3話 猫の意識
窓ガラスの向こうで小鳥が鳴いている。
木々の枝から枝へ動き回る小動物。
澄み切った青空には鳥が舞い、虫が窓にくっついてその体の裏側を晒している。
手で窓ガラスをつつき、喉を鳴らし、耳は絶え間なく音を拾い、瞳孔は動くものを素早く確認していく。
目の前を何か虫が飛んだ。
猫の手は素早くそれを叩き落とす。
うげ……
でかい蛾……
猫はひっくり返った蛾をパシパシと叩く。
やめて……
こんな至近距離で……
気持ち悪……
『アウリ! もう呼んでるのに!』
「フニャッ!」
突然抱え上げられて変な声が出て、脈が速くなった。
そしてまた素早く布に包まれてしまった。
「ニャーン!」
『ニャーンじゃないですわ。ようやくお姉様に会っても良いと許可が出ましたのに』
『ミレナ姫様。やはりアウリも連れていくのですか?』
『当たりまえですわ。魂が戻るかもしれないですもの』
また暗くて狭い箱に入れられる。
目はすぐに慣れ、器に腸詰が載っているのが見える。
猫はその血生臭い匂いを嗅いで舐めた。
これ、食べるの?
猫が何かに夢中になっているとき、撫でられて安心しているときに、わたしは猫の意識の中で目が覚めることに気がついた。
猫は躊躇いもなくかぶりつき、肉汁が滴り落ちる。
うげ……と思ったが、体は言うことを聞かない。どうやら猫は満足しているようだけど、わたしは生の腸詰が目の前で消えていくのをただ眺めるしかなかった。
味までわからないのは幸いだ。
猫は満足げに手を舐めては顔を拭っている。
暗い箱に入れられて、ワゴンのようなものに乗せられてどこかに移動しているのはわかる。ゴトゴトギィギィと嫌な音がしている。
箱の隙間から外がチラチラと見えた。
肖像画だ……
あっ! もう少し見せてよ!
猫の視線が一瞬で、肖像画から目の前の皿に切り替わった。
見たい! 見せて!
わたしは猫の体を強引に動かそうとした。
あの絵をみたい!
動いた!
でも思い通りに猫の頭を上げたときには、隙間からはもう肖像画は見えなかった。
でも帰りにまたチャンスがあるはず。
がっくりと力が抜けるとまた猫に体を取られた。
猫は名残惜しそうにピチャピチャと皿を舐めている。
それを眺めながら意識の中で溜息をついた。
もしわたしの意識がわたしのままだったらこの猫の体を維持するための餌は絶対に食べられなくなる。
人の意識を持ったまま猫になるのはハードルが高いと改めて思う。
まもなくして目的地に着いたようで扉が開いた。
猫は揺れる箱の中でまどろんでいた。
大丈夫。
まだ意識は残ってる。
『お姉様!』
少女が何かを叫んだのが聞こえた。
そして箱が開けられ、抱え上げられる。
猫は手足を硬直させた。
寝台の上で可憐なうら若き女性が横たわっていた。
豪奢な長い金髪、白い肌、ほっそりとした腕が掛け物の上から見えた。
静かに胸が上下している。
生きてる……綺麗なひと……
「ニャーン!!」
猫が抗議の声を上げた途端、わたしの意識が遠くなっていく気配がした。
『お姉様。ミレナです。お姉様の魂を連れてきました。どうか、目を開けてくださいませ!』
抱き上げられた猫は抵抗し始めた。
待って。
きっと今、かなり大事なところだから。
少女の必死な声が響く。
『お姉様、目を覚ましてくださいませ』
そして祈るように寝台のそばにうずくまった。
後ろに立つ大きな人間にしっかりと猫は拘束されている。
逃げ出そうともがくが、その度にさらに巻きついた布がきつくなっていく。
「ニャーッ!!」
わたしに伝わるのは猫が不快と感じる感覚だけ。
そして次第に意識が猫に飲み込まれていく。
だめ。言うことを聞いて。
完全に意識が飲み込まれるともう何も感知できなくなる。
『姫様。気が済みましたでしょうか?』
『お姉様。……起きてくださいませ』
少女は泣いていた。
「みゃーん」
しばらくして猫は少し甘えた声を出した。
『アウリ……ありがとう。行きましょう』
また箱の中に戻される。
でも猫は箱に戻されるのが不快なようで、布から手を出して箱を引っ掻き始めた。
そのときにはもうわたしの意識はなくなっていた。
その夜、わたしはまた夢の中で目覚めた。
外は雨が降っている。
雨の匂い。
大粒の雨が窓ガラスを叩く音が聞こえる。
今夜はネズミも走り回っていない。
時折、稲光が室内を青く染めた。
ネズミの気配がないことに少し安堵する。
今日は途中で起こされることはなさそうだった。
わたしは昼間見た光景から、この場所を推測してみる。
北の方。
でも、北欧ではない。
もう少し南、でもドイツっぽくはない。
家具、調度品はしっかりとした一点物。
彫刻が施され、物によっては博物館の展示レベルのものもある。
科学はあまり発達していない。
中世の頃。
やっぱりタイムリープ?
わたしはこの世界の年代を推理してみる。
神聖ローマ帝国の頃?
昼間ちらっと見えた肖像画。
ルネッサンス初期……
自然とそう推測できたことに驚いた。
「アオイ? アオイ?」
また、今晩も誰かに呼びかけられている。
うるさいと思う。
わたしは思考を邪魔されて、少し苛立った。
昼間は猫に邪魔をされて、夜は誰か知らない人に邪魔される。
「アオイ! こっちを見て!」
邪魔しないで!
えーと、何を考えていたっけ?
いつ猫が起きるかと思うと、この時間は貴重だ。
唯一のわたしがわたしでいられる時間。
この猫から抜け出す方法は?
昼間のわたしの意識は途切れ途切れ。
もし意識がなくなったら、猫になってしまう?
「アオイ!」
「きゃっ!」
突然、目の前に金髪美少女が現れた。
「良かった……やっと見てもらえた……」
「あなたは、誰?」
目の前の金髪美少女は溜息を吐いた。
「本当に猫になってしまったのかと思いました」
「?」
「もう十日以上も、呼び続けていたのに……」
十日も……?
猫になって十日!?
「あなたは本当に、わたしの魂と同じ波長なのね」
「……魂?」
「私はエイリス。あなたが昼間見た体の持ち主」
「あっ……」
あの猫の意識に飲まれる前、一瞬だけ見た金髪美少女を思い出した。
それと今まで夢の中で、呼びかけていてくれたことも。
「ようやく繋がった……突然猫の体になって驚いたのもわかるけれど……」
呆れたような思念が届くが、そんなことを言われても困る。
猫の意識に飲まれないように必死だったのだ。
「そう。完全に飲まれたらあなたの魂は消えます」
「え?」
その瞬間、あの日の出来事がフラッシュバックした。
古い洋館の広い庭の片隅にある蔵。
あそこで二階の床が抜けて……
棚が崩れてきて……
あのとき、死んだ?
次の瞬間思い浮かんだのは、飼い猫のマグのことだった。
はっ! マグは?
もし生まれ変わったら猫になりたい、という思いが最後の意識だった。
「わたし、死んだ……の?」
「死んだら魂は、冥府に行きます」
「……冥府? じゃわたしは生きてるの?」
金髪美少女は悲しげな目をした。
「あなたが猫に完全に同化してしまっても私たちの魂は消え、アオイの体は死にます。私の体も……」
「……」
昼間見た寝台で寝ていた少女が死んでしまう?
でも、どうやったら元の体に戻れるの?
こんな世界に飛ばされて?
「あなただけが、頼りなのです……」
そのとき、また稲光が走った。
次の瞬間、轟音とともに雷が落ちる。
猫の耳がぴくっとし、全身が飛び上がった。
「わたしの体に魂を戻してください」
「フギャーッ!!」
猫が飛び起きたとき、またわたしの意識は一瞬にして遠のいた。




