1話 完全に猫
わたしが猫になったと気がついたときは、目が覚めてからしばらく経ってからだった。
耳の後ろが痒いと思って掻いたのは左の足だった。
あれ? と違和感があり、なんともなしに腕を舐めているときにその白い毛むくじゃらの手を見て、猫になっていると気がついたのだった。
さっきから鳥の鳴き声が気になって仕方がない。
音の洪水の中で、特に窓辺で鳴いている小鳥を狙っているようだった。
猫の足は、毛足の長い絨毯に沈む。
ひょいと近づいたつもりだったが、気がつくと後ろ足が跳躍し出窓に飛び移っていた。
小鳥は驚いて逃げ、窓ガラスの向こうの木の枝に止まった。
壁の厚みと鉛の枠、白漆喰と赤煉瓦。
光が淡く室内に差し込んだ。
北の方だ……
木枠と波打つ茶色いガラスがぼんやりと外の景色を映し出す。
木立と草原が広がり、その向こうには雪を頂く山々がわずかに開いた窓から見えた。
「カッカッカッ」
小鳥を呼ぼうとする声が自然と喉から漏れた。
鳥が舞い、小動物が木々の間を忙しげに走り回っている。
そのたびに猫の目は、機敏に動き回るものを捉えた。
わたしはどうやら、完全に猫になっているらしかった。
一瞬、猫では困ると思ったが、そう言語化できるだけで少し安心できた。
『アウリ、オキタノデスネ?』
「フニャア!」
急にわたしは抱え上げられて、びっくりして爪が指先から飛び出した。
爪が宙を掻き、暖かな腕に抱かれる。
さっきから気になっていた生き物だった。
でも、この部屋にはもう一つ大きな生き物がいる。
『さっきから、呼んでいるのにアウリったら……』
「にゃ?」
何かを話しかけられているが、言葉がわからない。
外国語……?
聞いたことがない響き。
『ねえ? アウリ?』
「にゃん」
アウリってわたし?
『アウリ!』
どうやらわたしは、アウリという名の猫らしい。
わたしの猫の目が金髪碧眼の少女の姿を捉えた。
欧米人だ。
ここはどこ?
見慣れない服。
まるで中世の肖像画に出てくるようなデコルテが開いたひらひらとした衣装。
さっきから考えることができなくなっていく、というより五感が押し寄せて思考を奪っていくような気がした。
少女の胸元のブローチが青白く輝いている。
そのブローチの中には文字のようなものが黒く沈んでいた。
そのブローチを見ていると、何か不快なことが起きる予感がした。
少女に抱えられたまま動けない。
というのも暖かい布で手早く包まれて身動きが取れなくされていたので、ただ驚いて固まっていたのだ。
『今日は、魔術師の先生に診てもらわなければいけない日でしてよ?』
『姫様、間もなく馬車の用意が整います』
そう大人の女性の声が聞こえた。
でも、意味はわからない。
わたしは体を動かせないまま暗くて狭い木の箱に閉じ込められた。
がちゃりと留め具がかけられる。
閉じ込められる瞬間、少女の胸元のブローチがまた光った。
琥珀……?
そのブローチから何かを感じたけれど、猫に意識が飲まれていく。
猫が嫌がってる。
箱の中は外が見えない。
音と匂いの感覚が強くなっていく。
でも布は安心できる匂いがした。
外は相変わらずうるさいが、無視することは簡単だった。
あくびを一つして、耳を伏せて目を閉じた。
*
『では、先生。アウリは本当にお姉様なのですね?』
『招魂の術の影響でしょう……』
目が覚めると別の人間の声がした。
何を話しているか全くわからない。
嫌な匂いだけが気になった。
『せっかく宮廷魔術師になれるように努力されていましたのに……』
『このような事象は、今まで聞いたことがありません』
『本当にお姉様なのですか? お姉様が好きなお茶も甘いお菓子も、お気に入りのお洋服にも、まったく反応しないのです』
『猫ですからな』
「……」
猫は退屈していた。
早く出して欲しいと訴えているのを感じる。
お腹も空いている。
薄ぼんやりと箱の内部が浮かぶ。
鼻をひくひくさせると、髭が箱の大きさを感知した。
一つ伸びをすると、布から手を出して爪でがりがりと木の板を引っ掻く。
「ニャアニャア」
『アウリ? ごめんなさいね。こんな狭いところに閉じ込めて』
上の蓋が開いて明るくなるが、すぐに光が調節されたようで眩しさに慣れた。
布ごと体を持ち上げられる。
猫の目の前に黒いぼんやりとした大きな男がいた。
逃げ出そうともがくが、しっかりと布に包まれていて身動きが取れない。
その黒い男は何やら呟いて、猫に手のひらを向けた。
『魂は、確かにエイリス姫様のものです』
『やはり……夢ではなかったのですね……』
何かを話しているが、猫は別の物音に耳を澄ましていた。
『しかし、完全に猫になってますな』
『そんな、ひとごとのように……どうすれば、元に戻りますか?』
『このような田舎では、なんともなりませんな』
「にゃあにゃあ」
『では、帝都の魔術師だったら……?』
『可能性はありますが……』
何かを長々と囀っている。
がさがさと駆け回る何かが部屋の外にいるようだった。
意識が物音に向かった猫は、包まれた布から何とか逃れようと身をよじって手を出したけれど、また布を被せられてしまった。
『先生、今日はありがとう存じます。お姉様の魂だと確信できて、何よりです』
『お役に立てず、申し訳ないですな』
また箱に戻されたけれど、猫は干し肉を貰えたことに満足していた。
夢中になって噛み砕いているうちにまた移動しているようだった。
『お兄様たちに、何とか協力して貰えないかしら?』
『難しいでしょうね』
大人の女性の声は少し甲高く、猫は嫌そうに耳を伏せた。
『ですが三番目のお兄様でしたら領地に戻っているはずです。お優しいですし……面会予約を出しておいてくださいませ』
『はあ……かしこまりました』
干し肉を食べ終わると箱の中でやることがなかった。
たくさんの音にも慣れてきている。
でも小鳥と小動物の鳴き声にはどうしても反応せずにはいられなかった。
わたしの意識が再び猫に飲み込まれていく。
「ニャアニャア!!」
『お姉様。お静かにしてくださいませ』
爪を研ぐ衝動が止められない。
ため息が聞こえたが、止められずに思う存分、ガリガリと板を引っ掻いたのだった。
*
夜は魚の切り身を与えられた。
猫の嗅覚はその美味しそうな匂いを敏感に感じ取る。
食べ終わって満足しながら爪の間を舐めていると次第に眠くなってくる。
柔らかなクッションがお気に入りだった。
猫は毛布の上で丸くなった。
猫が満たされたことに、わたしも安堵した。
猫の生活も悪くないな、と思いながら。
その晩、夢を見ていた。
フクロウが鳴き、風が吹いている。
ネズミがどこかで走り回る音が響く。
猫が寝ている時だけが、この夢の中だけが、わたしがわたしでいられる時間だった。
「昨日の夜も、夢の中でこうやって、考えることができた……」
猫がネズミの鳴き声を聞き取る。
でも、今は必死に猫の本能を抑えつける。
目が覚めたら、次はもう夢は見ないかもしれない。
猫になりたいと思った、最後の意識がそれだったような気がする。
でもまさか、本当に猫になるなんて……
もしわたしがわたしを認識できなくなったら、見知らぬこの世界で猫のまま生涯を終えてしまう。
猫の目で見たこの世界の記憶を思い出す。
「ここはどこ?」
波打ったガラスは、昔の手吹きガラスに似ている。
気泡と鉄分を含み歪んで濁ったガラス。
彫刻が施された家具。
天蓋付きの寝台は厚い布がかかっている。
「博物館でしか見たことがない。もしかして、タイムリープ?」
猫の目を通して見たこの世界になぜか胸が高鳴った。
知りたいという狂おしいほどの焦燥感。
でも話してることも、分からない。
第二外国語で習ったフランス語でないことはわかった。
でもなぜか何を話しているのか夢の中だけ、わかる。
この世界が夢ならば良かったけど、起きたらまた猫の生活が始まる。
いつからか、それを繰り返しているようだった。
どうやったら、この悪夢から目覚めるの?
「葵! 葵! 起きて!」
記憶の中で誰かが呼ぶ声がする。
でも、思い出せない。
「アオイ……諦めないで……」
そのか細い声も夢の中で昨日も出てきたのを思い出した。
誰?
金色に輝くストレートヘア、白い肌、助けを求めるように見上げる碧い目。
あなたは、誰?
そして、わたしはどうしてこんなことになったんだっけ?
断片的な記憶がもどかしい。
昼間見た少女のブローチを思い出す。
あのブローチからは不気味な気が放たれていた。
琥珀のブローチ。
あんな大きなブルーアンバーの琥珀は見たことがない。
いや、どこかで見たけど思い出せなかった。
紫外線を通さなければ、青く見えない琥珀。
だけど猫の目を通すと、そのどこまでも透き通った深い碧が冷たく、怪しく光っていた。
そして何かが石の中に閉じ込められている。
ぞわぞわとした幾多の思念を感じる。
ポジティブなもの、ネガティブなもの。
そう……わたしが人間だったとき、あんな感じにいつも囲まれていたんだ。
思い出そうとすると頭が痛んだ。
頭の中で規則正しい電子音が鳴り響いている。
目覚める前の意識が混濁しているような、あの感覚。
猫の耳がぴくりと動く。
起きては、ダメ……
この建物の埃っぽい乾燥した空気。
あの匂いと同じ。
古い家の蔵、埃まみれの家具、ネズミが骨董品の周りを走り回っていた。
わたしは白い手袋をして、一つ一つ鑑定していく。
いや、その前に埃を綺麗にして梱包して……
何かを思い出しそうになったとき、小動物の足音が聞こえて耳が跳ねた。
あっ、待って……
そしてネズミが部屋の中に入ってきたのを感知したときには、もうわたしはわたしではなかった。




