2話 猫の魂
『なんだ? ミレナ?』
『お姉様のことです』
猫はまた箱に入れられて、どこかに連れ出されていた。
目の前にある干し肉の匂いには慣れてしまい、もう食べようとは思わないらしい。
昨日の晩から意識は少しはっきりしてきていた。
猫の目を通して見る世界は新鮮だった。
でも話していることは相変わらずよくわからない。
『エイリスの魂が猫の中に閉じ込められたらしいな?』
『帝都に行けば、元に戻せると思うのです』
カタカタと床を振動させる誰かがこの場所にいるようだった。
猫が警戒しているのがわかる。
その男は険しい顔つきで羽ペンの先をナイフで削っている。
猫が入った箱は手押し車に乗せられて、少し高くなっていた。
わたしは猫の目を通して箱の隙間から、睨むようにその様子を見ていた。
『勝手に帝都大学の魔術学部に転部し、侯爵との縁談を破談にしたもののことなど、どうでもよい。ラトガル侯爵閣下はまだお怒りだ』
冷たく怒りを含んだ声が響き、耳が伏せられる。
『違います! お姉様は最初から宮廷魔術師を目指していました!』
『それは、父上に反対されただろう』
『エドヴィウス兄上様!!』
そのときガチャガチャとうるさい音を立てて、銀色の光る格好をした人間が部屋に入ってきた。猫は箱の中で息を潜めた。
『エドヴィウス様。討伐の準備が整いました』
『騎士団長か。今、行く。私は忙しい』
その男は立ち上がると、少女に冷たく言い放った。
『……お兄様』
嫌な音と匂いがする人間が去ったことを確認し、猫が安心したようでわたしは少しほっとした。
『エイリスお姉様……わたくし、負けませんから……』
『姫様。そろそろ竪琴のお稽古の時間ですよ』
『わかりました……タウニ。戻りましょう……』
猫が箱の中から出ることができたのは、しばらく経ってからだった。
伸びをして、毛繕いをしながら心地よい竪琴の音色にまた眠くなる。
『ミレナ様、大変お上手になりました』
『先生、ありがとうございます』
二つの大きな人間が立ち上がり、猫は耳をぴくりと動かした。
手を舐めながら、その囀りが耳に入ってくるのを聞くとはなしに聞いていた。
『では、また来週です。課題曲の練習をしっかりとしておくように』
『……先生? カリウス師は、まだ領地にいらっしゃるのですか?』
大きな方の人間は溜息を小さく吐くと、猫の方を見た。
その嫌な目に猫が少し尻尾を垂らした。
『インゼルベルガ伯爵様に解雇されました』
『お父様に……』
少し落胆したような声の調子に、猫は少女を見た。
『エイリス姫様を唆したカリウス師は、領地を追放されて帝都に向かわれたそうです』
『私も十二歳になりましたら、帝都の大学に通いたいと思っています』
『……難しいでしょうね。エイリス姫様は勉学に秀でていました。古代語に帝国法、聖典や儀礼に関しても。竪琴も一流でした』
それを聞いてしょんぼりした少女に猫は近づいた。
尻尾を立てて、その足元に擦り寄る。
ご飯をくれたり、撫でてくれたり、なによりあまり驚かしたりはしない、その振る舞いが心地良いと猫は感じているようだった。
『わたくしも……努力します』
『エイリス姫様がこうなった以上、無理だと思いますよ』
そう溜息を吐きながらまた猫を見て、大きな方の人間が部屋を出ていった。
『アウリ……いいえ、エイリスお姉様。必ず、わたくしが助け出します』
猫は膝の上に乗せられて喉を優しく撫でられながら安心感と幸せを感じ、思わず喉を鳴らした。
「にゃん」
川魚の切り身が、一番のお気に入りだった。
大きい人間がワゴンを押して部屋に入ってくると、その匂いの元に視線を向ける。
『アウリ……今日はお魚ですね。お姉様はお好きではなかったですけれど』
猫は膝の上から飛び降りると期待してその優しい瞳を見上げた。
『姫様。お茶にいたしましょう』
『タウニ。ありがとうございます』
『先生がたが褒めていらっしゃいました。古語も舞踊も、今までよりもしっかりこなしていると……エイリス様がこうなって私どもも心配していたのですけれども……』
猫は一瞬にして切り身を平らげた。空になった皿を舐めて、もっと欲しいと訴えたけれども囀りは止まることはなかった。
『お姉様のお身体は、やはりまだお変わりはありませんか?』
『はい。まるでお人形のように寝台で寝たままでございます。お医者様は脈も体温も正常と……』
「にゃーん」
猫は静かに少女の足元に近づいて体をこすりつけた。
『わたくしが帝都の大学に行くことはやはり難しいでしょうか?』
『姫様は今となっては伯爵家の唯一のご令嬢です』
『そうですけど……』
「にゃーん」
猫は尻尾を立て足にまとわりつき、おかわりを要求する。
『アウリ……夕ご飯まで、我慢しなさい』
大きな方の人間に厳しい声で拒否をされて、項垂れる。
『姫様には、古語や芸術の素晴らしい先生方がついています。なにも帝都まで行かなくても、十分ではありませんか』
そう言って大きな方の人間はお茶を注ぎ足した。
『ですがお姉様がもとに戻れば、わたくしも帝都に行けるのではないですか?』
『……高名な魔術師様に診て貰いましたが、魂はもうお身体にはないそうです』
『それは、アウリの中にいるからです!』
大きい方の人間は溜息をついた。
猫はおかわりを貰えないと悟って、もうソファの上で丸まっていた。
『招魂術でももう届かないそうです。それに本当にアウリの中にいても、猫そのものではないですか』
大きい人間はまた猫の方を見て、首を横に振った。
少女が肩を震わせる。
『みんな、お姉様をそんなに簡単に諦めるなんて……』
少女は俯いたまま立ち上がった。
そして猫の前まで歩いてくる。
「ふにゃ」
そして猫を持ち上げた。
『タウニ。お姉様のお部屋に、アウリを連れて行きます』
『まだ、面会のお許しが出ておりません』
『では、お許しをいただきにいきます。お体はあちらにあって、魂は猫にいるのです』
少女の手が震え、猫は嫌がって飛び降りた。
『一緒にしたら、戻るかもしれません。試してみてもいいですよね?』
そう言うと少女は部屋を飛び出して行ってしまった。
猫はそのまま一つ欠伸をするとソファに戻り、また目を閉じる。
そしていつの間にか寝てしまったようだった。
「……良かった。また戻ってきた」
ふくろうが鳴いていた。
昼間、猫の目を通してみた風景について夢の中であっても考えることができて、ほっとした。
わたしは今日のことを思い出してみる。
お姫様のような金髪碧眼の少女が、猫を見て悲しんで泣いていた。
慰めてあげたいと思うが、そう思うのは夜だけ、夢の中だけ。
起きたらまた猫になる。
起きている間のわたしの意識は途切れ途切れ。
意識があっても、ただ朧げに見ているだけ。
わたしは猫になる前は、何をしていたのだろう。
どこで生活をしていたのだろう?
「アオイ……」
今日もその柔らかい呼びかけはあった。
アオイって、わたし?
まあ、いいか……
念願の猫になったし……
猫の前は人だった、という意識は間違いなくある。
そして猫になって自由きままに生きてみたいとも。
でも、人だった時のことを考えるとどのような自分だったかがとても気になった。
意識が猫に飲み込まれていく自分に、恐怖しているのに気づく。
わたし、このまま猫になっちゃうの……?
「……ダメです。諦めては……戻る方法は必ずあります」
「あなたは誰なの?」
意識の奥の方から聞こえてくるその声は、今日もあった。
そんなこと言っても、言うことを聞かない猫のままでどうしたら良いの?
でも、この見知らぬ世界で猫のまま死んでいくのは嫌だ。
「そうです。猫に飲まれてはダメです……」
直接、語りかけてくるその声は記憶にはない。
だけどそのとき、この夢の中で昼間の会話内容が突然、頭に入ってきた。
え? なにこれ?
ミレナ……?
タウニ……?
エドヴィウス兄様?
カリウス師……?
招魂術……?
そしてエイリス……お姉様?
この猫の中にいるの!?
でも、ここはどこ?
わたしはなぜ猫になっているの?
あの少女は、この猫の中にエイリスがいると思ってる?
そうだ。
明日はなんとか猫の体を動かして、あの少女にわたしが猫に入っていることを伝えるんだ。
それだけ決めると少し安心して、それからは夢も見ずにぐっすりと眠った。




