬に戻っていった。蹄の音が遠ざかって、村の入口を抜けて消えた。
俺はその背中を見送りながら、今日の食材のことを考えた。昨日の根菜がまだ残っている。今日は別の調理法を試したい。薄く切って高温で焼く。表面に香草の油を塗って、一気に焼き上げる。カリッとした食感が出るはずだ。
「ルークさん」
テアが戸口に立っていた。
「あの人、何でした?」
「王都からの使者らしい」
「王都?」テアの顔が少し曇った。「ルークさんを、連れ戻しに来たんですか」
「まだそういう話じゃない。様子を見に来ただけだ」
「でも、そのうち来るかもしれない」
俺は少し考えた。そうかもしれない。そうでないかもしれない。今は分からない。
「ルークさんがここを出て行かなければならなくなったら」
テアが言葉を選ぶように続けた。
「わたしもついていきます」
俺はテアを見た。
一週間前、路傍で倒れていた子どもが、今こういうことを言っている。
「そうか」と俺は言った。「まあ、まだそうなると決まったわけじゃない」
「でも」
「腹が減ったら言え。朝飯を作る」
テアが何か言いかけて、やめた。それから少しだけ笑って、頷いた。
俺はかまどに火を入れた。根菜を切り始めた。昨日より薄く、均一に。火の通りが均一になるよう、厚みを揃える。包丁の音が、朝の空き家に響いた。
隣でテアが袖をまくって「お手伝いします」と言った。
「水を汲んできてくれ」
「はい」
走っていく足音を聞きながら、俺は切った根菜を並べた。
王都の使者のことは、今は考えなくていい。今日の飯が旨ければ、それでいい。
悪くない朝だと、今日も思った。




