プロローグ
古い蔵だった。
もう数十年は開けていないと依頼主は言った。
なんでも祖父が金目のものだけを突っ込んだという。
先月この地方で起きた地震で、古い洋館は立ち入り禁止となった。
取り壊して更地にする予定だと言って、その依頼主は蔵の鍵を店長に渡した。
そして朽ち果てた洋館を一瞥した。
「忙しいので私は東京に戻ります。開かなかったら扉ごと壊しても構いません」
壮年のその男はポルシェを車庫から出すと東京に帰っていった。
錆びついた南京錠がバチンとカットされると男たちで扉を開ける。
ぎぎい、と軋んだ音とともにゆっくりと蔵が開いた。
わたしたちは作業着に軍手と防塵マスクをつけ、淀んだ空気の中でヘルメットのライトを点けた。
大量の埃が舞い、視界を白く閉ざす。
「早く、中に入れ」
「はい」
「窓はどこだ……?」
「……う」
つんとする尿臭、獣臭、カビ臭さが漂う。
わたしは先輩に背を押され、むっとする蔵の中に入っていった。
晩夏の午前中、すでに暑かった。
作業着の中は汗だくで、滴る汗が髪を濡らす。
そのとき先輩の声が響いた。
「窓を開けて、早く換気だ。うぇ……」
階段も板も腐食が進み、体重の軽いわたしが行かされた。
地震で崩れたモノの間をゆっくりと慎重に歩いていく。
わたしは蔵の二階の窓を開けた。
光が差し込み、数十年日の目を見なかった古物たちが、わたしを待っているのが見えた。
風が通り、埃とカビの粒子が舞い上がる。
「一時、撤収!」
「この暑さ、なんとかならんか?」
北関東の田舎は蝉時雨がすごかった。
広い庭にシートを敷き、道具袋を腰に巻き蔵からの古物を迎える準備をして換気を終えるまで待つ。
なんで、こんなことをしているんだろう?
こんなはずじゃなかった。
もともと古いモノが好きだった。
思い出すのは小学校二年生のとき、初めて連れて行ってもらった国立西洋美術館。
わたしは一枚の絵の前で動けなかった。
今ならばわかる。
フランドル派の肖像画。
企画展だったようで次に訪れたときに見られなかったけど。
でもその出会いが人生を変えたのだ。
描かれた衣装、室内の様子、オーク材のパネルに古い額縁。
吸い込まれるようにその世界に魅入ってしまった。
五百年以上も昔のものが残ってる。
説明書きを見て、唾を飲み込んだ。
モデルの息遣い。
絵筆、絵の具の匂い。
静かで乾燥した空気。
あの美術館特有の無機質な匂いが消えていく。
全く知らないはずなのに次々と絵が語りかけてくるようだった。
視界が揺らぎ、ぞわぞわと鳥肌が立ち、意識が混濁してくる。
「……アオイ。行くよ」
「……お父さん、待って、まだ見たい」
父は疲れた妹をおんぶして溜息をついた。
「早く帰らないと遅くなる」
「お父さん! 大きくなったらここで働きたい!」
父は困惑した顔で母を見た。
母は首を傾げて言った。
「美術館の職員だったら、学芸員ね。大学で博物館学を勉強して……」
「博物館学!? わたしガクゲイインになりたい!」
「アオイは博物館も好きだしな」
博物館学という言葉に胸がときめいた。
このとき、わたしの進路は決まった。
モノに蓄積された時間や作り手の意図を想像するのが好きだった。
美術品、工芸品、歴史的建造物。
ほどなくしてモノが語りかけてくるようになったことに気がついた。
そうは言ってもオカルト的なものでは決してない。
モノの文脈を読み取っているだけ。
……だと、思っていた。
美術館に行った翌年の正月、祖父の家に挨拶に訪れたときだ。
いつものように叔父さんは、わたしに写真やカメラを見せてくれた。
叔父さんは古いカメラが好きだった。
デジタル全盛のこの時代であっても、自宅に暗室を作り白黒写真を焼いていた。
六六判の二眼カメラ、ライカ、ニコン……クラシックなカメラが並んでいる。
その重厚なカメラたちがわたしも好きだった。
いつもは綺麗に手入れされて輝いて見えていた。
でもその日は、カメラたちがくすんで見えた。
そう、もう二度と手入れをしてもらえないというように。
「お父さん、叔父さん、死んじゃうの?」
「バカなことを言うんじゃない」
自宅に帰った翌朝、祖父から父に連絡が入った。
叔父さんが脳出血で倒れ、帰らぬ人になったと。
父は不気味なものを見るようにして、わたしを見たことを覚えている。
本当に死んじゃったの……?
あんなこと言うのではなかった。
激しく後悔したわたしは、なにを感じてももう口に出すことはなかった。
大きくなったわたしは地元のアンティークショップ巡りや美術館、博物館に通い詰めた。
そして第一希望の国立大学は落ちて、学芸員の採用実績の高い私立大学に入学したのだ。
でも学芸員の正式採用は狭き門。
「今年の採用はゼロだって……」
「院卒でも厳しいか……」
採用試験を受けたすべての博物館、美術館から不採用通知を受けたわたしは絶望の底にいた。
慰めてくれるのはアルバイトをしていた古物商の店先に捨てられていた黒猫のマグだ。
ペット禁止のワンルームマンションだけど、わたしが引き取った。
今、わたしの唯一の癒し。
今日は帰りが遅くなりそう。
マグは怒るだろうな。
マグとのいつものやり取りを思い出す。
「もう学芸員は無理かな……」
「にゃん」
マグしか愚痴をこぼす相手がいなかった。
「はあ……この給料じゃウィーン美術史美術館にもいけない」
かつかつの貯金残高。
憧れのミュージアム。
ハプスブルク家の膨大なコレクションを収めた世界屈指の美術館。
企業への就職活動を一切していなかったわたしは、そのままこのアルバイト先に就職したのだ。
働き始めてからも博物館、美術館職員募集に応募したがどこも不採用だった。
三年が経つ頃には、モノの声を聞くことに疲れ始めていた。
そんなときだった。
この古い洋館の蔵の査定の依頼があったのは。
ドイツに留学して現地人と結婚し、住み着いた大学の先輩を思い出す。
絵葉書には現地の小さな美術館に非常勤として勤めはじめたことが書かれていた。
「いいなあ……わたしも……」
「なんか言った?」
「……いえ」
換気はまだ終わらない。
「アオイ。こっち手伝って」
「……はい」
今も蔵の入り口近辺から運び出した古いものに囲まれている。
古物を売れるものと廃棄するものとで黙々と分けていく。
はあ、まだ先は長そうだ。
わたしは溜息をついた。
少しのヒビが入っただけで、価値が下がるマイセンの焼き物。
カビた友禅。
古い写真。
怨念がこもったモノ、モノ、モノ……
「これは売れない」
先輩はわたしが見ていた桐の箱の中の古物を見て、廃棄用のビニール袋に突っ込んだ。
大切に丁寧に保存された博物館のものとは違う。
美術館や博物館みたいに綺麗に修復して保存して展示して……
わたしは溜息をついて古い洋館を見た。
「そろそろ、換気が終わったな」
先輩の声で、わたしは現実に引き戻された。
「……あ……はい」
古い洋館、中には何があるのだろう?
見てみたいけど。
立ち入り禁止のロープをちらりと見て、蔵に向き直る。
モノの声を聞きたくないと言っても、こういう現場に胸が躍るのは仕方がない。
もしかしたら蔵の中には博物館級の掘り出し物が眠っているかも。
さあ、行くか。
わたしは首に巻いたタオルで汗を拭った。
地震の影響で蔵の中のものは散乱していた。
「焼き物は、だめかなあ」
先輩がぼやく。
ムッとする蔵の中に入り、入り口近くから次々と広い庭のシートの上に運び出していく。
人が通れる道を作り、お宝を探す。
助けて……
蔵の中を見回したそのとき、わたしに呼びかける声が聞こえたような気がした。
無視、無視……
歩くと埃とカビの粒子が舞い、ヘッドライトが粗い粒子を映し出す。
「……私の魂を助けて」
また……呼ばれた。
微かに聞こえる、わたしに助けを求める声。
呼びかけてくるモノに反応しても、ただ疲れるだけということは経験的にわかっている。
また聞こえた。
気になるのは仕方がない。
「もう……わかったから」
わたしは一人、崩れたモノの間を縫って奥に向かった。
「これだよね?」
ライトを照らすと埃を被った宝石箱があった。
片手に乗るずっしりとした重さと大きさ。
真鍮とガラスは埃まみれで中は見えない。
でも古いモノだということはわかる。
「あなたが呼んだのね?」
蝶番は錆びて取れている。
でも、もう声は聞こえなかった。
溜息をついて蓋を開けると中には大きな琥珀のブローチが、古ぼけたクッションに一つだけ入っていた。
「あ……」
琥珀のブローチを取り出した瞬間、箱の底が抜けるようにして壊れて落ちた。
乾いた音を立てて箱はバラバラになった。
「あーあ……」
でも……
虫入りだ……
そして、この色。
わたしはヘッドライトを消して道具入れから、ブラックライトを出して点けた。
ブルーアンバーだ……
UVライトで青白く輝く琥珀。
そしてヘッドライトに付け替えて、ルーペを取り出す。
虫?
でも、虫じゃない?
なんだろう?
何かの文字?
生物の授業でみた染色体の X とも H ともつかない文字。
その文字を見ているとなぜだか吸い込まれそうな感じになって、慌てて目を逸らした。
プラスチックではない。
シルバーの金属枠は硫化して黒ずんでいる。
裏の留め具も腐食しているようだ。
かなり古い?
本物だ。
でもどうやって文字が中に入ったの?
あとで詳しく見てみよう。
店長はこういうのに詳しい。
少し考えて琥珀のブローチをハンカチに包んで道具入れのポケットに大切にしまった。
だから気がつくのが遅れた。
「おい! そこ危ない!」
「え……」
わたしが立ち上がったとき二階の床が抜けた。
入り口にいたスタッフの叫び声が聞こえる。
そして壁際の棚が崩れてくるのがヘッドライトの灯りに映った。
まるでスローモーションのように棚のモノがわたしに降り注ぐ。
一際大きい衝撃。
棚が倒れ体が押し潰される。
え?
こんなとこでわたし、死ぬの?
マグ……
寂しげに泣いていた子猫のときのマグを思い出した。
マグは妹が引き取ってくれるかな?
埃が舞い上がる中、わたしはふと思った。
次、生まれ変わったら猫になりたい。
もうモノの声は聞きたくない。
だから、こんなことになる……
それがわたしの意識の最後だった。




